海の国愛媛の出身者には、「愛媛の海偉人」と語り継がれている人達がいる

 


日本・トルコを結ぶエルトゥールル号に続く第二の架け橋
平明丸事件 (只今製作中)

百年という歳月は、多くの出来事を風化させる。

しかし、人が人を救うために下した決断だけは、時代を越えて生き続ける。

遠くトルコでは、エルドアン大統領がその歴史に言及し、イスタンブールの街には、祖国へ帰ることのできたトルコ兵を率いた陸軍中佐・津村諭吉の名が刻まれた。

一人は、使命を貫いた軍人であった。

一人は、荒海にあっても乗客の命を預かり抜いた船長・田村一得であった。

そしてもう一人は、誰も引き受けようとしなかった航海を決断し、自らの私財まで投じて人道の船団を送り出した勝田汽船社長・勝田銀次郎であった。

津村諭吉の「勇」。 田村一得の「誠」。 勝田銀次郎の「義」。

三人がそれぞれの持ち場で貫いた信念は、一隻の船を動かし、千人を超える命を故郷へ導いた。

それは武勲ではない。

人間が人間を信じた、その力が生んだ奇跡であった。

その奇跡は、百年を経た今なお、エーゲ海からスエズ運河、そして地中海の青い海原に静かに息づいている。

歴史は戦争を語ることが多い。

だが、その陰には、武器ではなく人道によって世界を結んだ者たちがいた。

彼らが地中海に刻んだ「勇」と「誠」と「義」の航跡は、消えることなく、未来へ向かう光となって輝き続けている

人道面で偉大な功績を残した勝田銀次郎と勝田汽船商船団


1,遠い祖国を想った兵士たち


― 
平明丸、その海路 ―

二十世紀の初頭。世界は、それまで人類が経験したことのない規模の戦火に包まれていた。

1914年、ヨーロッパで始まった戦争は、やがて世界各地を巻き込む大戦となった。

後に「第一次世界大戦」と呼ばれるこの戦いは、単なる国家間の争いではなかった。

それは、古い帝国の時代が終わり、新しい世界秩序が生まれるための、大きな転換点でもあった。

その渦中にあった国の一つが、オスマン帝国である。

かつて東西の交易路を支配し、アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがった大帝国。

しかし20世紀を迎えた頃、その威光には陰りが見え始めていた。

民族運動の高まり。列強による圧力。国内の政治的混乱。

それでも帝国に生きる人々にとって、祖国は守るべき場所であった。

オスマン帝国はドイツ、オーストリアなどの同盟国側に立ち、第一次世界大戦へ参戦した。

敵となったのは、イギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国。

戦場はヨーロッパだけではなかった。

黒海沿岸。カフカスの山岳地帯。中東の砂漠。地中海の海域。

若いトルコ兵たちは、それぞれの故郷を胸に秘め、戦地へ向かった。..

だが、戦争という巨大な機械は、人間の思いを簡単に踏みにじった。

極寒の中で倒れる者。飢えに苦しむ者。病に命を奪われる者。

戦場にあったのは、栄光よりも、生き延びるための苦闘だった。

そして一九一八年。長い戦いの果てに、オスマン帝国は敗れた。

休戦協定が結ばれ、兵士たちは武器を置いた。しかし敗れた者に待っていたのは、故郷への帰還ではなかった。

多くの兵士は捕虜となりやがてシベリアという広大な土地へ向かうことになる。

だが、シベリアで彼らを待っていたものは、さらに大きな歴史の嵐だった。

1917年、ロシア革命。長きにわたり続いた帝政ロシアは崩壊し、国内は革命と内戦の混乱へ入った。

赤軍と白軍。革命を支持する者と、旧体制を守ろうとする者。

さらに各国もそれぞれの思惑でロシアへ関わった。

日本もまた、シベリア出兵という形でこの混乱の中に入っていた。

広大な大地で、国境も政治も揺れ動く。

その中に取り残されたトルコ人捕虜たちは、ただ故郷を思い続けた。

遠いアナトリアの空。家族の声。帰るべき土地。「いつか、もう一度祖国の土を踏みたい」

その願いは、年月を越えて消えることはなかった。

そして大正10年(1921年)。世界がまだ戦争の傷跡を残す時代に、一隻の日本船がその使命を背負うことになる。

名は平明丸。勝田銀次郎率いる勝田汽船の船であった。

この航海は、利益だけでは測れない航海だった。


戦争が終わっても、苦しみはすぐには終わらない。

そして、その中で国境や敵味方を越えて人を救おうとした人々がいた。
「トルコ人捕虜救済」の舞台裏はノーベル平和賞を受賞したノルウェーの偉大な探検家・人道主義者である「フリチョフ・ナンセン」が、かつて日本政府と連携して人道支援を行おうとしていました。
外務省アジアア歴史資料センターには、第一次世界大戦末期(1919年頃)の緊迫した国際情勢と、その裏で動いた温かい人道支援の試みが記されています。
当時、ロシア・シベリア地域には多くのトルコ人捕虜が取り残されていました。過酷な環境にある彼らを救うため、赤十字国際委員会の提案のもとで立ち上がったのがナンセン氏でした。「トルコ人捕虜にせめていくらかでも支援を届けたい」そう願ったナンセン氏のアイデアに応え、なんと当時の日本政府(外務省)が動き出します。日本を通じて捕虜へ支援物資や手を差し伸べるため、イスタンブールのイギリス高等弁務官事務所に許可を願い出たのです。
当時はイギリス・フランスなどの思惑が絡み合う複雑な外交戦の真っただ中。日本からの要請に対するイギリス側の回答や、軍情報部によるメモ書きなど、当時の生々しい外交交渉の記録がこの資料から読み取れます。のちに日本は輸送船「平明丸」を仕立ててトルコ人捕虜を送り届けるなど、トルコとの深い絆(津村諭吉中佐の活躍など)を築くことになりますが、その背景にはナンセン氏の強い人道精神と、日本の外務省の迅速なアプローチがあったのです。
一方、トルコ側もイギリスなど連合国との交渉が必要でした。しかし戦後の複雑な国際情勢のため、すべての兵士をすぐに救うことはできませんでした。
水彩画は、戦争に翻弄されながらも帰国の日を待った兵士たちの姿です。
大正9年(1919)駐英大使を通じて「シベリアにいるトルコ人捕虜を母国へ帰還させてほしい」という要請が日本へ届きます。日本政府は人道的見地からこの要請を受諾しました。


,2.【大正10年(1921219日、ウラジオストク港。歴史が動いた日】

 オスマン政府からの送還費用の送金通知を受け、再び燃え上がった帰国への希望。

1年以上も待ち続け、一度は帰国の希望を失い、シベリアの町々に散り散りになっていたトルコ人捕虜たち。しかし大正10年(1921年)219日、ウラジオストク港に日本の船「平明丸」が姿を現したとき、港は歓喜の渦に包まれました。
「本当に故郷へ帰れるのだろうか」――船が停泊するその瞬間まで信じられなかった彼らにとって、それは7年におよぶ捕虜生活の終わりを告げる瞬間でした。
極寒の地で出会った最愛の家族を連れて乗り込んだ者、母国を想う者。
それぞれの願いを乗せた「明るい平和」の船旅が、ここから始まりました。
ついに勝田汽船の「平明丸」がウラジオストク港に到着すると、押し寄せたトルコ人捕虜たちで港は埋め尽くされました。
当時、日本側が確認していた管理地域の捕虜は830人。しかし、シベリア各地から「日本の船でイスタンブールへ行ける」という報を聞きつけた人々が、続々とウラジオストクへ進を続けていました。激動の国際情勢の裏側で、命をかけた人道的な大移送作戦がまさに幕を開けようとしていたのです。
第一次世界大戦の東部戦線でロシアの捕虜となり、シベリアへ連行された膨大な兵士たちのうち、平明丸に乗り込んだのは1,032名。彼らを乗せた船は、赤色革命の嵐が吹き荒れ、すぐ近くの尼港(ニコラエフスク)で凄惨な事件が起きたばかりの危険なウラジオストクを出港し、遥か故郷トルコを目指して命がけの航海へと旅立ちました。


 明 丸
HEIMEI-MARU 
1919年8月31日進水 大阪鉄鋼所因島工場 6,671トン
船籍地  愛媛県松山市新浜(現三津浜港)
所有者  勝田汽船・大洋汽船株式会社 社長 勝田銀次郎
1926年  大洋汽船から所有者が変更船籍も松山から神戸に変わる(勝田汽船整理の為)
1944年  1月4日17:00頃インドネシア近辺にて対空戦闘被爆 
18:50陸上からの砲撃で沈没


シベリアー日本海ーエーゲ海を渡って 「捕虜生活から自由へ」

トルコ共和国青年及びスポーツ省2021年8月発行より転載

3,【涙の出港】100年前、ウラジオストクの港で起きた「国境なき絆」

 シベリア抑留から解放されたトルコ人捕虜たちを乗せ、出港を待つ日本の輸送船「平明丸」。
その船内は、まるで「世界の縮図」のようでした。

 トルコ人、日本人、中国人、アメリカ人、韓国人、アゼルバイジャン人……。多様な人々が乗り合わせ、そこには12人の女性たちもいました。彼らはいつしか一つの大きな家族のようになっていったといいます。

 心を震わせた、日本人の粋な計らい

最も捕虜たちを感動させたのは、日本人が彼らのために船へ「オスマン帝国の国旗(月と星の旗)」を掲げてくれたことでした。

「この旗のおかげで、私たちは迷わず自分の船に帰ることができた」

捕虜たちは涙を流し、行進曲を歌いながら、感謝の叫び声をあげて船に乗り込みました。

ウラジオストク港に流れた涙、見送る側の地元のムスリム市民や、タタール人の宗教指導者たちも、別れを惜しみ滝のような涙を流したと記録されています。

複雑な国際情勢のなか、立場を超えて人道的な温かさで繋がった人々。100年経った今も色褪せない、胸が熱くなる歴史の一幕です。

  1921223日、ウラジオストク港での感動的な別れ

100年前日本の輸送船「平明丸」がトルコ人捕虜たちを乗せ、ウラジオストクから故郷へと旅立ちました。

 出港前、日本の陸軍輸送指揮官津村諭吉少佐(4月に中佐に昇進)は彼らに向けて「私たちは同じアジアの人間。国へ帰ったら、遠い東に太陽の国(日本)があることを子どもたちに話してほしい。お互いに手を携えて努力しましょう」と、熱いエールを送りました。

