ロシア革命の混乱期、ロシア難民の子供たち約800人救出に尽力した海運王
Ginjiro Katsuta who exerted himself for the Russia refugee's about 800 children rescue
the confusion term of the Russian Revolution


任侠の男、勝田 銀次郎

Gingiro Katuta

   海運事業者で政治家
愛媛県松山市大街道一丁目三番地(銀天街入り口あたり)で米穀商の家に長男として生まれる。

勝田銀次郎の人となり

◎昭和3年に出版された「現代実業家大観」に記載された原文より

 「姿性、磊落、平易洒脱にして自信が強い。交際は真摯にしてお上手なく、衒気なく、動作がいったいに垢抜けている。また体力の旺盛と共に覇気満々たる人でるが、これがあるがために細心の注意をわすれることがない。

 
 
部下友人に対して真情流露の美質を有し、至って親切である。 勇住邁進、天馬奔空の人ではない。むしろ緻密に計り、秩序的に整理し、堅実に進むのが特徴である。


 
万事が理論的で、それにはづれるようなことはは承知せず、剛健の気象は自らの眉字の間に溢れて、極めてシンプルライフを愛好する。

 
 
風姿淡麗、気格逎高、常に事業に生きる人なるが故に特に趣味として挙ぐべきものはない。


 海の国愛媛の出身者には、「愛媛の海偉人」と語り継がれている人達がいる。

 より良い生活を求め明治の時代に小型の打瀬船で世界初太平洋を横断した吉田亀三郎、その数年後に同じく太平洋を横断した上野留三郎、16才でアメリカに密航してその後アラスカに渡り犬ぞりの神様とよばれ現地で伝説の人となった和田重次郎、世界の海を相手に日本有数の船会社を興した山下亀三郎と勝田銀次郎、最近の人では世界を駆け巡た冒険家残念ながらリーチングホームの途中北極で命を絶った河野兵市等々。

 彼らは司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」の主人公達と遜色なく明治、大正、昭和の時代を力強く生き抜き、数々の逸話を残している。

 その中の一人勝田銀次郎について最近ちょとした話題になっている事がある、発端は、「金沢市在住の篆刻(てんこく)家・書家の北室南苑(きたむろなんえん)さん(64)がサンクトペテルブルクの図書館で「ロシア絵本と篆刻の融合」と題する作品展を開催。その時出会ったロシア女性、オルガ・モルキナさん(57)が話し掛けてきたのがきっかけだ。

 この女性は今から90年前に日本の「ヨウメイ丸」という船に救助されのちに結婚した子供の孫で、
「命を助けてくれたヨウメイ丸のカヤハラ船長の子孫にお礼を言いたい」と協力を求めてきたそうです。

 約90年という月日がたっており、北室さんはいったんは断ったものの、
「神様が与えた使命」と感じ、帰国し調査を開始した。

 初めは90年という壁に阻まれ難航したが、「ヨウメイ丸」は神戸の勝田汽船(勝田銀次郎社長)の「陽明丸」ということが判明。「勝田という人は相当な額を寄付し、人道的な立場でロシアの子供たちを救う手助けをした」(北室さん)ことが分かった。(2013年9月16日朝刊より

祖父母が助けられたというオルガ・モルキナさん(59)=サンクトペテルブルク在住と陽明丸顕正会代表北室南苑さん
日本記者クラブでの記者会見 http://www.youtube.com/watch?v=l3U2QlPHiBI
 第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られ、勇気ある人道的行為を行ったと評価される杉原千畝のことが思い出される。


陽明丸(勝田汽船)がロシアの子供達救出に尽力
航海顛末


 大正9年(1920)、勝田汽船の「陽明丸」は第一次世界大戦後ロシアの大暴動を逃れサンクトペテルブルグから逃避行し1年以上もアメリカ赤十字社の保護のもとシベリアに滞留し送還のめどがたたないでいた4歳から18歳の児子達約900人を極東のウラジオストックからパナマ運河を経由しほぼ地球を半周して故郷のペテログラードまで約3ヶ月間の困難な大航海の末、ロシア難民の子供達を故郷に送り届けた実話である。

田汽船の「陽明丸」航海中、船上でのスナップ
(「陽明丸」関係、文中注入写真は、人道の船 陽明丸顕正会様より拝借)

 
 ◆ロシアの動乱 
 大正6年(1917)ロシアで世にいう「10月革命」が起こり富豪及び知識人を目標にした大暴動が勃発してロマノフ王朝が崩壊、以後数年間の革命と内戦が発生した。

 首都サンクトペテルブルでは放火、略奪、暴行、殺人が横行する中、上流階級の3〜15才の子供達は親を頼みいることもできず、兄弟を守ることもできず命からがら御身一つで脱出し極東シベリアの沿岸部まで逃げ延び途方にくれ彷徨っていたところ、シベリアに遠征中の連合軍に救われ、その後アメリカ赤十字社派遣部隊により保護されウラジオストックの収容所のような窮屈穴な所に婦女子900人に近い一団が牢籠とした日々を送っていた。 

