七つの海に活躍した、山下汽船創業者

山下亀三郎

Kamesaburo Yamashita

【1867年〜昭和1944年】日本の実業家。勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。当時の三大船成金(勝田銀次郎内田信也)の一人とされる。

愛媛県(現・宇和島市吉田町)生まれ。

 海運業を始め、さらに石炭業界や木材業界にも進出した。海軍の仕事を引き受け、日露戦争期に一大海運業者にのし上がった。

 以後も陸海軍関係の仕事を中心に船を増やし、 1937年には山下汽船社長のほか渡川水力電気・阪神築港などの社長も兼ね、 政界にも通じ、第二次世界大戦中には、内閣の顧問になった。

また陸海空軍航空設備として100万円の献金をしたり、 出身の愛媛県に3つの学校を設立するなど公共事業への寄付も積極的に行った。



山下亀三郎 その人となり 

日本海海戦の戦略を立てた東郷元帥の名参謀秋山真之が「彼に三絶あり」と特に優れた次の三点を指摘した。。


「その一、能く人の教を聴くこと」・・・すなわち「情報通」

「その二、能く人を使うこと」・・・すなわち「人間通」

「その三、乾坤一擲の離れ業を行うふこと」・・・すなわち「果敢な実行力」

※乾坤一擲 けっこんいってき・・「乾坤」は天と地、「一擲」はサイコロを投げて、天(奇数)が出るか、地(偶数)が出るかを賭けることの意。 すなわち、天下をかけた大ばくちのこと。自分の運命をかけて、のるかそるかの大勝負をする


表彰状

故従四位勲一等 山下亀三郎殿

 あなたは山下汽船合名会社を創立し神戸港を基地として日本海運界屈指の大会社にそだてあげ 神戸海運界の繁栄に多大の貢献をされました 今日の港都繁栄は あなたの功績によるところまこに顕著なものがあります。
 ここに神戸開港百年祭を迎えるにあたりあなたの偉業をたたえ謹んで顕彰の意をささげます

   昭和42年5月15日
    神戸開港百年祭協会会長、神戸市長

             
原口忠次郎


山下亀三郎こぼれ話

 石原慎太郎と裕次郎兄弟の父親、石原潔は山下亀三郎と同じ愛媛県南予で生れ育ちその縁あって大正3年、14歳の時に山下汽船の船童として採用される、つまり小僧として中学中退で入社し、昭和26年、51歳で死ぬまで勤めている。

 父親の潔は単なる真面目サラリーマンではなくたたきあげの凄腕、遊び人でかなりの洒落者だったようである。

 中堅社員になった潔はカッとなって大胆無謀な行動をしたため、クビになるところを亀三郎がその短慮を愛したが故にそうならずにすみ、罰として小樽支店にとばして、樺太の材木を山から伐採させて内地にピストン輸送する仕事をさせた。

 このような荒仕事は荒れくれ者たちをしごいて使わねばならず、やわな人間ではできない、潔はこれを見事にこなして汚名をそそぎ、小樽の支店長になった。

 このころから潔の生活水準はあがり、慎太郎裕次郎兄弟は瀟洒な家に住み、お坊ちゃん風に育てられ、ハイカラな幼稚園に通う。やがて昭和18年に逗子に転勤することになる。

 同郷の山下亀三郎の元(山下汽船)で重役を努め、北海道から逗子に引っ越してから、子供にヨットを買い与えるほどの余裕のある中産階級の生活だった。


一部愛媛県生涯学習センター 人物探訪より参照
愛媛の海百景 奥南運河より



 1999年大阪商船三井船舶(株)はナビックスライン(株)と合併、(株)商船三井が誕生しました。ナビックスラインは1989年、山下新日本汽船とジャパンラインが合併したものですが、さらにそのルーツをたどると、山下汽船があります。

