海の国愛媛の出身者には、「愛媛の海偉人」と語り継がれている人達がいる

 

 このホームページは、ロシアのシベリアで捕虜生活を余儀なくされていたトルコ人千余名・またロシアの内戦で行き場を無くした小児800人をアメリカ赤十字社の傭船として帰還に幾多の試練を乗り越え奮闘努力た「平明丸」・「陽明丸」(両船共に船籍は愛媛県温泉郡(現)松山市三津浜港)と船主で任侠あふれる松山市出身の勝田銀次郎を紹介する企画です




勝田銀次郎 (1873-1952)

 勝田汽船・大洋汽船社長 貴族院議員、衆議院議員、神戸市長、神戸市議会議長

愛媛県松山市大街道一丁目三番地(銀天街入り口あたり)で米穀商の家に長男として生まれる、松山中学では正岡子規・秋山真之海軍中将の6年後輩で俳人高浜虚子や川東碧梧桐らと同級生。
松山中学 東京英和学院(青山学院の前身)

昭和3年「現代実業家大観」に記載された原文より

●「姿性、磊落、平易洒脱にして自信が強い。交際は真摯にしてお上手なく、衒気なく、動作がいったいに垢抜けている。また体力の旺盛と共に覇気満々たる人でるが、これがあるがために細心の注意をわすれることがない。 ●部下友人に対して真情流露の美質を有し、至って親切である。 勇住邁進、天馬奔空の人ではない。むしろ緻密に計り、秩序的に整理し、堅実に進むのが特徴である。

●万事が理論的で、それにはづれるようなことはは承知せず、剛健の気象は自らの眉字の間に溢れて、極めてシンプルライフを愛好する。

●風姿淡麗、気格
逎高、常に事業に生きる人なるが故に特に趣味として挙ぐべきものはない。



陽明丸事件とは・・・ 平明丸事件とは・・・

大正九年(1920)勝田汽船の「陽明丸」は、第一次世界大戦後ロシア内戦の大暴動を逃れ、サンクトペテルブルグから逃避行し一年以上もアメリカ赤十字社の保護のもとシベリアに滞留し、送還のめどがたたないでいた四歳から十八歳のロシアの子供達約八百余人を、極東のウラジオストックからパナマ運河を経由しほぼ地球を半周して故郷のペテログラードまで約三ヶ月間の困難な大航海の末、故郷に送り届けた実話である。
 この頃は日露戦争が終結してまだ十数年さらに革命によって世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係にあり、当然ながら日本政府でも表面的には関与できず、日本郵船、大阪商船など社船を動かすことのできない中で、アメリカ赤十字社の要請を受けこの難題を見事に解決したのが勝田銀次郎である。勝田汽船は物資を運ぶ海運会社そのため貨物船しかなく八〇〇余人もの子供が寝泊まりできる客船を所有していない彼は会社で一番新しい貨物船陽明丸を客船に艤装し子供達が長期間乗船出来るよう洗面所、トイレ、寝室等増築、その陽明丸の改造費用を勝田が私財で賄った。
 その額は現在の価値で数億円、通常一年かかる客船への艤装を約一ヶ月で仕上げた。
 勝田銀次郎が危険極まりなく大損失をもたらす可能性のあるこの至難の事業を大金を拠出してまでも決行したのは、持ち前の義侠心であった。

 なお日本側の資料としても船長茅原基治が「露西亜小児団輸送記」として航海中の顛末を生まれ故郷岡山県笠原市の金光図書館に残している、そして茅原基治は銀次郎のことを「仁侠に富める船主勝田銀次郎」と前記航海顛末に彼の人柄として書き残している。


「金沢市在住の篆刻(てんこく)家・書家の北室南苑(きたむろなんえん)さんがサンクトペテルブルクの図書館で「ロシア絵本と篆刻の融合」と題する作品展を開催。その時出会ったロシア女性、オルガ・モルキナさん(57)が話し掛けてきたのが陽明丸事件が日本でも知られる事のなるきっかけだった。
 この女性は今から90年前に日本の「ヨウメイ丸」という船に救助されのちに結婚した子供の孫で、「命を助けてくれたヨウメイ丸のカヤハラ船長の子孫にお礼を言いたい」と協力を求めてきたそうです。
 初めは90年という壁に阻まれ難航したが、「ヨウメイ丸」は神戸の勝田汽船(勝田銀次郎社長)の「陽明丸」ということが判明。「勝田という人は相当な額を寄付し、人道的な立場でロシアの子供たちを救う手助けをした」(北室さん)ことが分かった。(2013年9月16日朝刊より