 ウラジオストックは大正9年(1920)当時
日本軍の統治下にあったものの戦火が拡大し極めて危険な状態になっていた、一団のは上流階級の子弟が多かった為共産主義のソビエト新政権は、彼らが将来、危険分子となることを危惧し彼らに関心を持たず敵体的であったばかりか、国外脱出を認めず、速やかに児子達を引き渡すようアメリカ政府に警告していた。

 
 ◆アメリカ赤十字社 日本に傭船依頼
 アメリカ赤十字社は彼らをこのままウラジオストックで保護するのは難しい状態となりフランスへ移送することにし日本の船会社に傭船を依頼した。
 
 表向き日本政府も関与できず、港湾入り口には機雷が敷設されている等かなりの危険を伴う上に貨物船主にとって人間の輸送は厄介なので何処の船会社も辞退し受けての無い状態だと聞いた任侠溢れる勝田汽船社長の勝田銀次郎はすぐさま危険と採算が合わないのを承知でアメリカ赤十字社の傭船を快諾し貨物船「陽明丸」10,675重量トンをもってその任務に当たる事を申し出た。

 銀次郎は岡山県笠岡市出身の茅原基治を船長に指名し「陽明丸」のメインマストに掲げられていた勝田汽船社旗をはずし煙突に赤十字のマークを入れ貨物船だった船を勝田銀次郎個人でも多額の寄付をして子供達が航海できる客船仕様に改造にした。

 この改造で貨物船だった「陽明丸」は一時的に中甲板全部を客室にし、上層甲板下に病室・浴場を設けまた客室の換気を行う為要所〃に8個の電気通風器を据え付ける等して一寸した汽船には見られないれない程の設備を施した。

 外装は煙突に赤十字のマークをペイントし、舷側に「AMERIKAN RED CROSS」と大きくペイントした。航海時にはメインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾にのみ大日章旗を翻した。


(船長:茅原基治)
岡山県笠岡市出身
児子達を乗せ航海中の陽明丸 10,685重量トン 船籍港 愛媛県松山市
大正8年(1919)3月 大阪鉄工所因島工場(現日立造船因島工場)で浸水
船名の由来:武士道精神に通じる「陽明学
の陽明より

 
 ◆神戸 → ウラジオストック 子女達を迎えに
 銀次郎らによる数万円の寄付等により客船仕様に生まれ変わった陽明丸(船長:茅原基治)は神戸と門司で水と燃料を積み込み子供達が待つロシアのウラジオストックへと向かった。
 
 ウラジオストック港口、ルシア島海岸一帯で待ち受けていた一団の子女達は煙突に赤十字、舷側にアメリカン・デットクロスと大書きしメインマストに米国旗と赤十字旗を掲げ船尾に日章旗掲揚した「陽明丸」の船影を見ると一斉に歓呼をあげ迎えた・・・時に大正9年(1920年)年7月9日だった。


 当時のウラジオストックは荒廃し最大の百貨店クンストアルバースは革命直後暴徒の襲撃を受けしかも経営者がドイツ人だった為、徹底的に略奪され何一つとして残らず壁まで剥げ落ちその他の商店も往日の面影を止ず陰惨な空気は全市に沈滞していた。

 そして街路ではよれよれの服を着た警使や疲れきった感の市民達の姿が見られ共産革命とはいったい何だったんろうと思わせる風情であった。


 陽明丸はウラジオストックで食料、日用品を積み込み7月13日の午後一行960名を乗せ出帆した

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陽明丸 乗船者は以下の通り1,000人を超す大所帯だった
ロシア難民   男児 428名  女児 351名  婦人 87名  ※子女平均年令 12.3才(10才前後が最多)
ドイツ兵士   77名(米国赤十字社に収容された東部戦線でロシア軍に捕らえられていたドイツ兵捕虜)
米国赤十字社関係者   隊長アレン中佐以下16名、米国YMCA派遣員1名
陽明丸乗組員   茅原船長以下60余名


 
 ◆ ウラジオストック → 室蘭 食料等補給に
 「陽明丸」はウラジオストックで積み込んだ牛肉に不良品があった為、途中北海道の室蘭に入港して25頭分と野菜類の買入の必要になった。

 船は室蘭港に入港し子女達は一歩でも日本の土を踏みたいと申し出たが室蘭水上署は思想問題、講和条約未批准未了の理由で米国人以外は罷りならんと拒否されたが、彼らがソビエト政権に追われたしかも頑是ない児子達に赤思想があるはずもない事を力説して船長が責任を負うことでやっと許可がでた。

 室蘭市役所は官吏数名を上陸場に派遣し子女達を迎え直ちに近くの小学校に案内し茶菓を供し絵葉書を贈り学童の銃剣道試合を見せ校庭では言葉が通じないにもかかわらす純真な日ロ児童達が互いに手を握り片を打って戯れ交友した後一行は市内を一巡して帰船した。