その山下汽船の創業者で、維新前夜に生まれ、終戦目前に没するまで明治・大正・昭和の激動期を政・財・官・軍の巨頭たちの間を渡り歩き、時に「泥亀」あるいは「船成金」と綽名(あだな)され、その自伝のタイトルさながら「沈みつ浮きつ」しつつ一大財閥を築き上げた海運界の名物男こそ愛媛の海偉人、山下亀三郎を紹介します。

家出少年から放蕩息子に

 大当たりをする前は、愛媛県宇和島の中学校を落第し、15歳のとき、「太政大臣三条実美のようになる」と言って家出したものの、東京に出てきては明治法律学校を中途落第退学したという。3、4年の商店奉公も一向に浮かばず、1894(明治27)年、資本皆無で石炭商売に手を染めた経歴。その間、親のすねをかじり、郷里で母親が氏神に日参し「コレラにかかって死んでくれ」と祈念したほど、相当の親不孝者である

石炭商から船持ちへ

 石炭商として独立後3年、ようやく商売が回り始めた1899( 明治32)年33歳のとき、初めての直積み石炭600トンの引き取りで、回漕店からの運賃(720円)支払い請求に困惑する亀三郎。「運賃などというものは石炭を売込みその代金を得てから払うもので、先に払う理屈がない」。あまりの無知を聞き及んだ知己の立て替えでその場をしのいだが、「運賃を先取りできるなんて、こんな小気味いい商売はない、石炭商より船持ちだ」という想いが再燃する。
 石炭商売に精を出して蓄えた資金も1万円になった1903(明治36)年。どうも日露の関係が面白くないと、12万円で売りに出ていた英国船「ベンベニュー号」(2,372トン)の頭金に1万円をはたき、石炭商の弟分である松永安左衛門、そのパートナー福沢桃介らの協力もあり、苦労の末にサミュエル商会から購入成功、念願の船主となる。「土佐丸」の向こうを張って「喜佐方丸」と命名した。
 持たねばならぬ、持ちたい信念だけで船主となったものの、経験も知識もなく、燃料代さえ稼げず赤字を垂れ流し、2 ? 3航海もすればパンク寸前という眠れない日々が続く。そんな中でも、御用船に聞き及ぶや、徳富蘇峰のチャンネルで海軍省へ抜け目なく直談判。半年過ぎても音沙汰なく暮れも押し詰まった12月26日、資金工面に門司まで出かけていた亀三郎に届いた至急電報「ゴヨウセンノ メイ クダル」。
 名前に似合わず素早い亀三郎。三井の上海行き石炭満載で佐々港出帆目前の本船に(ここは英断一番、国家の御用に対しては三井などにグズグズ言わさぬ)即時、横浜廻航を指示(世の中は、山下が石炭を積んだまま逃げた、と騒然)。夜行で門司を発ち、大阪で三井の支店長に事後了解を求めた後、横浜へ戻って陸揚げの手配、海軍に引き渡すという早わざ。この間3 ? 4昼夜、無我夢中でどこをどう歩いたか記憶にないという。

船を持った動機

さかのぼること7年前の1896(明治29)年3月15日、横浜。駆け出しの石炭商亀三郎は朝、伊勢山の家で、日本郵船の欧州航路第一船「土佐丸」の汽笛を聞き、横浜の海がロンドンに通じた気がしてじっとしておれず、ビールの小瓶1本もって近くの伊勢山皇大神宮境内に駆け登り、茶碗で乾杯しながら、他日自分も船を持ち英米とつないでみたいと夢想し、これが海運業を志す原点となった、と回想している。
 世間のにおいに敏感な亀三郎、翌年1904(明治37)年2月宣戦布告さるや、「喜佐方丸」姉妹船「サンダー号」も購入、石炭も買い集め、一旗揚げることに成功する。