 17時半、汽笛とともに船が動き出すと、港には歓声と涙が溢れ、歴史的な送還のドラマが幕を開けました。国境を越えた敬意と優しさが、今の日本とトルコの絆に繋がっていることを感じさせる素敵なエピソードです。

 国境を越えた敬意と、激動の時代を生きた人々の熱いドラマ。

現在の親日国トルコとの深い絆は、こうした100年以上前の先人たちの温かい交流からも紡がれているのかもしれません

辺り一面に氷が張る極寒のウラジオストク港から、トルコ人捕虜たちを乗せた日本の輸送船「平明丸」が出港しました。

港には「お元気で!」という声が遠ざかっていきます。

光と影が交錯する、切なすぎる別れ

歓喜の出港の裏には、胸が締め付けられるような悲劇もありました。

捕虜生活の間に、現地のロシア人女性と結ばれていた兵士たち。しかし、祖国へ帰る船に妻たちを連れて行くことは許されず、ここに置いていかなければなりませんでした。

「手を振って夫たちに別れを告げる女性たちは、船を見ながら泣いていた」

互いに抱き合って泣き崩れ、気絶する者さえいるほどの、大混乱と悲痛の別れがそこにはありました。

命を守るための、日本人中佐の決断

出港直後、日本海を襲う激しい嵐。心身ともにボロボロの捕虜たちを見た日本の津村中佐は、45日間に及ぶ長い航海で「船内での疫病の蔓延」を何より恐れました。

かつてシベリアへ連行される列車の中で、病に倒れ死んでいった仲間たちを嫌というほど見てきたトルコ人捕虜たち。

津村中佐が、トルコ人兵士のリーダーであるアリフ大佐に「公衆衛生のための当番システム」を要請すると、彼らは二つ返事で協力し、すぐに実行へ移されました。

悲しい別れを乗り越え、命を守るために手を取り合った日本人とトルコ人。極寒の海を進む船の中には、確かな信頼関係が芽生え始めていました。

4,平明丸その航海は過酷を極めるものでした。

出港直後、凍りつく海を抜けた平明丸を待っていたのは、日本海の猛烈な大嵐。暗闇のなか、狂ったような大波に揺さぶられ、船内はパニックに陥ります。さらに、勝田汽船本社とは連絡が途絶え、「平明丸は沈没したのではないか」と絶望視されるほどの状況でした。

この絶体絶命の危機を救ったのが、平明丸の舵を握る「田村一得(たむらいっとく)船長」でした。

漆黒の闇の中、船体を破壊しかねない怒涛の巨波が次々と襲いかかる極限状態。田村船長は32歳で船長免許を取得し卓越した操船技術、そして一切の妥協を許さない凄まじい執念で、一歩間違えれば沈没という荒海を見事にコントロールし続けたのです。

この命がけの操船と、船全体の指揮をとる日本人の中佐(津村諭吉氏)らの毅然とした対応によって、

平明丸は激しい嵐を耐え抜くことができました。

長い嵐が去った翌朝。奇跡的に一命を取り留めた船内に、津村中佐のアナウンスが響きました。

「皆さんお疲れ様でした!私たちは大変な災害を切り抜けました」

船会社との連絡も無事につながり、周囲の多くの船舶が行方不明になるなかで、平明丸だけが神に守られるように嵐を乗り越えたことを知ったトルコ兵たちは、涙を流して喜んだといいます。

船内にはトルコ人兵士だけでなく、彼らと結婚したロシア人女性や、幼い子どもたち、それから彼らを支える看護師や助産師も乗船していました。船長から末端の船員まで全員が日本人だったこの船は、まさに国境を越えた「命のノアの方舟」だったのです。

田村船長のプロフェッショナルな職人技と、先人たちが見せた命がけの「人道支援」。この歴史的な航海が、今の日本とトルコの深い友好関係の礎になっているのだと思うと、胸が熱くなります。


5,コロンボ港へ ― 平明丸、故国を目指す捕虜たちの航海
1921年3月15日。
シベリアの厳しい寒さを越えてきたトルコ人捕虜たちを乗せた「平明丸」は、水と食糧補給のためインド洋の港町コロンボに到着した。
長い航海の疲れを抱えた捕虜たちは、船から降りることも、自由に街へ出ることも許されなかった。
当時、コロンボはイギリスの植民地。港に停泊した平明丸の甲板には、故郷への帰還を待つ人々の思いが静かに流れていた。
イギリス兵による確認が行われる中、船に掲げられたオスマン帝国の旗を見て、現地のイスラム住民の中には心を寄せる者もいました。しかし、厳しい監視のため、直接交流することはできませんでした。
必要な物資を整えた平明丸は、翌夜、再び出航します。
シベリアの凍える大地から、インド洋の暑さへ。
急激な気候の変化は、捕虜たちの身体に大きな負担を与えました。船上では病に倒れる者もいましたが、「祖国へ帰る」という希望だけが、彼らを支えていた。


6,スエズ運河座礁

1921
42日。

平明丸は、エジプトのポートサイドへ到着した。

しかし、安堵も束の間、スエズ運河通航中に思いがけない事故が発生した。

前方から一群の船舶が接近し、狭い運河の中で平明丸は急な避航を余儀なくされた。船橋では田村一得船長の号令が飛び、操舵手は懸命に舵輪を切った。しかし、巨体はすぐには応えず、船首は大きく振られ、船体は運河を横切るような姿勢となった。

次の瞬間、船底に鈍い衝撃が走る。

「乗り上げた!」

平明丸は砂州に船底を擦りつけ、そのまま動きを止めた。運河は一時閉塞され、船内には緊張が走る。

機関室では機関士たちが蒸気圧を調整し、甲板では船員たちが総出で離礁作業に取り掛かった。船体の傾きを見守るトルコ人捕虜たちも、不安そうに甲板へ集まり、黙って作業を見つめていた。誰も騒ぐ者はいない。ただ無事に再び航海が続けられることを祈るばかりだった。

約五時間に及ぶ懸命な作業の末、平明丸はゆっくりと砂州から離れ、自力で船体を立て直した。船内には安堵の空気が広がり、再び汽笛が響くと、静かな拍手が起こったという。

翌日、平明丸は予定より遅れながらも地中海へ姿を現した。

船首越しに広がる青く穏やかな海を目にした瞬間、トルコ人捕虜たちの表情は一変した。

「あれが地中海だ……。」

誰かがそう呟くと、その言葉は静かに甲板へ広がっていった。

幼い頃から見慣れた祖国の海。

シベリアの雪原で生き延び、数か月に及ぶ長い航海を経て、ようやく故郷の入口まで帰ってきたのである。

「祖国までは、もうあと少しだ。」

誰からともなくそんな言葉が聞こえ始めた。

ある者は帽子を脱ぎ、静かに祈りを捧げた。

ある者は海風を胸いっぱいに吸い込み、目に涙を浮かべながら水平線を見つめ続けた。

仲間同士で固く握手を交わす者もいた。

彼らにとって、この地中海は単なる航路ではなかった。

故郷へ帰るという長年の願いが、現実のものとなる希望の海だったのである。

しかし、その希望はやがて新たな試練へと変わる。

ポートサイドで手に入れたアラビア語新聞には、祖国トルコがなお戦火の中にあり、首都イスタンブールが連合国軍の占領下に置かれていることが報じられていた。

歓喜に包まれていた甲板は、再び重い沈黙に覆われた。

「本当に帰るべき場所は、イスタンブールではない。」

そう考えた将校たちは、日本側の責任者である津村中佐に、「どうか私たちをメルスィンへ連れて行ってほしい」と、切実な願いを託すことになる。


7.「私たちをメルスィンへ連れて行ってほしい」
1921年4月2日。
平明丸はエジプト・ポートサイドへ到着した。
長いシベリアでの捕虜生活を終え、インド洋の荒波を越えてきたトルコ人捕虜たちは、ようやく祖国に近づいたことを感じていた。
しかし、そこで彼らが知ったのは、祖国を取り巻く厳しい現実だった。
新聞には、オスマン帝国の首都イスタンブールが外国軍の影響下にあること、トルコ国内では新たな情勢が生まれていることが報じられていた。
捕虜たちの心には不安が広がった。
「イスタンブールへ行っても、本当に故郷へ帰れるのだろうか」
「家族の待つ場所へ、一日でも早く戻りたい」
彼らが望んだのは、ただ祖国の土を踏むことだった。
トルコ人将校たちは、日本側の責任者である津村中佐に相談した。
「私たちをメルスィンへ連れて行ってほしい」
その言葉には、長い苦難を耐え抜いた人々の切実な願いが込められていた。
メルスィンは、彼らにとって故郷へつながる港だった。
そこには家族がいる。
帰りを待つ人々がいる。
彼らは、日本人乗組員が自分たちを捕虜としてではなく、人間として扱ってくれたことを忘れていなかった。
津村中佐は彼らの思いを理解し、静かな口調で答えた。
「あなた方は、私たちの捕虜なのでしょうか」
「しかし、私たちはあなた方を敵として扱ってはいません。
直接戦った相手ではないからです。
だからこそ、これまで客人として接してきました」
「その気持ちは今も変わりません」
津村中佐の言葉は、軍人としての命令だけではなく、人としての思いから出たものだった。
しかし、現実には軍から与えられた命令があった。
「私たちは、あなた方をイスタンブールへ連れて行くよう命令を受けています」
「もしこの命令に従わなければ、私自身が厳しい処分を受けることになります」
「どうか、そのことも理解してほしい」
「イスタンブールへ行ったとしても、そこからさらに祖国のために進む道を選ぶことは、あなた方自身の判断です」
津村中佐はさらに無線で状況を本国へ伝えることを考えた。
しかし、トルコ国内では新しい政府勢力が動き始めており、日本政府との関係もまだ正式なものではなかった。
政治的な問題を引き起こす危険もあった。
津村中佐は仲間たちへ状況をありのままに伝えた。
するとトルコ人将校たちは言った。
「日本の兵士たちを困らせることは望みません」
「命令に背かせることは、私たちの願いではありません」
そして彼らは、イスタンブールへ向かうことを受け入れた。
平明丸は再び地中海へ進んだ。
しかし津村中佐の胸には、深い迷いが残った。
後に彼は、トルコ人捕虜たちをメルスィン港へ届けられなかったことを、長く悔やむことになる。
軍人として命令に従う責任。
一人の人間として、故郷を求める人々を救いたいという思い。
その二つの間で揺れながら、平明丸はエーゲ海へ向かって航海を続けた。