 学校で気の毒な話を教えられた児童数十名は各々菓子や果物を携え「陽明丸」に乗船し身振り手振りで面白く可笑しく青い目の子供達と遊び戯れた。付き添いの大人達はこれを見て泣いて喜んだ。
 
 
 ◆室蘭 → サンフランシスコ 航程4,250海里 
 7月16日室蘭を出港した「陽明丸」はサンフランシスコへと向かった彼らの健康を考えてインド洋の夏の暑さを避け、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海する計画である。、

 途中子女達は、万一に備え救命ボートを水面に下ろす作業を船員と共同で練習したり操練や救命浮環の使用法等を教わたりしていざという時に備えた、又学齢以上の子供達はこの他毎日英語と数学の勉強を課せられその代わりに土曜、日曜には映画、ダンス、綱引き、ボクシング等で旅情を慰めた。

 こうして一大移動学園「陽明丸」は穏やかな太平洋を東へ東へと航海し航程四二五〇海里を無事横断し8月1日無事サンフランシスコ港に着く。

  
アメリカ国民に歓迎される
 サンフランシスコ港の入り口付近では米国赤十字社社員、新聞記者等が乗船する多くの小型艇に迎えられ入港した「陽明丸」は係留先の桟橋でも埋め尽くす多くの人々に歓迎された。

 「陽明丸」が燃料と「食料を補給している間、子女達は各種の歓迎会に招かれたり市中見学したりして8月5日に出港し次の寄港地パナマに向かったのであるが彼らはサンフランシスコの盛況、市長の歓迎、多数の慰問品等、日本の室蘭と比較してアメリカは大きいと聞かされた船員達は日本で寄港したのが室蘭ではなくせめて函館であったらと悔しがった。

 
 ◆サンフランシスコ → パナマ  航程 3,250海里
 カルフォルニア湾一帯は雄大な景色が広がり海面には(海豹)アザラシ群れが戯れ上空では無数のカモメが舞飛び陸上では大草原が広がるこの一大スペクタル映画の様なシーンに児子達は寝食を忘れる程喜び就寝時間が来ても上甲板から去らず警務係が船首に来れば、船尾へと月明かりの船上を走り廻り騒いだ。

 「陽明丸」は南下を続けメキシコから中南米沿岸に来るとロシアでは経験の無い暑さとなり油を流したような海面から強烈な日光を反射するので児子達もいつパナマに着くのか「暑い々」と苦しみ20人程が軽度の日射病にかかたが運良く2〜3日で治った。

 8月18日「陽明丸」は太平洋の東端パナマ港に到着、直ちに淡水の補給を始め翌日午前6時運河に向け出港するのでここでは子女達の上陸は許可が出なかった。

 ◆パナマ運河

絵葉書がほしい、果物がほしいとの子供心を叶えてやりたいと葦原船長は乗組員一名を連れ客馬車に盛りあがる程買い入れて来たが到底七百幾十人の要求を満たすことは出来なかったが、翌日運河通過の際果物や絵葉書を寄贈してくれる篤志家があったので真に皆んなに行き渡ることが出来た。

 これを見た他の人達も自動車を飛ばし運河まで駆けつけオレンジ、マンゴー、バナナ等を雨の様に船内に投げ込んだその度に児子達が歓声を上げて喜ぶので岸に立っていた少女が大切に抱いていた人形を投げてくれたが船まで届かず中間の水面に落ちてしまった。

 「それ!人命救助は赤十字社の本領だと、早速縄梯子を下げて人形を救い上げたので船からも陸からも大歓声が沸き起こった」

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 ◆パナマ運河 → ニューヨーク  航程 1,972海里
 8月19日午後8時頃「陽明丸」はパナマ運河を抜け大西洋上に浮かびニューヨークへと向かった、翌20日は朝から北東の風強く海も時々飛沫を船上に浴びせる程度荒れ子供達はオレンジやバナナを沢山ご馳走になった翌日であったので船酔いする子達が続出した、そこへ、カメラを向けるイタズラ者も現れ、苦悶と爆笑の混成で珍妙な場面があちこちで展開されたが運良く地球を3分の2航,海した中で船酔い騒ぎは今回が初めてだった。
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 途中キューバ島の北方にある低い島々の上に高い椰子の木が茂りアメリカ大陸を発見したコロンブスが第一歩を印したサンサルバドル島を過ぎると暑さも刻々と衰え児子達も元気に悪戯を始めだした。

 やがて陽明丸はアメリカ東海岸沿いに北航し大型船が東に南と頻繁に往来するニューヨーク港入り口に差し掛り孤児達を喜ばした。 8月28日ニューヨーク到着 

  ◆ニューヨーク
 陽明丸は神戸で積んだ砂糖を揚げ、更に北欧方面に行く石炭を積込む為、約2週間停泊することになり孤児達一行は50日間の居住であった陽明丸を離れ米軍兵舎に移動した。

