勝田銀次郎とは
「評伝 勝田銀次郎」 「勝田銀次郎と陽明丸事件」辻 雄史編から
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プロフィール |
明治6(1873)年、愛媛県松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目三番地三銀天街入り口あたり)で米穀商の家に長男として生まれた。
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正岡子規、秋山真之より5~6才後輩にあたり、それぞれ実家は現在の中学校の校区内になる、将来絡み合うもう一人の愛媛吉田町出身のの海運王山下亀三郎は正岡子規と同学年になる。
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明治24(1991)年、銀次郎は18才で風雲の志を抱き松山中学を卒業すると同時に松山を後にし、北海道を目指して旅立つ。 |
小学校を卒業してから家業を手伝いながら松山中学に通った。
当時の青年達は北海道の新天地開拓にあこがれる風潮があった。
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一路東北へと向かう汽車の中で、東京英和学校長(現、青山学院大学)、本多庸一と隣合わせになり銀次郎の新天地開拓の抱負を聞いた本多校長は、東京英和学校に入学することを奨にめ、もしその気があれば学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に手渡した。
本多庸一院長 |
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当時東京英和学校は、関西でいえば新島襄の同志社と同じキリスト教系の学校で広い構内にまだ2棟の校舎と新築の寄宿舎があるだけだった。
外国の文化・知識を身に付けることができた。
※同じく山下亀三郎が郷里吉田町を出奔し京都で同志社創立に尽力した山本覚馬に出会い世界に目を向けるきっかけになったように!
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同年、感激した銀次郎は俄に志を翻し東京英和学校へ入学、予備学部を卒業した後、高等普通部に進んだ。
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銀次郎は、実家の仕送りに頼るわけにも行かないので学内の小間使いや、新聞配達など課外のアルバイトで生活でまかなった。
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明治27年 (1894)21才、銀次郎は 従軍記者になりたいと「従軍記者になって前線の様子を伝えたいと高等部2年で中退。
残念ながら従軍記者にはなれなかった。
次に銀次郎は実業界に挺身し、大阪・神戸において貿易海運業に身を投じた。
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明治27年(1894)日本は清国政府に宣戦を布告、日清戦争が始まった。 |
明治30年に大阪中之島の貿易会社・吉田商会にいたようであるがこの会社はほどなく閉店となってしまった。
やむを得ず、銀次郎が次に目指したのは、神戸だった。
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神戸の経済界で有力な産業は、造船、貿易、海運業である。 |
銀次郎は、短期間であるが神戸税関で働いていたようである。
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貿易業に携わるには通関手続き通関業務が必要で税関側も彼の英語能力が必要だったのではないか?
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明治33(1900)年27才、銀次郎は神戸栄町通に初めての自に分の店「勝田商会」を構えた。手始めにウラジオストックや天津から雑貨や豆粕の輸入をはじめた。
本籍地を松山の生家から神戸に移し この異郷の港町に骨をうずめる決意を固める。
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神戸税関吏時代に覚えた海運貨物取扱の経験や大阪の貿易会社での経験が「勝田商会」創業だけでなく後の発展に大きく寄与した。
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明治44(1911)年38才、母のムメ死去。80年の生涯だった。 |
松山の父の眠る墓に納骨 |
大正3(1914)年41才、第一次世界大戦勃発により海運業界が未曾有の活況を呈するや時流に乗った銀次郎は一気に我が国海運業界の指導的立場にのし上がる。
※第一次世界大戦1914~1918 |
現在の生田区にあった勝田汽船社屋
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大正5(1916)年43才、旧居留地の仲町二十七番地に、勝田汽船株式会社を設立。手元資金も1億円にもなっていた銀次郎は代表取締役に就任した。
ワンマン肌で気っぷのよい彼が真っ先に「巨船主義」を掲げ神戸船主のリーダー株になった。
当時日本最大の貨物船海久丸13,000トンを建造しこれに10,000トン級、8,000トン級の新造船その他を加えて一時は20隻、計150,000トンの商船隊を所有。 |
大正6年(1917) 44才、神戸市 市会議員となる。 以後5期17年間在任この間2回議長を務める。 |
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大正7(1918)年45才、大口納税者の為勅撰貴族院議員に就任。
11月世界大戦終結。
青山学院大学 勝田ホール落成。
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勝田ホール
東京駅等を設計した辰野金吾の設計 |
大正7~8年、銀次郎各方面の公共施設に多額の寄付をする。
(1)松山市三津浜の築港費として1万円
(2)米価騰貴の際救済費三千円
(3)神戸高商講堂一棟及び糸崎小学校建築費1万円
昭和2年 日本赤十字社兵庫県支部へ1万円
母校青山学院に神戸有志一同で2万円の寄付
〃 高等学部校舎(勝田ホール)と院長館(大正7年当時総工事費合わせて31万円)を寄付