8,ミディッリ島沖、運命の停船
――1921年4月5日 午前10時30分――
エーゲ海の青い海を、黒煙をたなびかせながら平明丸は北へ進んでいた。
船内にはシベリアから解放されたトルコ人捕虜たち。彼らの胸には、故郷への希望が静かに灯っていた。
しかし、その頃アナトリアの大地では、新たな戦火が燃え上がっていた。
ギリシャ軍はイズミル上陸以来、西アナトリアの占領を拡大し、ブルサ、ウシャクを次々と制圧していた。だが戦線が内陸へ延びるにつれ補給は困難を極め、勢いは徐々に陰りを見せ始めていた。
一方、祖国を守ろうとするトルコ国民軍は日ごとに力を増し、反撃の機会をうかがっていた。
ギリシャ側にとって、平明丸に乗る数百人の元捕虜たちは単なる帰還者ではなかった。
彼らが祖国へ戻れば、その多くが国民軍へ加わる可能性があったのである。
1921年4月5日、火曜日。
午前10時30分。
レスボス島沖を航行していた平明丸の前方に、2隻の軍艦が姿を現した。
それはギリシャ海軍の戦艦 ヘラクレス号と魚雷艇 であった。
軍艦は平明丸の進路を塞ぐように横たわると、信号旗と汽笛によって停止を命じた。
平明丸船橋では、指揮を執っていた津村諭吉中佐をはじめ乗組員たちが双眼鏡を向けた。
「何かの誤認ではないか。」
誰もがそう考えていた。
だが、ギリシャ艦からの信号は繰り返された。
「停船せよ。そして我々に従え。」
やがて一隻のボートが軍艦から降ろされ、武装した海兵隊員たちが平明丸へ乗り込んできた。
兵士たちは無線室へ向かい、通信設備を封鎖した。
その光景を見守るトルコ人たちの顔から、帰国への安堵はみるみる消えていった。
後年、当時乗船していたトルコ側代表の一人、ハリル・アタマン中尉は、その日の出来事をこう回想している。
「1921年4月5日火曜日、私たちはミディッリ島の前を航行していた。
午前10時30分頃、不吉な出来事が起こった。
ギリシャ軍艦と魚雷艇が我々の前に現れ、『停船せよ、我々について来い』と命じた。
船は停止し、武装した海兵隊員が乗り込んできた。
彼らは船の無線を切断し、再び我々に従うよう命じた。」
船内には重苦しい沈黙が広がった。
「また捕虜になるのか――。」
シベリアの凍土を生き延び、ようやく祖国の土を踏めると信じていた男たちの胸に、再び絶望の影が忍び寄った。
彼らは知らなかった。
これから始まる外交交渉が、日本とギリシャ、そして新生トルコの運命を巻き込む国際問題へ発展していくことを。
エーゲ海の風は静かだった。
しかし、その海の上では、平明丸の運命を左右する数日間が、まさに幕を開けようとしていた。

9,― エーゲ海の停船命令 —

津村中佐:「彼らを連れて行くなら、まず私を越えて行け」
銃剣を装着した小銃。
鋭い軍靴の音。
将校は船橋へ案内されるなり、書類を机の上へ叩きつけた。
ギリシャ軍将校:「貴船に乗船中のトルコ人捕虜1000余名を、ただちに我が軍へ引き渡していただく。」
船室の空気が凍りついた。
津村論吉中佐は書類に目を落としたあと、静かに顔を上げた。
「理由を伺いたい。」
「彼らは我が国の敵兵だ。」
将校は言った。
ギリシャ軍将校:「ギリシャ王国はトルコと交戦中である。我々には捕虜として拘束する権利がある。」
津村中佐は微動だにしなかった。
「彼らは日本政府の保護下にある。」
ギリシャ軍将校「そんなものは我々には関係ない。」
将校の声が荒くなる。
「要求を拒否するなら、我々は武力による臨検を行う。」
その言葉に、船室の空気が一変した。
平明丸は武装商船ではない。
相手は軍艦。
抵抗すれば、勝負は見えている。
船員たちは息を呑んだ。
しかし津村中佐は椅子から立ち上がると、将校の目を真っ直ぐ見つめた。
津村中佐:「断る。」
将校の顔色が変わる。
ギリシャ軍将校:「今、何と言った?」
津村中佐:「引き渡しはできない。」
ギリシャ軍将校:「あなたはギリシャ王国に逆らうつもりか。」
津村中佐の返答は短かった。
「私は日本政府の命令に従うだけだ。」
将校は机を叩いた。
「あなたは1〇〇〇余名のトルコ兵のために、日本とギリシャの外交問題を引き起こす気か!」
津村論吉中佐は静かに答えた。
「問題を起こそうとしているのは、あなた方だ。」
船室が静まり返る。
「私は彼らを祖国へ送り届けるよう命じられている。」
「私の任務は、それだけだ。」
将校は怒りを露わにした。
「我々は必要なら力ずくで連行する!」
その瞬間だった。
津村中佐の表情が変わった。
先ほどまでの静かな口調は消えた。
軍帽のひさしの下の目が鋭く光る。
「貴官に私へ命令する権限はない。」
船室の空気が凍りついた。
「貴官は私と同階級、あるいはそれ以下と聞いている。」
「この件については、私より上級の責任者が来られるなら話をしよう。」
津村中佐は扉の方を指した。
「それまでは――退船願いたい。」
ギリシャ将校の顔色が変わる。
「これはギリシャ政府の要求である!」
津村中佐は一歩前へ出た。
「私は日本政府の命令に従っている。」
「そして、ここは日本船だ。」
船室に重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
船橋入口に立つ日本人将校たちが、無言のまま腰の拳銃へ手を添えた。
誰も言葉を発しない。
しかし、その意味は明白だった。
もし中佐に危害が及ぶなら、彼らは命令を待たず動く。
ギリシャ兵たちもまた銃を握る手に力を込める。
船室の空気は張り詰め、誰かが呼吸する音さえ聞こえるほどだった。
エーゲ海の穏やかな波音だけが、窓の外から聞こえていた。
一瞬の判断で銃声が響くかもしれない。
平明丸船橋は、まさに戦場の最前線となっていた。
津村中佐は微動だにしなかった。
「私が命じられているのは、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜を祖国へ送り届けることだ。」
「その命令が変わらない限り、彼らを引き渡すことはない。」
将校は津村中佐を睨みつけた。
だが、その目の前に立つ日本軍人の覚悟を崩すことはできなかった。
やがてギリシャ将校は帽子を取り、低い声で言った。
「本国へ報告する。」
軍靴の音が遠ざかる。
船室の緊張がわずかに解けた。
しかし、本当の試練はまだ終わってはいなかった。
四月五日、平明丸はエーゲ海のミディッリ島沖で停船を命じられ
そして5日間にわたり、祖国を目前にした1〇〇〇余名のトルコ人捕虜たちは、再び運命の判断を待つことになる。
________________________________________
― 平明丸船橋の沈黙 ―
ギリシャ将校団が船橋を去ったあとも、船内を覆う重苦しい空気は消えなかった。
エーゲ海の陽光は甲板を明るく照らしている。
しかし、その光は誰の心にも届いてはいなかった。
船長は船橋の窓際に立ち、両手を背中で組んだまま海を見つめていた。
荒天のインド洋も、濃霧の紅海も、この男は顔色一つ変えずに乗り切ってきた。
だが、この日の船長の横顔には、隠しきれない苦悩が浮かんでいた。
軍艦一隻で商船など容易く止められる。
もしギリシャ軍が武力による臨検を決断すれば、平明丸に抵抗する術はなかった。
船を守るべきか。
乗客を守るべきか。
いや、その両方を守る方法はあるのか。
船長は帽子を脱ぎ、深く息を吐いた。
その姿は、まるで嵐の海で進路を失った航海者のようだった。
その時、一人のトルコ人士官が静かに近づいた。
「船長、何が起きているのですか。」
船長はしばらく答えなかった。
やがて低い声で言った。
「困ったことを言ってくるのです。」
そして海の向こうに浮かぶギリシャ軍艦へ視線を向けた。
「彼らは、あなた方を引き渡せと言っている。」
士官の顔から血の気が引いた。
船長は続ける。
「あなた方がトルコ人であること、それだけで十分な理由だと言うのです。」
「我々は日本政府の保護下にある人々を運んでいる。」
「それを我々の手で差し出せと言う。」
船長は拳を握った。
「そんなことが許されるのでしょうか。」
「それで、あなた方は何と答えたのですか。」
船長は振り返った。
その目には決意が宿っていた。
「引き渡さない、と答えました。」
短い言葉だった。
だが、その一言の重みを誰もが理解していた。
________________________________________
― ミディッリ島沖、五日間の停船 ―
しかし、本当の試練はここから始まった。
ギリシャ軍の要求を拒絶した平明丸は、そのまま航海を続けることを許されなかった。
あと少しで祖国の土を踏めるはずだったトルコ兵たちは、その海上で足止めされた。
一日。
二日。
三日――。
平明丸は動かない。
煙突から煙が消え、機関の鼓動も止まった。
見えるのは、すぐそこに横たわる故郷の方角だけだった。
夜になると、トルコ兵たちは甲板へ出て、闇の向こうを見つめた。
「あの向こうに、母がいる。」
「あの向こうに、妻と子供が待っている。」
だが船は進まない。
いつギリシャ軍が再び乗り込んでくるのか。
いつイスタンブールから「引き渡せ」という命令が届くのか。
誰にも分からなかった。
ある者は眠れず、甲板を歩き続けた。
ある者は故郷の名を呟きながら祈った。
またある者は、再び始まるかもしれない捕虜生活を思い、声を殺して泣いた。
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一方、津村中佐は毎日船橋に立ち、沖合に停泊するギリシャ軍艦を見つめていた。
相手は軍艦。
こちらは一隻の商船。
力の差は明らかだった。
それでも中佐は譲らなかった。
「彼らを祖国へ送り届けよ。」
日本政府から受けた命令は変わらない。
そして津村中佐自身の決意もまた、変わらなかった。
船長もまた苦悩していた。
船を動かせば国際問題になる。
動かなければ人々の希望が消えていく。
船橋では夜遅くまで灯が消えることはなかった。
日本側はイスタンブール、日本大使館、関係各国へ次々と電報を打ち続けた。
平明丸の運命。
百余名のトルコ兵の運命。
そのすべてが、外交交渉の行方に委ねられていた。
― 五日目の朝、そして再び試練 ―
そして五日目の朝。
ついに待ち続けた返答が届いた。
だが、それは誰も望んでいたものではなかった。
平明丸に与えられた命令は、
「航行再開」
ではなかった。
「アテネ近郊のピレウス港へ回航せよ。」
というギリシャ当局の指示だったのである。
船橋に重い沈黙が落ちた。
船長は電文を握ったまま、しばらく言葉を失った。
津村論吉中佐もまた、無言でその文面を見つめていた。
四月十二日。
平明丸はミディッリ島沖を離れた。
しかし、その針路はイスタンブールではなかった。
西へ。
ギリシャ本土へ。
アテネ近郊のピレウス港へ向かっていたのである。
その事実を知ったトルコ人捕虜たちの間に、不安が広がった。
「我々は再び捕虜になるのか。」
「ギリシャ軍へ引き渡されるのではないか。」
誰も口にはしなかった。
だが、その表情がすべてを物語っていた。
甲板の上から見えるエーゲ海は相変わらず美しかった。
だが彼らにとって、その海は自由への道ではなくなっていた。
船橋の窓から海を見つめる船長の表情は険しかった。
その横で津村中佐が静かに言う。
「船長。」
「はい。」
「進路を変更してください。」
船長は驚いたように振り返る。
「ピレウスへ、ですか。」
津村中佐はゆっくり頷いた。
「今は従うしかありません。」
そして続けた。
「しかし、彼らを引き渡すことだけはありません。」
船長は黙って帽子を被り直した。
「承知しました。」
平明丸は黒煙を吐きながら、ゆっくりと針路を西へ変える。
甲板では、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜たちが黙ってその様子を見つめていた。
祖国は東にある。
だが船は西へ向かっている。
その現実が、彼らの胸を締めつけた。
しかしその時、津村中佐は甲板に集まったトルコ人たちへ向かって静かに言った。
「安心してください。」
「あなた方を祖国へ送り届けるという任務は、まだ終わっていません。」
その言葉に、トルコ人たちは静かに帽子を取り、中佐へ向かって頭を下げた。
エーゲ海の風が吹く。
右舷マストのトルコ国旗が大きく翻る。
平明丸はピレウス港へ向かって進む。
だが、その船の進路を決めていたのは、海図ではなかった。
最後まで約束を守ろうとする、一人の日本軍人の意志だったのである。