 この航海中50日間に散髪をしてもらったり玩具をもらった児子達も沢山いて乗組員との間は非常に親密になっていて兵舎へ行くことを喜ばす米国赤十字社幹部もやっとのことで一行を説得し移動した。

 現地の日本語新聞ニューヨーク新報では一行の旅情を慰める為在留邦人から義援金を募っていたが締め切りが迫っても僅か50ドル足らずしか集まらなかった。 ほとんど知識階級の在留邦人で普段は親善などと言っている割にはこのような時には無関心で又、日本企業のニューヨーク支店も、日本赤十字社ニューヨーク支部も鳴りを潜めて動かず、ニューヨーク領事館にいたっては、日本の船がロシア人の子供を乗せているとは何事かと船長を呼び出し問題が起きないように慎重にせよとのお叱りを受けるありさまであった。
 茅原船長いわく「こんな外交官が日米親善とか外交振興を求むるは木に登って魚を求めると同様」と言わしめた。
 
 小児だけでも800名いるのに50ドル足らずではどうしようもなく結局義援金は陽明丸乗組員が100ドル寄付したところ急に、篤家が現れ529ドルに達したが日本領事館、日本赤十字社ニューヨーク支部及び日本の一流会社からは一円の義援金も得られなかった。

  ◆ニューヨーク → ブレスト(仏蘭西) 航程3,200海里
 ニューヨークでは色々とあったが陽明丸は児子達を乗せ9月14日出港して大西洋を一路仏蘭西のブレストに向け出港。
 出港に際し在留邦人から届けられたお菓子は貧弱な品ではあったが児子達は日本人から貰ったお菓子を喜んで頬張った。

 出港の翌々日ロシアの夫人が病没した、凶事は三度重なるということわざがあるが16才の少女の死とニコロフィースキー少年の死と3度目となったがこれ以降は平穏に航程3200海里を無事航海し9月27日仏蘭西の北側ブレスト港に着いた。

 


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 ◆ブレスト(仏蘭西)
 この港では日米人以外者の上陸、面会は禁止され武装兵をもって監視するという物々しさであったが過激派の難を逃れて仏蘭西に居る多数の白色ロシア人には必ず一行の近親者がいるとの推測からアメリカ赤十字社仏蘭西支部が探索したにもかかわらずわずか2名を見い出したに過ぎなかった。

 この地では近親者に引き渡すこの2名と、ウクライナ方面に帰還する4名 計6名が一行から離れることとなった、シベリアの荒野で互いに助け助けられた友人と恐らく永遠の別れとなるべくこの別離を一同いたく悲しみ幾度も幾度も抱擁と接吻を繰り返し監視兵の制止もきかず門外まで走り別れを惜しんだ。
 陽明丸はフランス海軍から石炭と淡水の提供を受け翌9月28日デンマークのキール運河目指し出港する。


  ◆ブレスト → キール運河 航程800海里
 陽明丸はドーバー海峡を北進し9月31日の朝、上流にハンブルク港があるエルベ川を昇り、キール運河の南端港プロンスヒュートに到着した。

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 ◆キール運河
 この運河はドイツ皇帝によって開かれた全長100キロ程のバルト海と北海を結ぶ世界3大運河である。

 北端がドイツのキール軍港に通じている為キール運河と呼ばれている。

 軍事上の目的を主としものだけに横幅、深さ共に大艦巨舶の運行にも僅かな困難も感じさせない立派なに運河である。

 この運河にも南北端に閘門があってバルチック海と北海の潮高すなわち海面の高さを調節している。

 ドイツ人達は一行が乗船している陽明丸が運河の南北関門通過の際には食料品、衣料等が陸上より手当次第投げ入れられ数日後任務を終える陽明丸の船倉にはこれらの品物が山積みされた。
 
 ◆キール → ヘルシンキホルス
 バルチック海からフィンランド湾一帯はドイツ、ロシアによりおびただしい数の機雷が敷設されていている、両国の国情から掃海されないままになっているので危険この上なく現地の水先案内人を雇いエストニア西岸諸島を迂回しレベル港から真北に直進し10月10日ヘルシンキホルス港に着岸した、この航程は800海里足らずであったが危険を回避する為減速を繰り返し通常の倍以上の時間をついやした。

  ◆ヘルシンキホルス港
 フィンランド共和国は長年ロシアからの干渉をきらいドイツに接近しすべてをドイツに範を取り文武官の服装から貨幣の様式までそっくりとしカイゼル髭を巻き上げている武官を多く見かけた。

 外国語もドイツ語が主でフランス語、英語をしゃべりロシア語を知ていても口にする者はいない、やっとロシアと目と鼻の先の港に来たのだから何か児子達の情報は無いか英字新聞を買ったが情報を得る事は出来なかった。