       詳しくは陽明丸事件HPへ


 大正七年八月、日本はチェコ兵俘虜の救出を名目にシベリア出兵を開始、その最中、英国を通じてトルコ赤十字社から日本政府へロシアの俘虜となってウラジオストクの俘虜収容所にいるトルコ人千余名を母国トルコのコンスタンチノープル(現イスタンブール)まで帰還させてほしいと依頼があった。
 日本国は大正十年二月二十三日、大洋汽船(勝田銀次郎社長)の「平明丸」を傭船、陸軍中佐津村諭吉を指揮官に任命し、吉田真(陸軍参謀大尉),中村競(陸軍第一衛病院軍医少佐)、通訳一名、主計官一名と勝田汽船の原田一得を船長に任命し、トルコ人俘虜と共に平明丸に乗船ウラジ
オストクを出港した。

 平明丸は唯一の寄港地コロンボ港を経由し地中海に入ったが、当時トルコ軍と戦闘状態にあったギリシャの戦艦ヘラクレス号の合図で数隻の魚雷艇が立はだかり拿捕された。
 指揮官の津村諭吉中佐はギリシャ軍の主張する俘虜の引き渡しに応じなかったため、船ごと全員が現地(ギリシャ)のペレウス港で抑留されてしまった。

 日本はギリシャに対し平明丸の無条件解放を求め外交努力を重ねるが交渉は難航し無為に時間だけが流れた。
 ギリシャ政府はその間、船上の者に食料や物資供給をきちんと配給しなかった。日本陸軍兵士・平明丸乗組員も同じ扱いで最大の苦悩は飢と水不足であった。

 さらに 船内では衛生状態も悪化し伝染病のチフスが発生し吉田大尉外乗組員もこれに襲われ火夫森岡某病死、遂に船長田村一得も客死、同年アテネ市郊外に墓標を残す結末となった。
 時同じく海外視察中であった勝田銀次郎は、ニューヨクから逸早くイギリスに渡り旧知のフランス大使兼国際連盟対しの石井菊次郎らとこの難局解決のため協議そして勝田汽船ロンドン事務所からパリに三回、ローマに一回、平明丸解放のため百万尽力し抑留以来百六十余日、遂に国際連盟の名においてギリシャ赤十字社の手に引き渡す事で解決した。



※一部大正十二年発行神戸五十年市史参照

    

詳しくは平明丸事件HPへ



勝田銀次郎年表


解  説
明治6(1873)年10月1日
 銀次郎には二人の姉がおり長女イチは村田家の養女となり二女ヨネは中川家に嫁ぐ。
 イチは困った人を見ると知らぬふりを出来ない性格で少年銀次郎の将来に継る大きい影響を与えた。
 二女ヨネも広島で証券会社を経営、独立当初の勝田商店を支援した。
 祖母ツギは旗本の娘ということである。

 
正岡子規、秋山真之より5~6才後輩にあたり、それぞれ実家は現在の中学校の校区内になる、将来絡み合うもう一人の愛媛吉田町出身のの海運王山下亀三郎は正岡子規と同学年になる


 愛媛県松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目三番地三銀天街入り口)で米穀商の家に父林次郎、母ムメの長男として生まれる。
 
明治24(1991)年 (18才)  
小学校を卒業してから家業を手伝いながら松山中学に通った。
 同高では俳人高浜虚子、柳原極堂と同級生、後に極堂の経営する「伊予日〃新聞」で給料を払えず勝田に借金を頼んだときに勝田自身も大戦後の不景気で会社を閉じ財務整理をしていたにもかかわらず、すぐに千円出した。
 銀次郎は18才で風雲の志を抱き松山中学を卒業すると同時に松山を後にし、北海道を目指して旅立つ。
 前年明治23年9月27日父、
林次郎53歳で死去。
 
同年
 「評伝勝田銀次郎」によると一路東北へ北海道に向かう汽車の中で、東京英和学校長(現、青山学院大学)、本多庸一と隣合わせになる。
本多庸一院長

  銀次郎の新天地開拓の抱負を聞いた本多校長は、銀次郎の無謀をいましめ東京英和学校に入学することを奨め世界に雄飛するためには英語を身につける大切さを説き、もしその気があれば学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に手渡した。
 そして銀次郎はその足で東京に向かい、1891年~1894年、青山学院を改称する直前の東京英和学校に学んだ

 銀次郎は、実家の仕送りに頼るわけにも行かないので学内の小間使いや、新聞配達など課外のアルバイトで生活でまかなった。
 

 当時東京英和学校は、関西でいえば新島襄の同志社と同じキリスト教系の学校で広い構内にまだ2棟の校舎と新築の寄宿舎があるだけだった。
 
外国の文化・知識を身に付けることができたが国語、漢文が優秀で訳読、数学、物理は不得意な学生だったようである。
 

 

明治27年(1894)21歳
 次に銀次郎は実業界に挺身し、大阪・神戸において貿易海運業に身を投じた。
 明治27年(1894)日本は清国政府に宣戦を布告、日清戦争が始まった。
 