10,平明丸船長・田村一得による勝田汽船本社宛ての報告書

正10年(1921年)4月28日ギリシャ・ピレウス港
拝啓
本船は4月5日午前8時ごろ、多島海(エーゲ海)のミチレニ島付近を航行中、ギリシャ海軍の駆逐艦が接近してきました。
最初に国際信号で「国旗を掲げよ」と命じられたため、直ちに日本国旗を掲げました。
すると続いて「我に従って航行せよ」との信号が送られてきました。
そこで「どこへ向かうのか」と尋ねる信号を送ったところ、「もう少し島陰へ進め」という返答でした。
当時は北風が強く、その場所では艦船同士の立ち入り検査は困難であったため、島陰で臨検を行うつもりなのだろうと考えました。
やがて風波の比較的穏やかな島の南側に到着し、停船すると、一人の若いギリシャ海軍士官が乗船してきました。
その士官は、
「ギリシャ政府の命令により、平明丸に乗船しているトルコ人全員を、ミチレニ港でギリシャ政府に引き渡せ」
と命じました。
津村少佐はこれをきっぱりと拒否し、さまざまな交渉を試みました。
しかし当時、私たちはギリシャとトルコがどのような戦争状態にあるのか詳しく知らず、どうすることもできませんでした。
結局、駆逐艦の命令に従い、開港場ではないミチレニ港へ向かい、その日の午後6時に投錨しました。
この問題については、国際法上ギリシャの行動が正当だったかどうか疑問が残ります。
しかし、この事件に関する責任はすべてギリシャ政府にあるという内容の書面を、駆逐艦長から受け取りました。
その後、捕虜と乗組員の食料はすべてギリシャ政府から支給され、本船は約一週間その港に停泊しました。
その間、本船から会社宛ての電報を駆逐艦に託して送りましたが、届いたかどうかは分かりません。
通信手段は非常に不便で苦労し、そのため報告が遅れたことをご理解ください。
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1週間後、本船は約190マイル離れた軍港へ移され、さらに翌13日には現在のピレウス港へ回航されました。
幸いここで陽明丸と出会い、茅原船長からロンドンおよび本社へ事情が連絡されていることを知りました。
現在、この港では特に大きな変化はなく、日本政府からの命令を待ち続けています。
しかし今日まで、すでに23日間も約1,000人もの捕虜を船内に収容したままであり、平明丸の状況はまことに悲惨です。
捕虜たちの衛生状態も精神状態も、決して良いとは言えません。
津村少佐をはじめ私たちは皆、大変心配しています。
これまでのところ、
• 精神錯乱を起こした女性が1名
• 毒薬による自殺を図った者が1名
出た程度ですが、
もし事件の解決にさらに1か月もかかるようであれば、さらに重大な事故や事件が起きても防ぐ方法がありません。
そのことを思うと、非常に心細く感じています。
それでも私たちは何とか工夫し、捕虜たちを慰め、励ますことに努めています。
一方、本船の乗組員は全員健康で元気に過ごしておりますので、その点はどうかご安心ください。
また、捕虜・乗組員ともに食料はギリシャ政府から支給されています。
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現在、日本政府は、
「このトルコ人たちはウラジオストクですでに正式に解放された元捕虜であり、当然イスタンブールへ上陸させるべきである」
と主張しています。
東京の日本政府は、この事件を駐イギリス日本大使を通じてギリシャ政府と交渉しています。
約一週間前、ロンドンにいる伊丹少将から津村少佐宛ての電報が届きました。
その内容は、
「ギリシャ政府は、トルコ人をイスタンブールへ上陸させることについて承諾した。ただし、上陸後は連合国の管理下に置き、彼らがアンカラ政府へ合流し、ケマル将軍の軍に加わって再びギリシャ軍と戦うことがないと保証すること」
という条件付きである、というものでした。
しかし、その二日後に届いた新しい電報では、
「イスタンブール上陸と連合国管理については、さまざまな事情からまだ最終決定には至っておらず、さらに時間がかかる見込みである」
という内容に変わっていました。
その後は、新たな情報は何も届いていません。
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その後、津村少佐と私はアテネの海軍省を訪れ、直接海軍大臣と面会して事件の進展を尋ねました。
しかし海軍大臣は、
「まだ何も決定していない。また、イスタンブール上陸について条件付き承認を与えた事実もない」
と答えました。
そのため現在も、何の進展もないまま、ただ日々が過ぎていくばかりです。
参照 : アジア歴史資料センター 5-0642
写真 : 田村船長 (小学校教諭時代の写真を元にAIで作成
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この報告書から伝わること
この田村船長の報告書からは、次のことがよく分かります。
• 平明丸はギリシャ軍によって突然停船・拿捕されたこと。
• 津村少佐と田村船長は最後までトルコ人捕虜の引き渡しを拒否し、粘り強く交渉したこと。
• 船内には約1,000人の捕虜が23日間も閉じ込められ、衛生状態や精神状態が悪化していたこと。
• すでに精神錯乱者や自殺未遂者まで出るほど、船内は極限状態であったこと。
•その頃、平明丸がギリシャ軍に抑留されたとの知らせは、ロンドン、そして神戸の勝田汽船本社にも届いていた。
勝田汽船社長・勝田銀次郎は、一刻も早く平明丸の安否を確認する必要があると判断した。
ちょうど近海を航行していた勝田汽船の貨物船陽明丸に対し「平明丸の状況を確認せよ。」との指示が伝えられていた。
数日後、ピレウス港で平明丸は陽明丸と劇的な再会を果たす。
陽明丸の船橋には、茅原船長の姿があった。
茅原船長は田村船長へ歩み寄ると、静かに告げた。
「ご安心ください。ロンドンにも本社にも、この事件はすでに連絡してあります。日本政府も動き始めています。」
その一言は、二十日以上も孤立状態に置かれていた平明丸の乗組員にとって、どれほど大きな励ましとなったことだろう。
この陽明丸は、前年の1920年(大正9年)、革命と内戦の混乱で祖国を失い、難民となって行き場をなくした八百余人のロシアの子どもたちを救い、遠くフィンランド・コイビスト港まで送り届けたことで世界に知られた、人道航海の伝説を持つ船である。
人命を救った船が、再び人道の危機に立つ仲間の船を支えるため、エーゲ海の港に姿を現した。
それは偶然ではなく、勝田汽船が創業以来大切にしてきた「人を救う海運」という精神が、二隻の船を結び付けた瞬間であった。
田村一得船長は、その再会によって、自分たちは決して孤立しているわけではないことを知る。
エーゲ海の静かな港で交わされた短い言葉は、千人を超える元トルコ人捕虜と平明丸乗組員に、再び希望の灯をともした。
• 日本政府はロンドンを通じてギリシャ政府と外交交渉を続けていたものの、情報が錯綜し、現場は先の見えない不安の中で待ち続けていたこと。
この報告書は、平明丸事件当時の緊迫した状況を、船長自身が克明に記録した第一級の歴史資料と言えます。

