このホームページは、ロシアの内戦で行き場を無くした小児800人をアメリカ赤十字社の傭船として帰還に幾多の試練を乗り越え奮闘努力た「陽明丸」船籍は愛媛県温泉郡(現)松山市三津浜港)と船主で任侠あふれる松山市出身の勝田銀次郎を紹介する企画です




文掲載の写真集はロシアにお住いのオルガ・モルキナさんが集めてまとめた写真集です。
写真集はオルガ・モルキナさんより許諾され使用しています。

出典先として: “The materials from the album are from the International project ≪ Under the Sign of the Red Cross≫, Saint-Petersburg, Russia  https://www.petrograd-kids-odyssey.ru/, and used by permission.” 


 海の国愛媛の出身者には、「愛媛の海偉人」と語り継がれている人達がいる。
 より良い生活を求め明治の時代に小型の打瀬船で世界初太平洋を横断した吉田亀三郎、その数年後に同じく太平洋を横断した上野留三郎、16才でアメリカに密航してその後アラスカに渡り犬ぞりの神様とよばれ現地で伝説の人となった和田重次郎、世界の海を相手に日本有数の船会社を興した山下亀三郎と勝田銀次郎、最近の人では世界を駆け巡た冒険家残念ながらリーチングホームの途中北極で命を絶った河野兵市等々。
 彼らは司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」の主人公達と遜色なく明治、大正、昭和の時代を力強く生き抜き、数々の逸話を残している。

その中の一人勝田銀次郎について最近ちょとした話題になっている事がある、発端は、「金沢市在住の篆刻(てんこく)家・書家の北室南苑(きたむろなんえん)さん(64)がサンクトペテルブルクの図書館で「ロシア絵本と篆刻の融合」と題する作品展を開催。その時出会ったロシア女性、オルガ・モルキナさん(57)が話し掛けてきたのがきっかけだった。→→→


→→→この女性は今から90年前に日本の「ヨウメイ丸」という船に救助されのちに結婚した子供の孫で、「命を助けてくれたヨウメイ丸のカヤハラ船長の子孫にお礼を言いたい」と協力を求めてきたそうです。
 約90年という月日がたっており、北室さんはいったんは断ったものの、「神様が与えた使命」と感じ、帰国し調査を開始した。
 初めは90年という壁に阻まれ難航したが、「ヨウメイ丸」は神戸の勝田汽船(勝田銀次郎社長)の「陽明丸」ということが判明。「勝田という人は相当な額を寄付し、人道的な立場でロシアの子供たちを救う手助けをした」(北室さん)ことが分かった。(2013年9月16日朝刊より

 第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られ、勇気ある人道的行為を行ったと評価される杉原千畝のことが思い出される。


陽明丸(勝田汽船)がロシアの子供達救出に尽力
航海顛末



 大正9年(1920)、勝田汽船の「陽明丸」は第一次世界大戦後ロシアの大暴動を逃れサンクトペテルブルグから逃避行し1年以上もアメリカ赤十字社の保護のもとシベリアに滞留し送還のめどがたたないでいた4歳から18歳の児子達約900人を極東のウラジオストックからパナマ運河を経由しほぼ地球を半周して故郷のペテログラードまで約3ヶ月間の困難な大航海の末、ロシア難民の子供達を故郷に送り届けた実話である。
辻 雄史氏より拝借写真

陽明丸 大正8年大阪鉄鋼所因島工場 10685トン
船籍地  愛媛県松山市新浜(現三津浜)
所有者  勝田汽船・大洋汽船株式会社 社長 勝田銀次郎
処女航海シアトル 主に北米と傭船契約
 大正9年6月アメリカ赤十字社と傭船契約(ロシアの子供達800人他救出活動従事
大正15年  大洋汽船から所有者が変更船籍も松山から神戸に変わる(勝田汽船整理の為)
昭和4年7月  気仙沼沖で濃霧の為座礁しその後解体