銀次郎は 従軍記者になりたいと「従軍記者になって前線の様子を伝えたいと高等部2年で中退。
 
残念ながら従軍記者にはなれなかった。

明治29年(1897)25歳

 大阪中之島の貿易会社・吉田商会の社員となる。
 同社は程なく解散となる。
 足立輸出入会社に入社のため神戸に来る。

 世は貿易海運発展の情勢にあった。
明治33年(1900)年29歳
 銀次郎は独立して神戸栄町通に「勝田商会」を創業。
 日露戦争後は同業者とウラジオストク航路を開設。
 運送中継ぎ船舶代理業の阪神間総代理店となり活躍した。

 本籍地を松山の生家から神戸に移し この異郷の港町に骨をうずめる決意を固める。

 

明治441911)年38才

 母のムメ死去。80年の生涯だった。
 

松山市柳井町にある父の眠る柳法龍寺の墓に納骨

大正31914)年41歳
、第一次世界大戦勃発
第一次世界大戦19141918
 海運業界が未曾有の活況を呈する、運賃・船価は暴騰し大型船は重量トン当たり100円から800円にまで跳ね上がった。時流に乗った銀次郎は一気に我が国海運業界の指導的立場にのし上がる。
 「神戸海運50年史」
勝田商会は大正元年御代丸を購入、4年海福丸、永代丸、井出丸、興安丸の4隻を買取、海永丸、海祥丸など3隻を建造、11年には10隻6万7千トン、最盛時には20隻15万トンの商船隊所有。
 
大正51916)年43歳
 

 勝田汽船株式会社を設立。

旧居留地の海岸通り


手元資金も1億円にもなっていた銀次郎は代表取締役に就任した。
 ワンマン肌で気っぷのよい彼が真っ先に「巨船主義」を掲げ神戸船主のリーダー株になった。

勝田汽船本社  旧居留地の仲町二十七番地

勝田汽船東京支店

大正6年(1917) 44歳
 神戸市 市会議員となる。 
 大正6年(1917)  神戸商船社長就任
 5期17年間在任この間2回議長を務める。
大正7年(1918) 45歳

 ○大洋汽船社長に就任

 ○神戸商船社長

 ○日本船主同盟会理事

 ○神戸海運業組合長

 ○大口納税者の為勅撰貴族院議員に就任。

 ○11月世界大戦終結。
 
 ○青山学院大学 勝田ホール落成。


勝田ホール
東京駅等を設計した辰野金吾の設計
       
(母校青山学院への貢献

勝田ホール」煉瓦造2階建、総床面積約2000平方m、ひとつの建物をまるごと寄付する。
 院長館の建設費用も寄付。寄付総額31万円。
 落成式は陸軍軍楽隊の演奏にはじまり、文部大臣中橋徳五郎、東京府知事井上友一、早稲田大学の大隈重信侯爵、瀬田男爵等が祝辞を述べた。

大正8年(1919)46歳
 ○大洋汽船社長就任
 
 ○大洋海運 相談役 、国際汽船 監査役

銀次郎の寄付行為


 ○大正5年 ○故郷松山市の(現)済美学園校舎「勝田館」として屋内体操場と教室6室を寄贈 当時の金額で1万6千6百4十円也
 済美学園100年史の中で船田操女子は「このご厚情は死ぬまで宝物のように大事にします」と述べている。


大正7~8年、銀次郎各方面の公共施設に多額の寄付をする。

(1)松山市三津浜の築港費として1万円
     
(2)米価騰貴の際救済費三千円
 
(3)神戸高商講堂一棟及び糸崎小学校建築費1万円
 
(4)昭和2年 日本赤十字社兵庫県支部へ1万円

 
(5)俳人高浜虚子、柳原極堂と同級生、後に極堂の経営する「伊予日〃新聞」で給料を払えず勝田に借金を頼んだときに勝田自身も大戦後の不景気で会社を閉じ財務整理をしていたにもかかわらず、すぐに千円出した。


 

 大正8(1919)年56才、高額納税者として紺綬褒章を受く。
 大正9(1920)年、47才、1918年に起きたロシア革命後の内戦で難民となった4歳から18歳の子供達及び引率者900余人がウラジオストlックでアメリカ赤十字社に保護されるという事件があった。
 
さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社からの要請により、日本の貨物船が子供たちの受け入れを決めた。

 その船が勝田汽船所有の『陽明丸』であった。 陽明丸は貨物船だった為、銀次郎が多額の改造費を寄付して子供たちが航海できる客船仕様に改造された。
 
  陽明丸(船長:茅原基治)は大正9年(1920年)年7月、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海した後、フィンランドへ送り届けた。子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラードへ戻ることができたという。