11,― ピレウス港 絶望の五日間 ―
4月12日。
平明丸は、ギリシャ軍の命令に従い、アテネ近郊のピレウス港へ曳かれるように入港した。
岸壁は異様な熱気に包まれていた。
港というより、まるで戦場だった。
桟橋という桟橋は人で埋め尽くされ、群衆が黒い波のように押し寄せている。
男も女も、老人も子供も、誰もが平明丸を指差し、怒号を浴びせていた。
「あれがトルコ兵を乗せた日本船だ!」
「引き渡せ!」
「港へ降ろせ!」
ギリシャ語の怒声は嵐のように甲板へ叩きつけられた。
平明丸の乗組員は黙ってその光景を見つめるしかなかった。
甲板の1〇〇〇余名のトルコ人捕虜たちは、誰一人声を出さない。
彼らはシベリアから生還した。
あと少しで祖国だった。
それなのに今、再び敵国の港に閉じ込められている。
誰もが同じことを考えていた。
「帰れないのか……。」
13日の朝武装したギリシャ兵が再び乗船した。
銃剣を付けた小銃。
冷たい軍靴の音が鉄甲板に響く。
彼らは当然のように船内へ入り込もうとした。
しかし、その前に1人の男が立ちはだかった。
津村論吉少佐だった。
「ここから先へは入れない。」
兵士たちは一瞬立ち止まる。
やがて将校が前へ出た。
「我々は船内を捜索する。」
津村少佐は首を横に振る。
「この船は日本船である。」
「日本政府の命令を受け、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜をイスタンブールへ送り届ける任務にある。」
「貴官らが立ち入ることは認めない。」
将校は顔をしかめた。
「命令だ。」
「命令だから従え。」
津村少佐は1歩も退かなかった。
「命令を受けているのは私も同じだ。」
「私より上級の責任者を連れて来られたい。」
「その方となら話をしよう。」
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
押し切ろうと思えばできた。
しかし、その前に立つ日本軍人の眼差しは、銃剣より鋭かった。
やがてギリシャ兵は舌打ちしながら船を降りていった。
だが、それは終わりではなかった。
翌日からギリシャ軍は、さらに過酷な手段へ出る。
平明丸への食糧補給を止めたのである。
水も届かない。
パンもない。
燃料も乏しくなる。
船内には不安が静かに広がっていった。
1〇〇〇余名のトルコ人捕虜は、配られる僅かな乾パンを何人もで分け合った。
水筒の底に残った最後の1滴まで、大切に口へ運ぶ。
飢えは、シベリアで嫌というほど経験してきた。
だが祖国を目前にして味わう飢えは、それ以上に心を蝕んだ。
夜になると船内は静まり返る。
誰も眠れない。
甲板では祖国トルコの方角を見つめ続ける者。
家族の写真を胸に抱く者。
声を殺して祈る者。
誰も未来を語らなかった。
船橋では船長が航海日誌を閉じた。
「このままでは船員も捕虜も持たない……。」
その声は震えていた。
津村少佐は窓の外の暗い港を見つめたまま答えた。
「だからこそ、ここで屈するわけにはいきません。」
船長は静かにうなずいた。
その夜、船内は静まり返っていた。
ピレウス港の岸壁には、なおギリシャ兵の見張りが立ち、探照灯の白い光が平明丸を照らし続けていた。
船長は船橋を離れ、1人で甲板を歩いていた。
昼の騒然とした空気が嘘のように、海だけが静かだった。
その時、甲板の隅にいた数人のトルコ人士官が立ち上がり、船長へ歩み寄った。
言葉は通じない。
それでも彼らは帽子を胸に抱き、深く頭を下げた。
船長は驚いたように立ち止まる。
彼らの目には、不安の中にも揺るぎない信頼が宿っていた。
この数日間、船長は自ら食糧の配分を見守り、わずかな真水さえ公平に分けるよう乗組員へ命じていた。
ただ「無事に祖国へ送り届ける」。
その思いだけで支え合っていたのである。
トルコ人士官の1人は、片言の英語で静かに言った。
「キャプテン……サンキュー。」
その短い一言に込められた思いは、どんな長い言葉よりも重かった。
船長は照れくさそうに帽子へ手を添えると、小さく微笑んだ。
「礼を言われることではありません。」
「私は船乗りです。」
「皆さんを目的地まで送り届けるのが、私の務めです。」
その言葉を聞いたトルコ人たちは再び深く頭を下げた。
後年、祖国へ帰還した捕虜たちは、日本人への感謝を繰り返し語ったという。
その感謝の中には、命令に従うだけではなく、1人ひとりを人間として接し、苦難をともにした平明丸の船長と乗組員への思いも含まれていたのではないだろうか。
過酷な航海の中で船長が示した冷静さと公平さは、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜にとって、大海原で唯一頼ることのできる「安心」の象徴だったのかもしれない。
平明丸の船長は、彼らにとって船を操るだけの船長ではなかった。
祖国へ続く最後の希望を預かる、信頼すべき「キャプテン」だったのである。

12,「飢えは、静かに人の心を奪っていった」
1921年4月15日。
エーゲ海に浮かぶ平明丸は、ギリシャ軍によってピレウス港に抑留されたまま、すでに十日近くが過ぎていた。
その頃、トルコとギリシャの軍はドゥムルプナルで交戦していた。
船ではギリシャから4月13日~16日の間食料も水も与えられなかった。
船内には、千人を超えるトルコ人捕虜、
日本人乗組員、そして日本陸軍関係者たち。
誰もが「今日こそ船は動く」と信じていた。
しかし、その希望は毎朝、港に響く軍靴の音とともに打ち砕かれていった。
その日も津村少佐は、ギリシャ軍へ食料の支給を求めた。
「このままでは人が死にます。」切実な訴えだった。
だが返ってきたのは、冷たい沈黙だけだった。
翌16日。再び嘆願する。
「食料だけでも、水だけでも届けてほしい。」
それでもギリシャ軍は何も与えなかった。
船の上には、重苦しい静寂だけが流れていた。
3日目の朝,津村少佐は、船倉に残る食料を調べた。
樽の底を叩き、水桶をのぞき込み、最後の袋を開ける。
計算は、あまりにも残酷だった。
「あと2日……。」
このままでは、誰かが飢えで倒れる。
いや、船にいる千人すべてが危険だった。
津村少佐は決断する。
自らギリシャ軍司令官との交渉に赴いた。
「我々をここへ抑留するのであれば、あなた方には食料と水を供給する義務がある。」
静かな口調だった。
しかし、その一言一言には、千人の命がかかっていた。
「この船は45日分の食料を積み、日本を出港した。
本来なら、今ごろ私たちはイスタンブールに到着しているはずだった。」
司令官は黙って聞いていた。
何も答えず、「上官へ報告する。」
そう言い残し、船を去っていった。
夕暮れが近づいたころだった。
ついに桟橋から荷車が近づいてくる。
誰もが息をのんだ。
「食料だ……。」
船内に、わずかな希望が広がる。
届けられたのは、
米。乾燥インゲン豆エジプト豆。少量の肉パン。塩。
そして、ほんのわずかなバター。
捕虜たちは歓声を上げることもなく、黙って鍋を囲んだ。
誰もが、この一杯に命をつないでいた。
しかし夕方、配給は終わる。
そこで誰もが気付く。
まったく足りない。
一人に配られた量は、茶碗一杯にも満たなかった。
空腹を満たすどころか、生き延びるための最低限にも届かない。
それでも人々は文句を言わなかった。
黙って隣の者へパンを譲る者。
子どもへ最後の一口を渡す母親。
病人にスープを運ぶ仲間。
極限の飢えの中で、人々はなお、人間であろうとしていた。
日が経つにつれ、空腹は肉体だけでなく心まで蝕んでいく。
船内には、異様な静けさが漂い始めた。
笑顔は消え、会話も少なくなる。
昨日まで祖国の話をしていた男が、今日は何も語らない。
誰もが床を見つめ、
ただ時間だけが過ぎるのを待っていた。
後に捕虜の一人は、こう回想している。
「その日、私は奇妙な感覚を覚えた。私たちはこの新しい現実に慣れてしまった。希望を失うことにも、空腹にも、少しずつ慣れてしまったのである。」
それは絶望よりも恐ろしいことだった。
人は苦しみに慣れたとき、生きる意志さえ失ってしまう。
平明丸は、もはや船ではなかった。
それは千人の命が閉じ込められた、小さな孤島だった。
そして、この苦難は、まだ始まったばかりだった。