勝田汽船グループ大洋汽船「陽明丸」航海中、船上でのスナップ

陽明丸 乗船者は以下の通り1,000人を超す大所帯だった
ロシア難民   男児 428名  女児 351名  婦人 87名  ※子女平均年令 12.3才(10才前後が最多)
ドイツ兵士   77名(米国赤十字社に収容された東部戦線でロシア軍に捕らえられていたドイツ兵捕虜)
米国赤十字社関係者   隊長アレン中佐以下16名、米国YMCA派遣員1名
陽明丸乗組員   茅原船長以下60余名




其の1◆ロシアの動乱 其の2◆アメリカ赤十字社 日本に傭船依頼

 大正6年(1917)ロシアで世にいう「10月革命」が起こり富豪及び知識人を目標にした大暴動が勃発してロマノフ王朝が崩壊、以後数年間の革命と内戦が発生した。

 首都サンクトペテルブルでは放火、略奪、暴行、殺人が横行する中、上流階級の3〜15才の子供達は親を頼みいることもできず、兄弟を守ることもできず命からがら御身一つで脱出し極東シベリアの沿岸部まで逃げ延び途方にくれ彷徨っていたところ、シベリアに遠征中の連合軍に救われ、その後アメリカ赤十字社派遣部隊により保護されウラジオストックの収容所のような窮屈穴な所に婦女子900人に近い一団が牢籠とした日々を送っていた。 

 ウラジオストックは大正9年(1920)当時日本軍の統治下にあったものの戦火が拡大し極めて危険な状態になっていた、一団のは上流階級の子弟が多かった為共産主義のソビエト新政権は、彼らが将来、危険分子となることを危惧し彼らに関心を持たず敵体的であったばかりか、国外脱出を認めず、速やかに児子達を引き渡すようアメリカ政府に警告していた。
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アメリカ赤十字社は彼らをこのままウラジオストックで保護するのは難しい状態となりフランスへ移送することにし日本の船会社に傭船を依頼した。
 表向き日本政府も関与できず、港湾入り口には機雷が敷設されている等かなりの危険を伴う上に貨物船主にとって人間の輸送は厄介なので何処の船会社も辞退し受けての無い状態だと聞いた任侠溢れる勝田汽船社長の勝田銀次郎はすぐさま危険と採算が合わないのを承知でアメリカ赤十字社の傭船を快諾し貨物船「陽明丸」10,675重量トンをもってその任務に当たる事を申し出た。

 銀次郎は岡山県笠岡市出身の茅原基治を船長に指名し「陽明丸」のメインマストに掲げられていた勝田汽船社旗をはずし煙突に赤十字のマークを入れ貨物船だった船を勝田銀次郎個人でも多額の寄付をして子供達が航海できる客船仕様に改造にした。

 この改造で貨物船だった「陽明丸」は一時的に中甲板全部を客室にし、上層甲板下に病室・浴場を設けまた客室の換気を行う為要所〃に8個の電気通風器を据え付ける等して一寸した汽船には見られないれない程の設備を施した。

 外装は煙突に赤十字のマークをペイントし、舷側に「AMERIKAN RED CROSS」と大きくペイントした。航海時にはメインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾にのみ大日章旗を翻した。


   其の3◆神戸 → ウラジオストック 
子女達を迎えに
 勝田銀次郎らによる数万円の寄付等により客船仕様に生まれ変わった陽明丸(船長:茅原基治)は神戸と門司で水と燃料を積み込み子供達が待つロシアのウラジオストックへと向かった。
 ウラジオストック港口、ルシア島海岸一帯で待ち受けていた一団の子女達は煙突に赤十字、舷側にアメリカン・デットクロスと大書きしメインマストに米国旗と赤十字旗を掲げ船尾に日章旗掲揚した「陽明丸」の船影を見ると一斉に歓呼をあげ迎えた・・・時に大正9年(1920年)年7月9日だった。


 当時のウラジオストックは荒廃し最大の百貨店クンストアルバースは革命直後暴徒の襲撃を受けしかも経営者がドイツ人だった為、徹底的に略奪され何一つとして残らず壁まで剥げ落ちその他の商店も往日の面影を止ず陰惨な空気は全市に沈滞していた。