児子達を乗せて航行中の陽明丸



詳細は陽明丸ホームページで・・・
大正10(1921)年 48歳
 、市議会議長に選ばれる。

 都市計画視察のため約半年間欧米出張。
 
 平明丸事件勃発


 神戸 摩耶山麓青谷に一万坪の敷地に勝田邸を新築

第一次世界大戦後は勝田の会社も下り坂になっていたにもかかわらず危険と隣合わせでどの船会社も引き受けてのない大戦中の捕虜の送還にも協力して社有船海久丸をドイツの赤十字社に傭船して独、墺(オーストリア)の捕虜3000人をウラジオストックより故郷まで輸送に任じたり、チェコやトルコ人捕虜を欧州に送り届けるなど採算を度外視した仕事を引き受けた。
 そんな中、同年日本陸軍に傭船された平明丸がウラジオストクからトルコ(現)イスタンブールまでロシアで捕虜となっていたトルコ兵1000余人送還する途中地中海のギリシャ沖で当時トルコと交戦中であったギリシャに平明丸が拿捕勾留される事件が起こった。

 大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。
 

大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。銀次郎はとにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げるべく素早く行動を起こす。
 この時、市会議長だった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ねまわって、義援金の拠出の要請に奔走した。
 義援金の目標額は100万円をめどに考えていたが、最終的には150万円以上寄せられた。
 その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達はこんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。

 二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。
船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。

 横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。

 部屋に篭もり、救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。

 この震災で勝田ホール倒壊する。





関東大震災はの源地は相模湾北西部、マグニチュード7.9と推定され、死者・行方不明者は約105000人に及ぶなど、甚大な被害をもたらした。
この震災は、東京市(現在の東京都)を中心に大規模な火災を引き起こし、東京市の約4割が焼失するほどの被害となった。






◎関東大震災

大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。銀次郎はとにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げるべく素早く行動を起こす。

 
この時、市会議長だった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ねまわって、義援金の拠出の要請に奔走した。
 義援金の目標額は100万円をめどに考えていたが、最終的には150万円以上寄せられた。
 その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達はこんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。

 二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。

 船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。

 横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。

 部屋に篭もり、救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。

 この震災で勝田ホール倒壊する。

 銀次郎、巨万の富を握ったのも束の間、大戦終息時の見通しを誤り数年後にはその財産を失い負債を負う。
昭和8年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現在も現存。

  大正15(1926)年 53才、勝田邸を手放す。 邸前の小住宅に移り住む。

昭和4年(1929)56歳
 国際連盟神戸支部長

 ○神戸船主会会長

 
 勝田埋築株式会社経営
 昭和5(1930)」年57才、衆議院議員トップ当選する。 

※当時は市議会議員を勤めながら衆議院議員になれた。

 昭和8年(1933)60才、神戸市長に初当選

 昭和12年(1937)64才、市長再選

 昭和13年(1938)65才、阪神大水害その復旧に奔走する。
(別記詳細記載)

 昭和14年(1939)66才、第2期神戸築港完成。

 昭和16年(1941)68才、市長職を退く。太平洋戦争勃発する。

神戸海運界の巨頭として、不審の業界が勝田当選へ全力を傾けたという。

昭和10年楠木正成公600年大祭が開催され今に残る湊川公園の「大楠公騎馬像」台座の「大楠像」は勝田の揮毫である。

余生を神戸市内で送る内、第二次世界大戦時の戦災に遭って家屋敷を失い、加うるに公職追放を受けた失意の身に病を得、夫人に先立たれて淋しくその生涯を了えた、というまことに浮沈に富波乱多い人生をおっくった人である。

 神戸市は、公職追放が解除されるや銀次郎を市の最高顧問に迎え顧問料として月々3万円(現在の30万円)を給付し彼の功績に答えた。

 昭和27年4月24日(1952)79才、銀次郎 死去 
      4月30日 神戸市民葬が執り行われた


 


王子公園にて勝田銀次郎の
市民葬が執り行われた



日本海員組合の組合長をつとめた浜田国太郎の追悼文 (得山翁小偲録)

 「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。

 彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。

 彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」






     
陽明丸事件         平明丸事件
 

a-izinkatuta2.html
松山ロシア兵捕虜収容所
今も続く、日露友好のかけ橋
 


宇和海のコロンブス

吉田亀三郎
Yoshida KameSaburo

冒険とロマンの男
上野留三郎
Ueno Rusaburo

オーロラに駆けるサムライ

和田重次郎
Jujiro Wada

世界を股に掛けた冒険家
河野兵市
Hyoichi Kono

七つの海に活躍した海運王
 
山下亀三郎
Kamesaburo Ymashita











和田重次郎と勝田銀次郎の故郷(松山) 大神輿の鉢合せ
銀次郎の「長町大神輿」 重次郎の「日の出大神輿
 
2015年10月7日 松山秋祭り石手川公園にて収録


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