13,― 平明丸を解放せよ ―
祖国まであとわずかというエーゲ海で、平明丸はギリシャ軍によって停船させられた。
船上には、七年にも及ぶシベリア抑留からようやく解放された千余名のトルコ兵捕虜。そして彼らを護送する日本陸軍の津村論吉中佐ら一行、さらに平明丸の船長と船員たちがいた。
この事件は、もはや一隻の商船の問題ではなかった。
日本政府の威信と、人道の原則を懸けた国際問題へと発展していく。
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東京では、内田康哉外務大臣が直ちに行動を開始した。
ギリシャ政府に対し、
「平明丸を直ちに解放せよ。」
と強く要求。
さらに、ロンドン、パリ、ローマ、イスタンブールの日本公使館・大使館へ次々と電報が打たれ、日本外交網は総力を挙げて動き始めた。
日本はギリシャの行為を国際法に反するものとして厳しく抗議し、イギリスをはじめとする列強にも理解と協力を求めた。
一方、オスマン帝国外務省も各国へ救援を要請し、トルコ兵捕虜を守るため奔走していた。
平明丸の船上では、日本とトルコ、そして世界各国を結ぶ電報だけが唯一の希望となっていた。
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しかし、ギリシャ政府は譲らなかった。
「戦争が終わるまで、捕虜は引き渡さない。」
その強硬姿勢の背後には、ギリシャを支援するイギリスの存在があった。
外交交渉は難航し、平明丸は7ケ月近くピレウス港で拘束され続けることになる。
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その間、平明丸の船内は日ごとに極限状態へ追い込まれていった。
船は本来、長期間停泊するために設計されたものではない。
食糧も飲料水も次第に不足し、十分な補給も受けられない。
甲板には千余名のトルコ兵捕虜が身を寄せ合い、蒸し暑い船内には疲労と不安が重く漂っていた。
伝染病の発生さえ危惧される状況であった。
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平明丸の船員たちも限界だった。
昼夜を問わず機関や船体を維持しながら、限られた食糧を分け合い、捕虜たちの命を守り続ける。
船長には、平明丸の安全を守る責任と、千余名の命を預かる責任が重くのしかかっていた。
もし武力で乗船されれば、抵抗する術はない。
しかし、引き渡せば日本政府の使命も、人道も失われる。
その板挟みの中で、船長と船員たちは1日1日を耐え続けた。
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津村論吉中佐ら日本陸軍将校もまた、休むことはなかった。
捕虜たちを励まし、日本政府との連絡を取り続け、万一の事態に備えて警戒を続ける。
彼らの使命はただ一つ。
「この人々を必ず祖国へ送り届ける。」
その決意だけが、長く続く停船の日々を支えていた。
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外交官は世界を駆け巡り、外務省は昼夜を問わず交渉を続けた。
平明丸の船長、船員、日本軍将校たちもまた、一人として使命を放棄しなかった。
その揺るぎない信念が、やがて平明丸を再び祖国への航路へ戻す大きな力となる。
エーゲ海に停泊した一隻の商船で繰り広げられたのは、武力による戦いではない。
国家の誇り、人道、そして「命を守る」という約束を貫いた、静かな戦いであった。
◎以下は外務省アジア歴史資料センターに保存されている当時の電報を現代語に訳してみた。
大正10年(1921)4月18日
伊丹少将(ロンドン駐在)電報(英陸27)現代語訳
平明丸解放については、
まだギリシャ政府から返答は届いていない。
林大使は、仮にギリシャが要求を受け入れないとしても、
無条件に捕虜を引き渡すようなことは、日本将校が乗船している以上、日本の名誉に関わる問題
であると考えている。
そこで一案として、
日本政府がいったん費用を負担し、平明丸をギリシャ・トルコ両国と直接関係のないポートサイドへ移動させ、そこで外交交渉がとまるまで待機させる方法を外務省へ提案した。
その後、日本政府の方針も明らかになったため、
津村少佐には現場の判断で適切に対応するよう伝えた。
ただし、ギリシャ政府からの返答、および日本外務省からの指示が届くまでは新たな命令は出さず、現状維持を続けるよう指示している。
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重要ポイント
この文書では、
「日本の体面」
という言葉が非常に重要です。
つまり、
日本政府は
捕虜を途中でギリシャへ渡すことは国家の名誉に関わると考えていました。
________________________________________
大正10年(1921)4月29日
伊丹少将電報(英陸31)
現代語訳
津村少佐からの報告によれば、
船内では
捕虜たちを慰め続けているが、
それでも精神錯乱者や自殺者が発生している。
この事態を一刻も早く解決するため、林大使は日本外務大臣へ外交交渉を急ぐよう繰り返し要請している。
また、コンスタンティノープルの内田公使と飯田少佐からの要望を受け、連絡を密にするため
吉田騎兵大尉を最も早い船便で派遣することにした。
________________________________________
この史料から判明する重要事実
この第四巻③は、平明丸事件の中でも最も緊迫した局面を記録しています。
① 日本は最後まで捕虜を引き渡せと要求するギリシャ軍に対し、
正式に拒否を続けていました。
________________________________________
② 日本政府は国家の名誉を重視した
「日本将校が乗船している以上、日本の体面に関わる」という認識のもと、外交交渉を続けました。
________________________________________
③ 船内では深刻な精神的危機が発生交渉が長引き、
• 精神錯乱(当時の文書では「発狂」) • 自殺 が実際に起きていたことが、公式電報で確認できます。
大正10年(1921)4月28日
林大使電報現代語訳
平明丸では、捕虜たちを励まし、
できる限り慰安に努めている。
しかし、交渉が長引いているため、船内では精神に異常をきたす者や自殺者まで出ているとの電話連絡が津村少佐から伊丹陸軍武官へ入った。
参考までに、この情報は在フランス大使館、在イタリア大使館にも伝えた。
________________________________________
この史料は非常に重要
これが、
平明丸事件で
公式文書として初めて
発狂者
自殺者
の発生を記録した史料です。
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大正10年(1921)5月29日
平明丸船長からの電報
現代語訳
ピレウス港に停泊中の平明丸船長からの報告
現在もロンドンでは、日本とギリシャ両国の大使が事件解決に向けて交渉を続けています。
しかし、この事件は非常に複雑であり、いつ、どのような形で解決するのか全く見通しが立ちません。
詳しい事情については陸軍省へお問い合わせください。
なお、5月18日以来、ギリシャ政府から毎日5トンずつ燃料用石炭の供給を受けています。
________________________________________
この電報の意味
この時点では、
• 抑留開始から約50日以上が経過
• 日本政府にも解決の見通しが立っていない
ことが分かります。
この史料から判明する重要事実
この第四巻③は、
平明丸事件の中でも最も緊迫した局面を記録しています。
① 日本は最後まで捕虜を引き渡さなかった
ギリシャ軍に対し、
正式に拒否を続けていました。
________________________________________
② 日本政府は国家の名誉を重視した
「日本将校が乗船している以上、日本の体面に関わる」という認識のもと、外交交渉を続けました。
________________________________________
③ 船内では深刻な精神的危機が発生
交渉が長引き、
• 精神錯乱(当時の文書では「発狂」)
• 自殺
が実際に起きていたことが、公式電報で確認できます。
________________________________________
④ 津村少佐
は船内の秩序維持に尽力
津村少佐は捕虜たちの慰安と秩序維持に努めながら、日本政府との連絡を続けていました。

14,時間だけが過ぎていった

津村論吉中佐は、日本政府と連絡を取りながら、ギリシャ政府への抗議を繰り返した。
イギリス、フランス、イタリアの代表にも協力を求め、日本は国際法と人道の立場から平明丸の解放を訴え続けた。
しかし返ってきたのは、沈黙だった。
船内では、その沈黙が何よりも人々を苦しめていた。
「日本は本当に私たちを助けてくれるのだろうか。」
トルコ兵捕虜たちは、不安に耐えながら津村中佐の言葉だけを信じて待ち続けていた。
津村中佐は将校たちを集め、
「日本は決して諸君を見捨てない。」
と何度も語りかけた。
その言葉は、希望を失いかけた人々の心を、かろうじてつなぎ止めていた。
________________________________________
だが、船の外では別の戦いが始まっていた。
ギリシャ国内では、日本が捕虜をアナトリアへ送り届けようとしているとの宣伝が流され、世論はますます硬化していく。
一方、船内へ届く新聞には、ギリシャ軍の勝利ばかりが大きく報じられていた。
そしてある日、捕虜たちをさらに絶望へ突き落とす知らせが伝わる。
「ムスタファ・ケマルが戦死した。」
その報道は事実ではなかった。
しかし船内にいる捕虜たちには真偽を確かめる術はない。
祖国最後の希望が消えたと思った瞬間、船内はまるで葬儀の後のような静けさに包まれた。
ある捕虜は日記にこう記している。
________________________________________
その苦難の中でも、新しい命は生まれていた。
トルコ兵が妻としたロシア人女性に子どもが誕生した。
しかし歓声を上げる余裕はなかった。
それでも小さな産声は、沈みきった船内に残された希望そのものだった。
________________________________________
船の外では外交が続き、
船の中では命を守る戦いが続いていた。
平明丸はまだ動けない。
しかし誰一人、使命を捨てようとはしなかった。
津村中佐も、田村一得船長も、船員たちも、
そして祖国を信じ続けるトルコ兵捕虜たちも――。
希望だけは、決して手放さなかった。
日本政府は、千余名のトルコ兵捕虜の命と、日本が国際社会に掲げた人道主義を守るため、外務省は直ちにギリシャ政府との外交交渉に乗り出した。
【第一次交渉】
日本政府は、ギリシャ政府に対し、次の三点を主張した。
① この帰国事業は英国政府の委嘱に基づくものである。
② ギリシャは「トルコとは戦争状態にある」と主張するが、その相手であるアンゴラ政府は一地方政権にすぎず、この戦闘だけでギリシャ対トルコの全面戦争とは言えない。
③ この事業は人道的見地に立ったものであり、その費用はトルコ人有志による四万八千ポンドと、大日本帝国が用意した五万七千円で賄う予定であり、日本はギリシャ・アンゴラ政府間の戦闘に介入する意思はない。
しかしギリシャ政府は、
「日本政府または英国政府が、捕虜がコンスタンチノープル(現イスタンブール)から逃亡しない保証をするならば上陸を認める」
との回答を示した。
日本はイギリス・フランス・イタリア三国にも捕虜監視への協力を求めたが、いずれも実現せず、第一次交渉は暗礁に乗り上げた。
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外交交渉が行き詰まるなか、平明丸では日々、人々の命が削られていった。
船内では食糧不足が続き、衛生状態も悪化する。
当時の日本政府資料には、平明丸の状況が次のように記されている。
原文のママ : 「日本商船平明丸カ希臘軍憲ニ依リ抑留セラレテヨリ今ヤ方ニ二ヶ月ニ垂ムトシ同船監督日本將校ノ電報ニ據レハ、土耳古俘虜中ニハ絶望ノ餘リ發狂シ又ハ自殺セル者スラ生スルニ至リタル趣ナリ。
同船船長ヨリ本年四月十五日頃希臘官憲ヨリ食糧ノ供給ヲ受クルコトトナリタル旨來電アリタルモ其後久シク通信途絶シ……」
現代語訳 : 「ギリシャ軍による抑留から、まもなく二か月が過ぎようとしていた。
船上の日本軍将校から届いた電報には、トルコ兵捕虜の中で、絶望のあまり精神を病む者や、自ら命を絶とうとする者まで現れていると記されていた。
平明丸の船長からは、4月15日頃に『ギリシャ当局から食糧の供給を受けられるようになった』との知らせが届いた。しかし、それを最後に船との連絡は途絶え、船内で何が起きているのか、日本政府には知る術がなくなってしまった。」
その後、日本政府は船長と直接連絡が取れなくなったため、英国領事を通じて平明丸の状況を確認した。
英国領事が日本へ報告した内容は、さらに深刻であった。
原文のママ : 「土耳古將校ハ一般的不愉快、貧弱ナル食糧、石鹸ノ不足及不完全ナル衛生設備ニ付不平ヲ述ベタルガ、平明丸船長ハ彼等ノ食物ハ希臘軍隊ノ受クルモノト同一ナルヲ以テ十分ナリト認メ居レリ。但シ衛生設備ノ不良ナルコト、殊ニ夏季ニ至リ一層不良トナルヘキ懸念ナキコト及醫藥ノ貯蔵十分ナラサルコトニ付テハ同意ヲ表セリ。……俘虜中六十六人ノ病者アリ、内數人ハ肺病ナルモ其以外ニハ傳染病患者ナク……」
現代語訳 : 英国領事が平明丸を訪れて確認した船内の状況は、深刻なものだった。
トルコ軍将校たちは、乏しい食事、石けんの不足、不完全な衛生設備に強い不満を訴えていた。
平明丸の船長は、「食事はギリシャ軍兵士と同じものが支給されている」と説明したものの、衛生設備の不備については認めざるを得なかった。
特に夏を迎えれば、船内の衛生環境はさらに悪化することが懸念され、医薬品も十分には備えられていなかった。
この時点で、捕虜の中には66人の病人がおり、そのうち数人は肺病を患っていた。しかし、幸いにも大規模な伝染病の発生にはまだ至っていなかった。
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船は、まだ動かない。
交渉は続いている。
そして船内では、飢えと病、そして絶望との闘いが続いていた。
しかし、日本政府も津村論吉中佐も、平明丸の船員たちも、決して諦めてはいなかった。