 そして街路ではよれよれの服を着た警使や疲れきった感の市民達の姿が見られ共産革命とはいったい何だったんろうと思わせる風情であった。


 
陽明丸はウラジオストックで食料、日用品を積み込み7月13日の午後一行960名を乗せ出帆した



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其の4◆ウラジオストック → 室蘭 
食料等補給)
其の5◆室蘭 → サンフランシスコ 
航程4,250海里 

 陽明丸」はウラジオストックで積み込んだ牛肉に不良品があった為、途中北海道の室蘭に入港して25頭分と野菜類の買入の必要になった。

 船は室蘭港に入港し子女達は一歩でも日本の土を踏みたいと申し出たが室蘭水上署は思想問題、講和条約未批准未了の理由で米国人以外は罷りならんと拒否されたが、彼らがソビエト政権に追われたしかも頑是ない児子達に赤思想があるはずもない事を力説して船長が責任を負うことでやっと許可がでた。

 室蘭市役所は官吏数名を上陸場に派遣し子女達を迎え直ちに近くの小学校に案内し茶菓を供し絵葉書を贈り学童の銃剣道試合を見せ校庭では言葉が通じないにもかかわらす純真な日ロ児童達が互いに手を握り片を打って戯れ交友した後一行は市内を一巡して帰船した。
 学校で気の毒な話を教えられた児童数十名は各々菓子や果物を携え「陽明丸」に乗船し身振り手振りで面白く可笑しく青い目の子供達と遊び戯れた。付き添いの大人達はこれを見て泣いて喜んだ。
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7月16日室蘭を出港した「陽明丸」はサンフランシスコへと向かった彼らの健康を考えてインド洋の夏の暑さを避け、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海する計画である。、

 途中子女達は、万一に備え救命ボートを水面に下ろす作業を船員と共同で練習したり操練や救命浮環の使用法等を教わたりしていざという時に備えた、又学齢以上の子供達はこの他毎日英語と数学の勉強を課せられその代わりに土曜、日曜には映画、ダンス、綱引き、ボクシング等で旅情を慰めた。

 こうして一大移動学園「陽明丸」は穏やかな太平洋を東へ東へと航海し航程四二五〇海里を無事横断し8月1日無事サンフランシスコ港に着く。




 其の6アメリカ国民に歓迎される  其の7◆サンフランシスコ → パナマ  航程 3,250海里
 
サンフランシスコ港の入り口付近では米国赤十字社社員、新聞記者等が乗船する多くの小型艇に迎えられ入港した「陽明丸」は係留先の桟橋でも埋め尽くす多くの人々に歓迎された。

 「陽明丸」が燃料と「食料を補給している間、子女達は各種の歓迎会に招かれたり市中見学したりして8月5日に出港し次の寄港地パナマに向かったのであるが彼らはサンフランシスコの盛況、市長の歓迎、多数の慰問品等、日本の室蘭と比較してアメリカは大きいと聞かされた船員達は日本で寄港したのが室蘭ではなくせめて函館であったらと悔しがった。
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カルフォルニア湾一帯は雄大な景色が広がり海面には(海豹)アザラシ群れが戯れ上空では無数のカモメが舞飛び陸上では大草原が広がるこの一大スペクタル映画の様なシーンに児子達は寝食を忘れる程喜び就寝時間が来ても上甲板から去らず警務係が船首に来れば、船尾へと月明かりの船上を走り廻り騒いだ。
 「陽明丸」は南下を続けメキシコから中南米沿岸に来るとロシアでは経験の無い暑さとなり油を流したような海面から強烈な日光を反射するので児子達もいつパナマに着くのか「暑い々」と苦しみ20人程が軽度の日射病にかかたが運良く2〜3日で治った。
 8月18日「陽明丸」は太平洋の東端パナマ港に到着、直ちに淡水の補給を始め翌日午前6時運河に向け出港するのでここでは子女達の上陸は許可が出なかった。