「喜佐方丸」と「吉田丸」
明治36年(1903)外国人商社Samuelから売りに出ていた中古船を買い取り郷里喜佐方村の名前を冠して「喜佐方丸」と命名した。
 2隻目を「第二喜佐方丸」、3隻目を「第三喜佐方丸」と命名している。
大正6年に建造した船にはやはり故郷吉田町の名前を冠し「吉田丸」と名付けその後も「第一吉田丸」、「第二吉田丸」、「第三吉田丸」と名づけた。

「喜佐方丸」は明治39年(1906)には初めて故郷に回航され、吉田町の人々に大歓迎された。

反動不況の沈没期

短期間でもうけた亀三郎、渋沢栄一の依頼で引き受けた小樽木材株式600万円が戦後反動不況で紙くずになるなど、沈むのも早かった。途方に暮れてレールの上に身を横たえたこともあったというが何とか踏みとどまり、資金を頼みに伺った大倉喜八郎の「山下君、僕の境遇を直ちにあげるよ。代わりに君の歳と替えてくれたまえ」という言葉に奮い立った。

小田原 対潮閣

 囲碁も将棋も知らねば、ゴルフにもトランプにも興味なし。気分転換に居場所を変える必要もあり、また読書ができない亀三郎、耳学問の情報収集に客を呼ぶ必要性から、高輪の本邸以外に各地に別荘を所有。政財界人・文人墨客たちが好んで住まった小田原の対潮閣もその一つ。
 豪傑松下軍治が手掛けた木曾御料林の檜を使い豪壮な邸宅であったが、病没後の大正5年売物に出されるも買い手がつかず、頼まれて亀三郎が15万円で購入。その水道設備を利用していた閑院宮家、山縣有朋、益田孝たちにいたく喜ばれた。以来、懇意となった古稀庵主山縣元帥に造園を依頼、「口出し無し・期限無し・予算無制限」の乱暴な3条件を、「この大戦中は稼ぐので、元帥はその半月のもうけも使えまい」と即座に了承。その完成をもって元帥により「対潮閣」と命名さる。その掛け物 「うち渡す相模の海を池にして仰ぐ箱根は庭の築山」 が豪壮さを物語るが、残念なことに関東大震災で崩壊した(本人は、「綺麗さっぱり解消された」という)。
 『坂の上の雲』の主人公「天気晴朗なれども波高し」で有名な秋山真之提督は、療養中の1918(大正7)年2月4日逗留先の友人宅にて再発した盲腸炎が原因で没したが、その友人こそNHKドラマよろしく「淳さん」と呼び合う仲の亀三郎であり、対潮閣の二階が提督最期の地である。現在は観光スポットとして碑が立つ。日露開戦前の風向きについて真之情報もあったのかもしれない。

社会還元

自分が今日あるは厳格に育ててくれた母親のおかげであるとして、郷里に女学校を2校建設するなど子女教育に関心の高かった亀三郎は、1940(昭和15)年、軍人・軍属の子弟教育のため陸海軍に何と1,000万円を寄付し、これを基金に?山水育英会が設立された。戦後は小澤征爾も輩出した桐朋学園に引き継がれている。 前年の1939(昭和14)年に竣工した大阪商船の南米航路代表的客船「あるぜんちな丸」の船価が約1,000万円。また1940(昭和15)年度の絶頂にあった山下汽船の営業利益が1,344万円。その心意気が想像できようというもの。

故郷への社会貢献

(1)喜佐方小学校への寄付
 明治38年と明治39年、亀三郎の故郷にある喜佐方小学校の基本財産壱阡円、敷地買収費壱阡円寄付これらの援助により明治41年喜佐方尋常小学校の新校舎が落成した。
 又、大正11年同校の増築工事費の一部として七阡円を寄付、昭和12年には校庭拡張費の一部として壱万円の寄付をした。
 さらに昭和17年に山下講堂を工事費の一切を山下亀三郎が寄付し建築された。