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  ◆フィンランド コイビスト港(現ロシア・レニングラード州プリモルスク港)
 コイビスト港はロシア国境に近い港であるが戸数は5〜60戸しかすぎず少量の木材を小型の汽船や帆船で輸出するだけの貧弱な港であるがフィンランド国にとっては国防上重要な所である為水上飛行隊が配置されていた。

 陽明丸はこの港で使命を果たすので休養品、食料品、器具、寝具の陸揚げを始め13,14日の雨天でこれらの一切とドイツ人を除いた一行を上陸させた。

 ウラジオストックを出港以来寒暑を共にし、3ヶ月一緒に過ごした乗組船員に一行の誰もが瞼を曇らせ「さよなら」「さよなら」とくり返した。

 子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラード(現サンクトペテルブルク)へ戻ることができた。その大航海は地球をほぼ一周する距離だった。

 一時に900人もの家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら首都コペンハーゲンで残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗がメインマストに閃いた。



 航海中の様子は茅原船長が書かれた赤色革命余話― 露西亜小児団輸送記 ―をご一読下さい。

金光図書館蔵書  岡山県浅口市金光町

 2013年2月、森喜朗元総理は安倍首相の特使としてロシアを訪問、日露間の懸案の問題についてプーチン大統領と会談した際、陽明丸の事蹟についてプーチン大統領に披露、関連資料も直接手渡しました。

 森元総理は「陽明丸顕正会」の北室理事長とは同郷のよしみで、この事蹟についても何かと気に懸けていただいているそうです。


 我が愛媛・松山でもこの男気溢れる銀次郎の美談を取り上げてもらいたいものです。

◆残念ながら勝田銀次郎は18才で松山を旅立ってからは生活の拠点が神戸だった為、故郷松山では彼の事を知る人はまれである、強いて言えば彼は明治・大正・昭和初期活躍したの3大船成金で神戸市長にまで努めた人であるというくらいである。 



勝田銀次郎とは

「評伝 勝田銀次郎」 「勝田銀次郎と陽明丸事件」辻 雄史編から
プロフィール
 明治6(1873)年、愛媛県松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目三番地三銀天街入り口あたり)で米穀商の家に長男として生まれた。 
 正岡子規、秋山真之より5〜6才後輩にあたり、それぞれ実家は現在の中学校の校区内になる、将来絡み合うもう一人の愛媛吉田町出身のの海運王山下亀三郎は正岡子規と同学年になる
 明治24(1991)年、銀次郎は18才で風雲の志を抱き松山中学を卒業すると同時に松山を後にし、北海道を目指して旅立つ。  小学校を卒業してから家業を手伝い長良松山中学に通った。
 当時の青年達は北海道の新天地開拓にあこがれる風潮があった。

 一路東北へと向かう汽車の中で、東京英和学校長(現、青山学院大学)、本多庸一と隣合わせになり銀次郎の新天地開拓の抱負を聞いた本多校長は、東京英和学校に入学することを奨にめ、もしその気があれば学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に手渡した。
本多庸一院長

 
 当時東京英和学校は、関西でいえば新島襄の同志社と同じキリスト教系の学校で広い構内にまだ2棟の校舎と新築の寄宿舎があるだけだった。
 外国の文化・知識を身に付けることができた。

※同じく山下亀三郎が郷里吉田町を出奔し京都で同志社創立に尽力した山本覚馬に出会い世界に目を向けるきっかけになったように!

 同年、感激した銀次郎は俄に志を翻し東京英和学校へ入学、予備学部を卒業した後、高等普通部に進んだ。

 銀次郎は、実家の仕送りに頼るわけにも行かないので学内の小間使いや、新聞配達など課外のアルバイトで生活でまかなった。

 明治27年 (1894)21才、銀次郎は 従軍記者になりたいと「従軍記者になって前線の様子を伝えたいと高等部2年で中退。
 残念ながら従軍記者にはなれなかった。

 次に銀次郎は実業界に挺身し、大阪・神戸において貿易海運業に身を投じた。
 明治27年(1894)日本は清国政府に宣戦を布告、日清戦争が始まった。

 明治30年に大阪中之島の貿易会社・吉田商会にいたようであるがこの会社はほどなく閉店となってしまった。
 やむを得ず、銀次郎が次に目指したのは、神戸だった。

 神戸の経済界で有力な産業は、造船、貿易、海運業である。
 銀次郎は、短期間であるが神戸税関で働いていたようである。

 貿易業わるには通関手続通関業務必要税関側英語能力必要だったのではないか?
 明治331900)年27才、銀次郎は神戸栄町通に初めての自に分の店「勝田商会」を構えた。手始めにウラジオストックや天津から雑貨や豆粕の輸入をはじめた。

 本籍地を松山の生家から神戸に移し この異郷の港町に骨をうずめる決意を固める。

 神戸税関吏時代に覚えた海運貨物取扱の経験や大阪の貿易会社での経験が「勝田商会」創業だけでなく後の発展に大きく寄与した。

 