 其の8◆パナマ運河


 絵葉書がほしい、果物がほしいとの子供心を叶えてやりたいと葦原船長は乗組員一名を連れ客馬車に盛りあがる程買い入れて来たが到底七百幾十人の要求を満たすことは出来なかったが、翌日運河通過の際果物や絵葉書を寄贈してくれる篤志家があったので真に皆んなに行き渡ることが出来た。

 これを見た他の人達も自動車を飛ばし運河まで駆けつけオレンジ、マンゴー、バナナ等を雨の様に船内に投げ込んだその度に児子達が歓声を上げて喜ぶので岸に立っていた少女が大切に抱いていた人形を投げてくれたが船まで届かず中間の水面に落ちてしまった。

 「それ!人命救助は赤十字社の本領だと、早速縄梯子を下げて人形を救い上げたので船からも陸からも大歓声が沸き起こった」





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其の9◆パナマ運河 → ニューヨーク  
航程 1,972海里
其の10◆ニューヨーク

 8月19日午後8時頃「陽明丸」はパナマ運河を抜け大西洋上に浮かびニューヨークへと向かった、翌20日は朝から北東の風強く海も時々飛沫を船上に浴びせる程度荒れ子供達はオレンジやバナナを沢山ご馳走になった翌日であったので船酔いする子達が続出した、そこへ、カメラを向けるイタズラ者も現れ、苦悶と爆笑の混成で珍妙な場面があちこちで展開されたが運良く地球を3分の2航,海した中で船酔い騒ぎは今回が初めてだった。
, 途中キューバ島の北方にある低い島々の上に高い椰子の木が茂りアメリカ大陸を発見したコロンブスが第一歩を印したサンサルバドル島を過ぎると暑さも刻々と衰え児子達も元気に悪戯を始めだした。
 やがて陽明丸はアメリカ東海岸沿いに北航し大型船が東に南と頻繁に往来するニューヨーク港入り口に差し掛り孤児達を喜ばした。 8月28日ニューヨーク到着 
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 陽明丸は神戸で積んだ砂糖を揚げ、更に北欧方面に行く石炭を積込む為、約2週間停泊することになり孤児達一行は50日間の居住であった陽明丸を離れ米軍兵舎に移動した。

 この航海中50日間に散髪をしてもらったり玩具をもらった児子達も沢山いて乗組員との間は非常に親密になっていて兵舎へ行くことを喜ばす米国赤十字社幹部もやっとのことで一行を説得し移動した。

 現地の日本語新聞ニューヨーク新報では一行の旅情を慰める為在留邦人から義援金を募っていたが締め切りが迫っても僅か50ドル足らずしか集まらなかった。 ほとんど知識階級の在留邦人で普段は親善などと言っている割にはこのような時には無関心で又、日本企業のニューヨーク支店も、日本赤十字社ニューヨーク支部も鳴りを潜めて動かず、ニューヨーク領事館にいたっては、日本の船がロシア人の子供を乗せているとは何事かと船長を呼び出し問題が起きないように慎重にせよとのお叱りを受けるありさまであった。
 茅原船長いわく「こんな外交官が日米親善とか外交振興を求むるは木に登って魚を求めると同様」と言わしめた。

小児だけでも800名いるのに50ドル足らずではどうしようもなく結局義援金は陽明丸乗組員が100ドル寄付したところ急に、篤家が現れ529ドルに達したが日本領事館、日本赤十字社ニューヨーク支部及び日本の一流会社からは1円の義援金も得られなかった。


其の11ニューヨーク→ブレスト(仏蘭西)
 航程3,200海里
其の12◆ブレスト → キール運河 
航程800海里
ニューヨークでは色々とあったが陽明丸は児子達を乗せ9月14日出港して大西洋を一路仏蘭西のブレストに向け出港。
 出港に際し在留邦人から届けられたお菓子は貧弱な品ではあったが児子達は日本人から貰ったお菓子を喜んで頬張った。

 出港の翌々日ロシアの夫人が病没した、凶事は三度重なるということわざがあるが16才の少女の死とニコロフィースキー少年の死と3度目となったがこれ以降は平穏に航程3200海里を無事航海し9月27日仏蘭西の北側ブレスト港に着いた。
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陽明丸はドーバー海峡を北進し9月31日の朝、上流にハンブルク港があるエルベ川を昇り、キール運河の南端港プロンスヒュートに到着した。