(2)喜佐方村図書館への寄付
 大正8年(1919)、建築費4,600円で喜佐方村久保に木造2階建て35坪の図書館を設立。

(3)筋への道路と防波堤
 明治41年(1908)喜佐方から堀切を経て筋に通じる筋道路が起工され壱阡円寄付。
 大正6年(1917)筋に1500坪の別荘が造られこの別荘があった吉田町白浦外に現在も穏やかな内港をつくりだしている防波堤を寄付。
◎奥南運河の建設
 昭和2年(1927)亀三郎の援助で吉田町奥浦に奥南運河を建設、西宇和郡の小村から南予のハブである宇和島に向かう人々は漁船に身を託し奥南運河を通過して宇和島に向かったのである、大崎鼻や法花津湾口は難所も多く、天候を気にしながら大崎鼻から一気に奥南運河をめざして航行したことであろう。

   


(4)二つの女学校
 大正6年(1917)吉田町に山下実科女学校を開校し大正13年(1924)には4年制の高等女学校に組織替えし、私立山下女学校と改称した。
 
 大正9年(1920)母の郷里三瓶町に第二山下実科学校を開校。こちらも大正13年に4年制の高等女学校に組織替えし私立山下高等女学校と改称した。

(5)吉田病院
 大正10年(1921)診療を開始した吉田町外五ケ村衛生組合立吉田病院の創設について建設費用の一部として弐萬五阡円を寄付、亀三郎は医師の人選についても、かねてかこころ易かった東京帝国大学の真鍋喜一郎を紹介、その結果開院すると帝大出身の名医がいる総合病院として吉田、宇和、野村方面ばかりか、海を越えて大分方面からも患者が訪れた。

(6)吉田中学校
 大正12年(1923)第1回入学式を挙行した吉田中学校づくりについても、亀三郎は、清家吉次郎町長をバックアップした。
 やがてこの学校は、昭和13年に県立吉田工業高校となり更に昭和25年には私立山下高等学校を併合した。

(7)喜佐方トンネル

 
昭和15年1940)喜佐方隧道の工事が開始〜昭和17年完成、これにより喜佐方から隧道を通って立間まで吉田を迂回せずに直通で行けるようになった。
 この隧道づくりでも、大実業家・山下亀三郎の富が幾多の困難を吹き飛ばした。
 