第二次交渉前例を武器に日本は反撃するが


ギリシャ政府との交渉は、依然として膠着していた。

しかし、日本政府は決して諦めなかった。

外務省は第二次交渉に臨むにあたり、世界各国の外交記録を徹底的に調査し、平明丸事件と同じような前例がないか探し続けた。

その結果、一つの重要な事例を発見する。

ブルガリア船「キリロス号」事件である。

1921418日、159名のトルコ人を乗せてコンスタンチノープル(イスタンブール)へ向かっていたキリロス号も、ギリシャ軍によって抑留されていた。しかし、この船は最終的に無条件で解放されていたのである。

日本政府は直ちにこの前例をギリシャ政府へ示し、

「キリロス号を解放したのであれば、平明丸も同じように無条件で解放すべきである。」

と強く申し入れた。

しかし、ギリシャ政府の返答は冷淡だった。

「キリロス号は159人と少人数で、その多くは非戦闘員だった。平明丸とは条件が異なる。」

日本が見いだした有力な前例も退けられ、第二次交渉は再び暗礁に乗り上げた。

一方その頃、ピレウス港に抑留された平明丸では、食糧不足と劣悪な衛生環境によって、船内の状況は日に日に悪化していた。

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勝田銀次郎、ロンドンへ

事件発生当時、勝田汽船社長・勝田銀次郎は、アメリカ・ニューヨークに滞在していた。

平明丸がギリシャ軍によって抑留されたとの報に接すると、勝田は直ちに会社との連絡体制を強化し、平明丸の状況把握に全力を注いだ。

近海を航行していた自社船陽明丸を現場海域へ向かわせて情報収集を命じるとともに、船長からの通信や海外支店、各国の関係機関を通じて刻々と変化する情勢を把握し、日本政府とも緊密な連絡を取り続けた。

船会社の責任者として、何よりも優先したのは、平明丸の船員と千余名のトルコ兵捕虜の生命を守ることだった。

勝田には、このような国際的な人道救援活動に携わった経験があった。

1920年には、アメリカ赤十字社の要請を受け、自社船陽明丸で約800人のロシア人孤児をウラジオストクから日本を経由してアメリカへ送り届けるという、当時世界でも例を見ない大規模な人道救援事業を成功させている。

さらに1920年から1921年にかけては、自社船海久丸をドイツ赤十字に傭船し、約3000人の捕虜・難民をウラジオストクからトリエスト及びドイツへ、陽南丸でチェコ兵を送り届ける国際救援活動にも協力した。

陽南丸、海久丸、陽明丸、そして平明丸。これらはいずれも勝田銀次郎の故郷・愛媛県松山市三津浜を船籍港とする貨物船であった。

勝田はこれらの救援活動を通じて、赤十字の理念と国際的な人道支援の重要性、さらに各国政府や外交機関との連携が人命救助には欠かせないことを深く理解していた。

だからこそ彼は、平明丸事件を単なる一企業の海難事故や外交問題とは考えなかった。それは国際社会全体が向き合うべき人道問題であり、何としても解決しなければならない使命だと確信していたのである。

しかし、平明丸の解放交渉は一向に進展しない。

「このままでは船も、人命も救えない。」

そう判断した勝田は、予定を変更してニューヨークを発ち、ロンドンへ急行した。

そこでは、日本の外交団が平明丸救出のため懸命な交渉を続けていた。勝田はロンドンの日本大使館を訪れ、船長から届いた悲痛な報告を伝えるとともに、民間の立場からも一日も早い事件解決を強く訴えた。

勝田が日本大使館に届けたのは、平明丸船長から寄せられた悲痛な報告だった。

その内容は、日本政府に大きな衝撃を与える。

これまで精神に異常をきたしていたのは、長いシベリア抑留を耐え抜いたトルコ兵捕虜だけではなかった。

ついに、日本人船員の中からも精神に異常をきたす者が現れ始めたのである。
狭い船内で続く終わりの見えない抑留生活。

食糧や医薬品は不足し、衛生状態は悪化の一途をたどる。

出口の見えない不安と極度の緊張が、捕虜だけでなく、彼らを守り続けてきた日本人船員の心までも蝕み始めていた。

勝田汽船は日本政府に対し、

「一日も早く、この事件を解決していただきたい。」

と繰り返し強く訴えた。

林権助駐英大使は、この深刻な状況を内田康哉外務大臣へ電報で報告するとともに、その内容をコンスタンチノープル(イスタンブール)とイタリアの日本公館にも伝え、事態打開への協力を求めた。

ここから平明丸事件は、日本政府だけの外交交渉ではなく、勝田銀次郎も加わった「国家を挙げた救出作戦」へと発展していくのである。

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610日 林権助駐英大使から内田康哉外務大臣への電報

勝田銀次郎が届けた船長からの報告は、林権助駐英大使を通じて内田康哉外務大臣へ打電された。

その内容は、日本政府に大きな衝撃を与えた。

「平明丸事件について、ロンドンの勝田汽船・勝田銀次郎社長が来訪し、船長から届いた通信の内容を伝えた。これまで数名の捕虜が精神に異常をきたしていたが、今度は船員の中にも精神に異常をきたす者が現れた。船内の秩序や衛生状態について、今後に大きな不安がある。そのため、一日も早く事件を解決してほしいと、勝田汽船は繰り返し陳情している。この内容は、コンスタンチノープルおよびイタリアにも伝達した。」

第三次捕虜開放交渉

平明丸を救うため、世界が動き始めた

ギリシャによる平明丸の抑留は長期化し、千人を超えるトルコ人捕虜達と乗組員は、先の見えない日々を送り続けていた。事態は一船会社の問題ではなく、日本政府が取り組むべき重大な国際問題へと発展していく。

日本国内では、外務大臣・内田康哉を中心に、外務省が平明丸解放に向けた対応に全力を挙げていた。

一方、勝田汽船株式会社社長・貴族院議員・神戸市会議長であった勝田銀次郎も、海運会社の経営者としてだけではなく、帝国議会・貴族院議員として政府との連携を図り、人道問題として事件の解決に奔走した。

駐フランス大使兼国際連盟日本全権大使・石井菊次郎が国際連盟を舞台に各国代表への働きかけを開始し、駐英国大使・林権助、駐イタリア大使・落合謙太郎らも、それぞれの任地で外交交渉を重ねていた。

勝田と石井は旧知の間柄でこれまでにも国際通商航海条約関係等で協力しあった。

現在、アジア歴史資料センターには、この時期に外務大臣・内田康哉と在外公館との間で交わされた平明丸事件に関する電報や公文書が、おびただしい数残されている。

それらの11通からは、平明丸を一日でも早く解放するため、日本政府と外交団が昼夜を分かたず協議を重ね、刻々と変化する情勢に対応していた緊迫した様子が伝わってくる。

外交官たちはヨーロッパ各地を奔走し、政府は東京から指示を送り続けた。海運界、政界、外交界、そして国際連盟――。それぞれの立場を越えた人々が、「命を救う」というただ一つの目的のために動き始めていたのである。

その中心には、後に世界的人道活動家として知られるフリチョフ・ナンセン博士の姿もあった。

しかし、この時点では、まだ誰も平明丸の運命を知る者はいない。

それでも、日本の内田外務大臣をはじめとする政府首脳、勝田銀次郎、石井菊次郎、林権助、落合謙太郎らは、それぞれの使命を胸に、平明丸解放への道を切り開こうと、静かに、そして力強く行動を続けていた。

  絵 坂和守廣  文章 一色敏郎
其の1
シベリアでの俘虜生活
其の2
俘虜シベリア→ウラジオストクへ

 100年以上前の大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発、ロシア帝国とオスマン帝国の戦闘で多くのトルコ兵がロシア帝国の俘虜となった。

 1917年シベリア各地に送られたトルコ兵俘虜は、故国が自分たちを救出するため活動しているかどうか心配していた、東部及び最北部地域にいた俘虜達は長い者で8年半の捕虜生活を余儀なくされた。

 シベリア俘虜生活の中でトルコ兵たちの精神疾患はあまりにも酷い状態となり多くが俘虜生活の際に精神病に悩まされた、描かれているのは食事を待つトルコ兵の姿である

 一方トルコ国内では早期から彼らを生まれ故郷に返す人道的な募金活動等がトルコ赤新月協会(赤十字)によって行われていた。→→→其の2へ


 シベリア鉄道を通じてバイカル湖まで進軍した日本軍はトルコ兵俘虜が多数いることに気づいた、日本軍が制圧した地域にも800~900人のトルコ兵俘虜がいた。

 トルコ兵俘虜がここまで来ていたことを思いつきもしなかった、トルコ兵俘虜と日本軍兵士が運命を共にした捕虜収容所の1つはニコラエフスキー町=尼港であった、大正9年(1920)赤軍バルチザン4300人によって町の半分にあたる6000人の虐殺を行なわれた、日本人も日本兵350人皆殺し一般人400名余りも全員残虐に殺害された世に云う尼港事件が起こった場所である。

 尼港には12名のトルコ兵俘虜が酷い拷問や虐待をされていたが日本軍が大規模な援軍を率いて進軍したおかげで助かった、俘虜達は日本軍によってウラジオストクの日本軍基地に移送された。

其の3
歓喜のウラジオストク出航
其の4
平明丸自由への船旅

 大正10年(1921)の始めオスマン政府がトルコ兵俘虜送還輸送に必要な金額を日本に送金したと知らせが届きウラジオストク港は祝祭に沸き返った。

 俘虜をイスタンブールに送り届ける日本の船、勝田汽船の平明丸(松山市三津浜船籍)が停泊するや否や俘虜たちは港を埋め尽くした。そして彼らは、目を疑った。彼らが7年間続いた俘虜生活が終わると信じることができたのは船が停泊した後になってからである。