 


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 其の13◆ブレスト(仏蘭西)
 この港では日米人以外者の上陸、面会は禁止され武装兵をもって監視するという物々しさであったが過激派の難を逃れて仏蘭西に居る多数の白色ロシア人には必ず一行の近親者がいるとの推測からアメリカ赤十字社仏蘭西支部が探索したにもかかわらずわずか2名を見い出したに過ぎなかった。

 この地では近親者に引き渡すこの2名と、ウクライナ方面に帰還する4名 計6名が一行から離れることとなった、シベリアの荒野で互いに助け助けられた友人と恐らく永遠の別れとなるべくこの別離を一同いたく悲しみ幾度も幾度も抱擁と接吻を繰り返し監視兵の制止もきかず門外まで走り別れを惜しんだ。
 陽明丸はフランス海軍から石炭と淡水の提供を受け翌9月28日デンマークのキール運河目指し出港する。






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 其の14キール運河
 この運河はドイツ皇帝によって開かれた全長100キロ程のバルト海と北海を結ぶ世界3大運河である。

 北端がドイツのキール軍港に通じている為キール運河と呼ばれている。

 軍事上の目的を主としものだけに横幅、深さ共に大艦巨舶の運行にも僅かな困難も感じさせない立派なに運河である。

 この運河にも南北端に閘門があってバルチック海と北海の潮高すなわち海面の高さを調節している。

 ドイツ人達は一行が乗船している陽明丸が運河の南北関門通過の際には食料品、衣料等が陸上より手当次第投げ入れられ数日後任務を終える陽明丸の船倉にはこれらの品物が山積みされた。
 
 其の15◆キール → ヘルシンキホルス
 バルチック海からフィンランド湾一帯はドイツ、ロシアによりおびただしい数の機雷が敷設されていている、両国の国情から掃海されないままになっているので危険この上なく現地の水先案内人を雇いエストニア西岸諸島を迂回しレベル港から真北に直進し10月10日ヘルシンキホルス港に着岸した、この航程は800海里足らずであったが危険を回避する為減速を繰り返し通常の倍以上の時間をついやした。

  其の16ヘルシンキホルス港
 フィンランド共和国は長年ロシアからの干渉をきらいドイツに接近しすべてをドイツに範を取り文武官の服装から貨幣の様式までそっくりとしカイゼル髭を巻き上げている武官を多く見かけた。

 外国語もドイツ語が主でフランス語、英語をしゃべりロシア語を知ていても口にする者はいない、やっとロシアと目と鼻の先の港に来たのだから何か児子達の情報は無いか英字新聞を買ったが情報を得る事は出来なかった。


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END
フィンランド コイビスト港(現ロシア・レニングラード州プリモルスク港)

 コイビスト港はロシア国境に近い港であるが戸数は5〜60戸しかすぎず少量の木材を小型の汽船や帆船で輸出するだけの貧弱な港であるがフィンランド国にとっては国防上重要な所である為水上飛行隊が配置されていた。

 陽明丸はこの港で使命を果たすので休養品、食料品、器具、寝具の陸揚げを始め13,14日の雨天でこれらの一切とドイツ人を除いた一行を上陸させた。

 一時に900人もの家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら首都コペンハーゲンで残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗がメインマストに閃いた。
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一時に900人もの家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら首都コペンハーゲンで残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗がメインマストに閃いた。一時に900人もの家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら首都コペンハーゲンで残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗がメインマストに閃いた。




 航海中の様子は茅原船長が書かれた赤色革命余話― 露西亜小児団輸送記 ―をご一読下さい。

金光図書館蔵書  岡山県浅口市金光町


参考文献
北室南苑 著 評伝 勝田 銀次郎
村田 重夫 著 
勝田銀次郎と陽明丸事件
辻 雄史 著
World to Take Children Home
浜田昌子 著


日本海員組合の組合長をつとめた浜田国太郎の追悼文 (得山翁小偲録)

 「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。

 彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。

 彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」