 明治441911年38才母のムメ死去80年の生涯だった。  松山の父の眠る墓に納骨
大正31914)年51才、第一次世界大戦勃発により海運業界が未曾有の活況を呈するや時流に乗った銀次郎は一気に我が国海運業界の指導的立場にのし上がる。
 ※第一次世界大戦1914〜1918

現在の生田区にあった勝田汽船社屋
 大正51916年53才、旧居留地の仲町二十七番地に、勝田汽船株式会社を設立。手元資金も1億円にもなっていた銀次郎は代表取締役に就任した。

 ワンマン肌で気っぷのよい彼が真っ先に「巨船主義」を掲げ神戸船主のリーダー株になった。

 当時日本最大の貨物船海久丸13,000トンを建造しこれに10,000トン級、8,000トン級の新造船その他を加えて一時は20隻、計150,000トンの商船隊を所有。
 大正6年(1917) 44才、神戸市 市会議員となる。 以後5期17年間在任この間2回議長を務める。
 大正7(1918)年45才、大口納税者の為勅撰貴族院議員に就任。

 11月世界大戦終結。
 

 青山学院大学 勝田ホール落成。




勝田ホール
東京駅等を設計した辰野金吾の設計
大正7〜8年、銀次郎各方面の公共施設に多額の寄付をする。
 (1)松山市三津浜の築港費として1万円
 (2)米価騰貴の際救済費三千円
 (3)神戸高商講堂一棟及び糸崎小学校建築費1万円

 昭和2年 日本赤十字社兵庫県支部へ1万円
 
 母校青山学院に神戸有志一同で2万円の寄付

   〃 高等学部校舎(勝田ホール)と院長館(大正7年当時総工事費合わせて31万円)を寄付


 勝田銀次郎以下の職責に就く
 大正6年(1917)  神戸商船社長就任
 大正8年(1919)  大洋汽船社長就任
 大洋海運 相談役 、国際汽船 監査役
 
 海運業界全体では
 日本船主同盟会理事
 神戸海運業組合長
 


 

 大正8(1919)年56才、高額納税者として紺綬褒章を受く。
 大正9(1920)年、47才、1918年に起きたロシア革命後の内戦で難民となった4歳から18歳の子供達及び引率者900余人がウラジオストlックでアメリカ赤十字社に保護されるという事件があった。
 さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社からの要請により、日本の貨物船が子供たちの受け入れを決めた。

 その船が勝田汽船所有の『陽明丸』であった。 陽明丸は貨物船だった為、銀次郎が多額の改造費を寄付して子供たちが航海できる客船仕様に改造された。
 
  陽明丸(船長:茅原基治)は大正9年(1920年)年7月、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海した後、フィンランドへ送り届けた。子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラードへ戻ることができたという。



児子達を乗せて航行中の陽明丸
 大正10(1921)年48才、市議会議長に選ばれる。

 都市計画視察のため約半年間欧米出張。


 神戸 摩耶山麓青谷に一万坪の敷地に勝田邸を新築
 第一次世界大戦後は勝田の会社も下り坂になっていたにもかかわらず大戦中の捕虜の送還にも協力して社有船海久丸をドイツの赤十字社に傭船して独、墺(オーストリア)の捕虜3000人をウラジオストックより故郷まで輸送に任じたり、チェコやトルコ人捕虜を欧州に送り届けるなど採算を度外視した仕事を引き受けた。
 ◎関東大震災

大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。銀次郎はとにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げるべく素早く行動を起こす。

 この時、市会議長だった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ねまわって、義援金の拠出の要請に奔走した。
 義援金の目標額は100万円をめどに考えていたが、最終的には150万円以上寄せられた。
 その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達はこんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。

 二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。

 船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。

 横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。

 部屋に篭もり、救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。

 この震災で勝田ホール倒壊する。

 銀次郎、巨万の富を握ったのも束の間、大戦終息時の見通しを誤り数年後にはその財産を失い負債を負う。
昭和8年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現在も現存。

  大正15(1926)年 53才、勝田邸を手放す。 邸前の小住宅に移り住む。

 昭和4年(1929)56才国際連盟神戸支部長。
 昭和5(1930)」年57才、衆議院議員トップ当選する。 

※当時は市議会議員を勤めながら衆議院議員になれた。

 昭和8年(1933)60才、神戸市長に初当選

 昭和12年(1937)64才、市長再選

 昭和13年(1938)65才、阪神大水害その復旧に奔走する。
(別記詳細記載)

 昭和14年(1939)66才、第2期神戸築港完成。

 昭和16年(1941)68才、市長職を退く。太平洋戦争勃発する。

神戸海運界の巨頭として、不審の業界が勝田当選へ全力を傾けたという。

昭和10年楠木正成公600年大祭が開催され今に残る湊川公園の「大楠公騎馬像」台座の「大楠像」は勝田の揮毫である。


 余生を神戸市内で送る内、第二次世界大戦時の戦災に遭って家屋敷を失い、加うるに公職追放を受けた失意の身に病を得、夫人に先立たれて淋しくその生涯を了えた、というまことに浮沈に富波乱多い人生をおっくった人である。