 陸軍に傭船された大洋汽船(勝田銀次郎社長)の平明丸は陸軍少佐津村諭吉を指揮官に任命し、吉田真(陸軍参謀大尉),中村競(陸軍第一衛病院軍医少佐)、通訳1名、主計官1名と勝田汽船の田村一得を船長に任命し日本人乗組員、赤十字の看護師、トルコ人1012名が平明丸に乗船、大正10年(1921)2月23日午後4時、トルコのイスタンブールを目指しウラジオストクを出港した。


 45日間続く予定の航海の間、船は水を買うために立ち寄るコロンボの港以外には立ち寄らない予定でスエズ運河を通って真っすぐにイスタンブールに向かう予定となっていた。

2月25日自由の身となったトルコ兵達はこれまでで一番安心して眠っていた、ところが夜中前日本海はまるで狂ったかのように波が出始めた。真っ暗な船の中で嘔吐する者や気絶する者が出た。
 暗闇の中で何が起こっているのか誰も分からなったがやがて朝を迎えた。
 明け方、海も凪いだようで津村諭吉中佐がトルコ人達に対し、「朝鮮半島を超える所で台風に出会い私達は大変な災害を切り抜けました。連絡が取れなくなった船の所有者勝田汽船は必死で平明丸に連絡を取ろうとしていたようです、先程ようやく連絡が取れ喜んでいましたそして船にいる仲間達にお疲れ様とお祝いの言葉を伝えて下さいとお願いされました」と伝えた。

其の5
津村中佐の英雄行為

其の6
ギリシャ抑留中の平明丸



100年近くの時を経て2020年秋、トルコ兵俘虜を守り抜いた中佐に敬意を込めイスタンブール市内のある通りが「津村中佐通り」YARBAY YUKICHI TSUMURAと改名された。

 同年4月5日午後9時平明丸はエーゲ海ギリシャ領「ミティレー二島」付近を航行している時交戦状態にあったギリシャ軍戦艦ヘラクレス号が平明丸に停船を命じてきた、乗船しているトルコ兵が交戦相手のトルコ(アンカラ新政府)国民軍に加わることを恐れ平明丸の行くてに立ちはだかり同船に乗り込こんできたギリシャ将校が指揮官の津村中佐にトルコ兵を引き渡すよう要求したのである。

 津村中佐はその時、酷く苛立ちギリシャ軍将校に即刻船を去るよう要求した、他の日本人将校達も、腰に下げた武器に手を置き、津村中佐の命令を待っていた、この厳しい態度を見たギリシャ軍将校達は船を去るざるを得なっかった。

 津村中佐の英雄的行為でトルコ兵は一人もギリシャ側に渡すことは無かったが平明丸は5日間「ミティレー二島」に留められ4月12日平明丸はギリシャ近郊のピレウス港に連行され拿捕されトルコ兵を引き渡すようにと執拗に迫られた。


 ペレウス港で抑留されることになった平明丸船内は衛生状態も極度に悪く日本側の電報によればトルコ俘虜中ニハ絶望ノ余リ発狂シ又ハ自殺セルモノスラ生スルニ至リタル趣ナリ。

田村一徳船長より415日頃ギリシャ官憲より食料ノ供給ヲ受クルコトト成タル旨来電アリタリモ其後久シク通信絶シ・・・・(原文のママ)

この後日本政府は船長と直接のやり取りが出来なくなった為、英国に安否の確認を頼み「トルコ将校は一般的に不愉快、貧弱なる食料、石鹸は不足及び不完全なる衛生設備に付き不平を述べたる・・・船内では衛生状態も悪化し伝染病のチフスが発生しこの時点でトルコ兵66名の病人あり皆極度の疲労により異常事態となった、日本側関係者吉田大尉外乗組員もこれに襲われ火夫森岡某病死、遂に船長田村一得も8月28日盲腸炎罹りアテネ市内の病院に入り療養僅6日間即ち9月3日午後3時アテネ郊外に一片の墓標を残し客死す。後に勝田汽船社長勝田銀次郎の図らいで大日本帝国より1000円の弔い金が残された家族に支払われた。

其の7
平明丸解放への努力

END
イスタンブール金門湾に到着・自由への旅が始まる


 津村中佐はシベリアで7年間も留まり憔悴しっきたトルコ兵達を引き渡さなかった為平明丸のアテネ近くのピレウス港での抑留は長引きトルコ人と日本人の共同捕虜生活が続いた。

 時あたかも欧米視察中であった平明丸所有者たる大洋汽船社長勝田銀次郎は米国よりロンドンに逸早く渡り百万尽力する處あり遂にジュネーブに於いて開催中の国際連盟会議の問題となり大使石井菊次郎の委員長たる関係により人道上力説して止まず駐英大使林権助、駐伊大使落合謙太郎も力を合わせ各国の同情を得て遂に国際連盟の名に於いてギリシャ赤十字社の手に渡すことに決し、非戦闘員400名は8月6日ギリシャ汽船にてイスタンブールに送還し、600名は10月19日平明丸にて伊国アシナラ島に輸送し在伊国赤十字社委員に引き渡せり。大正12年(1923)発行の神戸市史より抜粋

 ※国際連盟の難民高等弁務官のフリチョフ・ナンセン博士はギリシャ政府と直接交渉し、婦人等非戦闘員はギリシャ汽船にてイスタンブールに送還することを認めさせる等平明丸事件に於いて大きい役割をはたした。

平明丸は大正10年(1921)10月12日、ギリシャのビレウス港を出航19日にイタリアのアジナーラ島に到着しイタリア万国赤十字社にトルコ兵俘虜を引き渡し任務終了した。

 戦闘員は伊国アジナーラ島に8ヶ月間再抑留されたが国際連盟やトルコ赤十字社に尽力によりトルコ汽船ウミット号に乗船し大正11年(1922)6月19日にイスタンブールに向け出航した、祖国トルコの船ウミット号に乗っていること、自由の香りを感じていることはシベリアからの俘虜たちにとって感慨深いものがあった。

そして遂に6月25日イスタンブールのシルエットが見えた。

 戦闘員達はシベリアでの俘虜生活6~7年平明丸抑留、アジナーラ島での再抑留を経てやっと自由への旅が始まろうとしていた。

参考書籍 ○トルコ共和国出版 シベリアー日本海―エーゲ海を渡って捕虜生活から自由へ

     ○神戸史 大正12年発行、○看護実践の科学―人道を貫いた乗組員達 野村憲一著作

     ○アジア歴史資料センター 平明丸事件顛末


津村諭吉 陸軍中佐

津村中佐は、第1次世界大戦中にロシアの捕虜となった1000人あまりのトルコ兵を母国に送還した、旧日本軍が勝田汽船より傭船した平明丸の司令官。

 平明丸はトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕され、津村中佐は捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。

100年後トルコ人ハイリエィ監督の「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画が制作されこの事件が知られるようになった。

田村一得 
平明丸
船長


トルコ政府より過酷な環境の中で船内秩序に努め事件解決に盡力した田村船長の死去に対し弔慰が伝えられた、また日本政府からも拉致抑留中に於いて鋭意船内の秩序維持に努め事件解決を俟たず任務遂行中の死去に弔慰金千円が下賜された

田村一得船長略歴

本籍 広島県佐伯郡河内村大字上河内

 明治21年10月25日生誕

(17)明治38年5月上河内小学校教員拝命

(20)明治41年4月上河内小学校教員退職

(20)明治41年4月大島商船学校入学

(26) 大正3年大島商船学校卒業(3等航海士)

(28)大正5年勝田汽船 2等航海士

(29)大正6年8月勝田汽船 1等航海士

(30)大正7年8月5日 吉田ハルミ婚姻

(32)大正9年 勝田汽船 船長

(33)大正10年1月 平明丸船長

(33)大正10年4月5日平明丸ギリシャに拿捕

(33)大正10年9月3日ギリシャ勾留中33才死去

勝田銀次郎
貴族院議員・神戸市会議長・勝田汽船社長

フリチョフ・ナンセン

(国際連盟初代難民高等弁務官)

ロンドンからフランスパリに三回、伊太利亜ローマに一回と平明丸開放の為百万尽力し銀次郎はギリシャ軍による平明丸抑留問題を国際連盟会議の問題とし平明丸解放に向け駐英大使林権助、駐伊大使落合謙太郎と力を合わせ人道上力説し各国の同情を得て遂に国際連盟の名に於いてギリシャ赤十字社の手に引き渡す事に決し問題解決に大きい役割を果たした。

 勝田銀次郎とは旧知の仲で石井大使の行動は銀次郎の意思が大きく働いた結果である。

○100年前のこの平明丸事件は津村中佐がトルコ兵俘虜守り抜き、勝田銀次郎が平明丸解放に多大な尽力をした。
※一部大正十二年発行神戸市史参照
 

スイス赤十字委員会のフリチョフ・ナンセン氏(1922年のノーベル平和賞受賞者)は抑留された平明丸船上にいるトルコ兵俘虜から解放を求める手紙を直接受け取り俘虜達の解放を保証するため活動した第一人者である。

 ナンセン博士はノルウェーの極地探検家で、大規模な難民支援の先駆者であり、初代国連難民高等弁務官であったの画期的なアプローチで難民保護と支援に献身的に貢献したこと、自己犠牲を伴う勇敢な行為による難民支援、難民を取り巻く状況改善に並外れた功績を残した。


内田康哉

石井菊次郎

(駐フランス特命全権大使、国際連盟日本代表)

落合謙太郎

ハイリイェ・サバシュチュオール)監督
平明丸事件と呼ばれるこのエピソードはHAYRİYE SAVAŞÇIOĞLU(ハイリイェ・サバシュチュオール)監督によって「平明丸母国トルコへ帰るとき」映画化されています。

平明丸事件が起きてから百年後トルコ兵俘虜が味わった苦しい日々を明かす文書に誘発された映画監督のハイリエィ女史は耐え難い困難を乗り越えた彼らの経験を若い世代に伝えるべく「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画を制作してこの事件が知られるようになった。



会場 : 愛媛県松山市 坂の上の雲ミュージアム 2Fイベントホール
 2024.9月3日~9月20日

日・トルコ外交関係樹立100周年認定事業
勝田銀次郎と平明丸事件パネル展スナップ



   
    
 








海運王 
勝田銀次郎


陽明丸HP
 

a-izinkatuta2.html
松山ロシア兵捕虜収容所
今も続く、日露友好のかけ橋
 



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