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勝田銀次郎以下の職責に就く
大正6年(1917) 神戸商船社長就任
大正8年(1919) 大洋汽船社長就任
大洋海運 相談役 、国際汽船 監査役
海運業界全体では
日本船主同盟会理事
神戸海運業組合長
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大正8(1919)年56才、高額納税者として紺綬褒章を受く。
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大正9(1920)年、47才、1918年に起きたロシア革命後の内戦で難民となった4歳から18歳の子供達及び引率者900余人がウラジオストlックでアメリカ赤十字社に保護されるという事件があった。
さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社からの要請により、日本の貨物船が子供たちの受け入れを決めた。
その船が勝田汽船所有の『陽明丸』であった。 陽明丸は貨物船だった為、銀次郎が多額の改造費を寄付して子供たちが航海できる客船仕様に改造された。
陽明丸(船長:茅原基治)は大正9年(1920年)年7月、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海した後、フィンランドへ送り届けた。子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラードへ戻ることができたという。
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児子達を乗せて航行中の陽明丸 |
大正10(1921)年48才、市議会議長に選ばれる。
都市計画視察のため約半年間欧米出張。
平明丸事件4月5日平明丸日本陸軍傭船でトルコ兵俘虜(現)イスタンブールまで送還中ギリシャ軍艦により拿捕される。
神戸 摩耶山麓青谷に一万坪の敷地に勝田邸を新築。
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第一次世界大戦後は勝田の会社も下り坂になっていたにもかかわらず大戦中の捕虜の送還にも協力して社有船海久丸をドイツの赤十字社に傭船して独、墺(オーストリア)の捕虜3000人をウラジオストックより故郷まで輸送に任じたり、チェコやトルコ人捕虜を欧州に送り届けるなど採算を度外視した仕事を引き受けた。 |
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◎関東大震災
大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。銀次郎はとにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げるべく素早く行動を起こす。
この時、市会議長だった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ねまわって、義援金の拠出の要請に奔走した。
義援金の目標額は100万円をめどに考えていたが、最終的には150万円以上寄せられた。
その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達はこんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。
二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。
船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。
横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。
部屋に篭もり、救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。
この震災で勝田ホール倒壊する。
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銀次郎、巨万の富を握ったのも束の間、大戦終息時の見通しを誤り数年後にはその財産を失い負債を負う。
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昭和8年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現在も現存。 |
大正15(1926)年 53才、勝田邸を手放す。 邸前の小住宅に移り住む。
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昭和4年(1929)56才、国際連盟神戸支部長。 |
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昭和5(1930)」年57才、衆議院議員トップ当選する。
※当時は市議会議員を勤めながら衆議院議員になれた。
昭和8年(1933)60才、神戸市長に初当選
昭和12年(1937)64才、市長再選
昭和13年(1938)65才、阪神大水害その復旧に奔走する。(別記詳細記載)
昭和14年(1939)66才、第2期神戸築港完成。
昭和16年(1941)68才、市長職を退く。太平洋戦争勃発する。
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神戸海運界の巨頭として、不審の業界が勝田当選へ全力を傾けたという。
昭和10年楠木正成公600年大祭が開催され今に残る湊川公園の「大楠公騎馬像」台座の「大楠像」は勝田の揮毫である。
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余生を神戸市内で送る内、第二次世界大戦時の戦災に遭って家屋敷を失い、加うるに公職追放を受けた失意の身に病を得、夫人に先立たれて淋しくその生涯を了えた、というまことに浮沈に富波乱多い人生をおっくった人である。
神戸市は、公職追放が解除されるや銀次郎を市の最高顧問に迎え顧問料として月々3万円(現在の30万円)を給付し彼の功績に答えた。
昭和27年4月24日(1952)79才、銀次郎 死去
4月30日 神戸市民葬が執り行われた
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王子公園にて勝田銀次郎の
市民葬が執り行われた
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