 神戸市は、公職追放が解除されるや銀次郎を市の最高顧問に迎え顧問料として月々3万円(現在の30万円)を給付し彼の功績に答えた。

 昭和27年4月24日(1952)79才、銀次郎 死去 
      4月30日 神戸市民葬が執り行われた 


王子公園にて勝田銀次郎の
市民葬が執り行われた



 昭和13年(1938)65才、阪神大水害その復旧に奔走する。


 この年の水害復興において銀次郎市長が果たした役割を近代神戸市政研究会



参考文献
  
評伝 勝田 銀次郎
村田 重夫 著 
勝田銀次郎と陽明丸事件
辻 雄史 著


日本海員組合の組合長をつとめた浜田国太郎の追悼文 (得山翁小偲録)

 「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。

 彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。

 彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」


松山”勝田銀次郎”倶楽部 部員募集中






今も続く、日露友好のかけ橋

松山市民のロシア兵捕虜に対する「お・も・て・な・し」
 
 勝田銀次郎の故郷松山では1904〜1905(明治37,38年)の日露戦争時の松山捕虜収容所で亡くなれたロシア兵士98人のお墓を100年以上過ぎた今でも「ロシア人墓地保存会」と地元老人会、婦人会、勝山中学校の生徒らによる月一回の墓地供養と清掃活動が行われています

 今年も(2013年3月25日)松山市主催でこのロシア兵達の第53回目の慰霊祭が行われました。


 

松山では、わずか3万四千の人口の所に戦時中および戦後も、延べ6000人のロシア兵が収容されていた。
 多い時には一度に4000人もが人道的な環境の中、十分に幅広い自由を与えられ収容されていた。

 捕虜の外出は自由で、階級が低い兵士達も、観光をしたり、仕事をすることもできた、彼らも郡中(現伊予市)や砥部焼の窯元への遠足や、自転車競技大会などを催すなど、活発に市民達と民間交流を行った。

 将校達は市内で一戸建て民家での生活が認められ監視なしに自由に散策したり、、大街道にあった芝居小屋での観劇や道後温泉に入浴、買い物など許され、さらに祖国から妻を呼び寄せることもできた。「マツヤマ」は他の収容所のロシア人捕虜にとって憧れの地となった。



郡中港での捕虜達を「お・せ・っ・た・い」
 このホーム−ページは本来「愛媛の遊漁船」なので関係がるような海南新聞記事を見付けたので紹介します。
高浜の四十四島で釣り
 
騎兵少尉タゲーエフの一行が過日高濱へ遊びに行き延齢舘で日本料理を食ふた後舟を?ふて四十島へ渡つた、見れば多くの日本人が釣して居るので物数奇の少尉は自分も遣つて見たいと釣竿調へ針を下げたがなかなか喰はぬ、けれども此臨時太公望は中々熱心で永い間糸を下げてるうちヤット一尾釣れ上つたので其の喜びと云つたらない、恰かも旅順の包囲軍を一蹴りにしたかの様に雀躍したとは左もあらん

 
捕虜達の食費は日に、将校60銭、下士卒30銭で、これは自国の兵卒の食費が一日あたり16銭前後だったのと比べて破格の厚遇だった。これは牛乳、卵、牛肉の支給がその原因であったがこの3品は、彼等の食事には不可欠メニューであった。

 松山捕虜収容所病室の記録によると、明治37年(1904)5月から39年(1906)1月までの間に滋養品として医務室で消費した牛乳は、なんと6824万8300グラム、捕虜の収容数の増大とともに品薄になった牛乳の不足分の補充に臨時に購入した粉ミルクは4836缶、卵が23万2074個、牛肉が22万1200グラムにのぼった。


 
当時の将校用のメニューは・・・

 
◎白パン半斤、砂糖、紅茶、昼食材料が白パン半斤、牛乳2勺5合、麦粉35匁、人参4匁、牛肉70匁、きゅうり、塩麻、バター、ジャガイモ、トマトソース、玉ねぎ、砂糖、紅茶、スープ、茄子、コショウ、卵など

 白パンは、当初は松山市菅町4丁目の業者に製造させていましたが彼らの口に合わなかったようで、別の白パン作りの経験のある業者に変え供給した。

 当初は日本側で調理をしていたが美食家のロシア兵達には「お気に召さなかった」ようで明治37年9月11日以降は、直接食材を渡しロシア兵の下士官が調理した。

 将校達は松山市内を自由に外出できるため市内の食料品店で自分好みの商品を買ったり、洋食店で外食しっためどこの店も満員で繁盛したと記録に残ってっている。

 その他、収容所内の売店で軍医の許可があれば嗜好品も購入することができたようで「朝日ビール」「万歳ラムネ」「シャンパン」「コニャック」「ウヰスキー」「ハム缶詰」「炭酸水」なども売っていた。