【山下亀三郎】1867(慶応3)年〜 1944(昭和19)年

1867(慶応3) 0才 慶應3年4月9日、旧吉田藩伊予北宇和河内村(後の喜佐方村?現在の愛媛県北宇和郡吉田町)に、150戸の庄屋、山下源次郎の4男として生まれる。
1882(明治15) 15才 12月、16歳のとき、宇和島の南予中学校を中退、郷里を出奔、京都市上京区9組小学校および下京区33組銅釶小学校助教員として務める。
1884(明治17) 17才 11月、この年の冬、郷里の先輩穂積陳重を頼って18歳で上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に籍を置く。
法律、経済学を学ぶ。
1887(明治20) 20才 11月、富士製紙会社の日給取り(日給17銭)となる。
1888(明治21) 21才 大倉孫兵衛紙点に就職する。
1891(明治24) 24才 横浜の貿易商池田文次郎商店に番頭として奉公、翌年、26歳で朝倉カメと結婚し、新居を横浜市真砂町に構える。
1893(明治26)
1894(明治27)
26才
27才
池田文次郎商店が倒産したため、しばらく自分で洋紙業を営んでいたが倒産する。
つてを求めて竹内兄弟商会石炭部に就職。
1898(明治31) 31才 竹内商会の石炭部を譲り受け、個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と改め横浜市南仲通に店を開く。
1902(明治35) 35才 初めて岸本五兵衛の持ち船「神威丸」(2,210G/T)を6カ月間定期傭船する。これが、海運進出への端緒となる。ただし、6,000円に及ぶ損失を受ける。
1903(明治36) 36才 念願の船を購入、「喜佐方丸2,373トン」と命名する。 ※「喜佐方丸」は亀三郎の故郷の地名から
1904(明治37) 37才 「第二喜佐方丸2,375トンを購入
1906(明治39) 39才 2月、横浜石炭商会の組織を合資会社とする。
喜佐方丸」故郷の吉田に回航し、吉田の人々に大歓迎される。 
1911(明治44) 44才 6月24日山下汽船合名会社設立社長に就任する。
1912(大正元) 45才 「第三喜佐方丸を購入
1914(大正3) 47才 12月、日本商船株式会社を買収する。
1915(大正4) 48才 11月、山下汽船合名会社石炭部を独立させ、山下石炭株式会社を創立する。
1916(大正5) 49才 6月、奔別炭鉱株式会社を買収する。
8月、渋沢、古河、住友、藤田の諸氏と共に扶養海上保険株式会社を創立する。
8月、郷里吉田町に山下実科女学校を設立する。
12月、福島炭鉱株式会社を創立する。
第一次世界大戦(1914 ? 18)により、「船成金」として巨利を得、山下汽船の基礎を築く。
1917(大正6) 50才 山下汽船株式会社設立。本店を神戸市に置く。
浦賀船梁株式会社の取締役に就任する。
1918(大正7) 51才 母の郷里三瓶町に第2山下高等女学校を設立する。
1月陸海軍航空費として2百万円を献金する。
8月、勲三等に叙せられ瑞宝章を授与される。
8月、米価暴騰救済資金として31万2千円を献金する。
12月、山下石炭株式会社および奔別炭鉱株式会社を合併し、山下鉱業株式会社とする。
1919(大正8) 52才 7月、松方幸治郎、金子直吉、浅野総一郎、勝田銀次郎、内田直也の諸氏と国際汽船株式会社を創立し取締役に就任する。
1920(大正9) 53才 4−10月欧米を視察する。
6月、ロンドンにYamashita S.Co.London.Ltdを創立する。
12月、浦賀船梁株式会社の社長に就任する。
1921(大正10) 54才 6−7月、台湾を視察する。
1922(大正11) 55才 1月、大連に山下汽船合資会社を創立する。
5.6月中国、オーストラリアを視察する。
8月、アメリカにYmashita.Co.Lineを創立する。
1924(大正13) 57才 5月、フランス政府より勲章を贈与される。
1926(大正15) 59才 7−9月、「印度支那方面」を視察する。
8月、再びフランス政府より勲章を贈与される。
1928(昭和3) 61才 11月、正6位に叙せられる。
1929(昭和4) 62才 3月、浅野総一郎氏と尼ケ崎築港株式会社を創立する。
7月、南満州鉄道株式会社と共同で阪神築港株式会社を創立する。
1931(昭和6) 64才 10月。北朝鮮林業株式会社を創立する。
1932(昭和7) 65才 満州海陸運送株式会社を創立する。
1935(昭和10)年末時点での運航船腹は一般傭船を含めて80 ? 90万重量トンに達する。
1937(昭和12) 70才 3月、扶養海上火災保険株式会社の取締役に就任する。
1941(昭和16) 74才 上海公館を設置する。
12月太平洋戦争勃発
1943(昭和18) 76才 3月、内閣顧問に任命される。
9月、天皇陛下の御前において御進講する。
1944(昭和19) 77才 1月、内閣顧問として、青森、函館の港湾施設を査察する。
4月、朝鮮方面を2週間にわったて査察する。
10月、瀬戸内海を査察する。
12月13日満77才8ヶ月大磯の別邸において死去する。
勲一等瑞宝章を授けられる。


山下亀三郎と同郷の愛媛県人で同時代に海運王・政治家として活躍した
海運王 勝田銀次郎
・ロシアの子供難民800人救出に尽力
松山ロシア兵捕虜収容所
今も続く、日露友好のかけ橋