 捕虜というと、虐待され食事も少量で強制労働で痩せ衰えた兵士の印象がありますがここ松山のロシア軍捕虜達の写真史料を見ても、身なりも小綺麗で健康そうに見え健康管理が行き届いたよう、さすが招かるざる客、敵国の捕虜にまで「おもてなしをしたのにはビックリである。

 過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。

 さすが「おもてなし」をスローガンに掲げている松山ならではの逸話だ、いくら日本がハーグ条約を順守し、紳士的に捕虜を扱ったといっても、これこそ松山人気質のなせることである。

 松山生まれの勝田銀次郎が博愛の精神でロシアの子供達の帰郷に力を貸したのもこの松山人気質であったように感じられてならない。

当時のスナップ
道後温泉でくつろぐ
大街道で観劇
道後公園
梅津寺海水浴場


ワシリー・ボイスマン海軍大佐
 
  捕虜は、かならずしも戦争が終わるまで収容所に抑留されていたわけではなく、日露戦争では、例えば医療従事者、あるいは兵隊としての勤務ができないほど負傷した捕虜などは、戦争中であっても帰国が許さた。

 負傷していたワシリー・ボイスマン大佐に帰国を促したが、大佐は「兵と共にいる」と辞退し、日本で病気で無くなりました。当時は「ロシア人の武士道」として賞賛された。


 平成22年1月、二の丸庭園整備工事の最中、大井戸の中から帝政ロシア時代の金貨が発見された、そのコインにはロシア人と日本人女性の名前が刻まれていることがわかった。(左のコイン)

  「コステンコ・ミハイル」=ロシア軍少尉 と 「タケバナカ」=赤十字社看護婦 竹場ナカ

 一人はロシア軍少尉「コステンコ・ミハイル」、絵画が趣味で彼の描いた水彩画が松山の人達に贈られたという美談が紹介されている。

 もう一人「タケバナカ」は宇和島出身の赤十字病院看護婦でこの収容所病院に勤務していた。


現在に換算すると30万円に相当する金貨を井戸を投げ込んだ時の気持ちを想像して下さい。
 ここからは、この名前が刻まれたコインを元にしたミュージカル「誓いのコイン」での創作が一部混ざるのですが大枠ではこのミュージカルの通りのような物語があったんでしょう。
 

 コインの持ち主は戦地の中国から連れてこられたロシア人の捕虜で、女性の方は、そこで看護婦として看護をしていた方でした。

 女性の献身的な姿に、ロシアの男性は次第に惹かれ、そして恋に落ちたようですね、二人は、お互いの名前を刻んだコインに誓いをたてます」。


 残念ながら松山市の「坊っちゃん劇場」での公演は終了していますが、ロシアでも上演され大好評だったようです。

 このミュージカルは当時の、愛媛県の中村知事が松山市長であった時に劇場側にこのコインの物語を上演できないか?と提案し実現に至ったようである。
 小生、政治にはあまり関心はないのであるが、中村知事の行動力には感銘する。 是非、しまなみサイクリングもオリンピック招致の滝川クリステルさんに負けないよう本家本元
「お・も・て・な・し」のお手本を見せてお客様達が「・・さすが愛媛・松山と・・」と言わしてくれる事を期待してます。




二人の短い恋の物語は、1904年春から少尉の足の怪我が回復し静岡に移送される同年12月迄の事だった
コインが見つかった大井戸 コステンコ・ミハイル少尉 赤十字社看護婦 竹葉ナカ

 小生もこの学校の卒業生ですが20年前迄城東中学の運動場の真ん中に井戸があったことは知らなっかった。

 (松山城二の丸公園内)

 
少尉は帰国後も兵役に就き、その後、米国に移住し1928年47歳の若さで米国で亡くなった

 宇和島市出身で、1904(明治37)年5〜10月ごろに捕虜収容所病院に勤務

 ナカさんは病院をやめさせられ、やがて日本人男性と結婚し東京に住み、最後は九州で1975年亡くなった
M37.08.06 海南新聞よりミハイル、コステンコに関する記事 
 
(松山大学、宮脇研究室資料から) 目下バラックに収容治療中なる露本国人士族歩兵少尉ミハイル、コステンコといふは●●●二十四歳の少壮少尉だが天性絵画を能くし●に余念なく揮毫して鬱憂を慰めて居る、先達て●●丸で来松した代議士某が其一葉を紀念として●ひ去りしがそれは花卉の水彩画であつたそうな又過日も医員長とやらへ贈つた画は桔梗など書いてあつて頗る美術的の画で手際なものであつたさうな

宮脇研究室資料@
宮脇研究室資料A
 ※以上、愛媛の「海偉人」 勝田 銀次郎とは、直接関係無いかも知れませんが、松山人気質というところでご紹介しました。銀次郎が神戸で活躍していた時の故郷での出来事です。