絵 坂和守廣 文章 一色敏郎 |
其の1
シベリアでの俘虜生活 |
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其の2
俘虜シベリア→ウラジオストクへ |
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100年以上前の大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発、ロシア帝国とオスマン帝国の戦闘で多くのトルコ兵がロシア帝国の俘虜となった。
1917年シベリア各地に送られたトルコ兵俘虜は、故国が自分たちを救出するため活動しているかどうか心配していた、東部及び最北部地域にいた俘虜達は長い者で8年半の捕虜生活を余儀なくされた。
シベリア俘虜生活の中でトルコ兵たちの精神疾患はあまりにも酷い状態となり多くが俘虜生活の際に精神病に悩まされた、描かれているのは食事を待つトルコ兵の姿である。
一方トルコ国内では早期から彼らを生まれ故郷に返す人道的な募金活動等がトルコ赤新月協会(赤十字)によって行われていた。→→→其の2へ
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シベリア鉄道を通じてバイカル湖まで進軍した日本軍はトルコ兵俘虜が多数いることに気づいた、日本軍が制圧した地域にも800~900人のトルコ兵俘虜がいた。
トルコ兵俘虜がここまで来ていたことを思いつきもしなかった、トルコ兵俘虜と日本軍兵士が運命を共にした捕虜収容所の1つはニコラエフスキー町=尼港であった、大正9年(1920)赤軍バルチザン4300人によって町の半分にあたる6000人の虐殺を行なわれた、日本人も日本兵350人皆殺し一般人400名余りも全員残虐に殺害された世に云う尼港事件が起こった場所である。
尼港には12名のトルコ兵俘虜が酷い拷問や虐待をされていたが日本軍が大規模な援軍を率いて進軍したおかげで助かった、俘虜達は日本軍によってウラジオストクの日本軍基地に移送された。
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其の3
歓喜のウラジオストク出航 |
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其の4
平明丸自由への船旅 |
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大正10年(1921)の始めオスマン政府がトルコ兵俘虜送還輸送に必要な金額を日本に送金したと知らせが届きウラジオストク港は祝祭に沸き返った。
俘虜をイスタンブールに送り届ける日本の船、勝田汽船の平明丸(松山市三津浜船籍)が停泊するや否や俘虜たちは港を埋め尽くした。そして彼らは、目を疑った。彼らが7年間続いた俘虜生活が終わると信じることができたのは船が停泊した後になってからである。
陸軍に傭船された大洋汽船(勝田銀次郎社長)の平明丸は陸軍少佐津村諭吉を指揮官に任命し、吉田真(陸軍参謀大尉),中村競(陸軍第一衛病院軍医少佐)、通訳1名、主計官1名と勝田汽船の田村一得を船長に任命し日本人乗組員、赤十字の看護師、トルコ人1012名が平明丸に乗船、大正10年(1921)2月23日午後4時、トルコのイスタンブールを目指しウラジオストクを出港した。
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45日間続く予定の航海の間、船は水を買うために立ち寄るコロンボの港以外には立ち寄らない予定でスエズ運河を通って真っすぐにイスタンブールに向かう予定となっていた。
2月25日自由の身となったトルコ兵達はこれまでで一番安心して眠っていた、ところが夜中前日本海はまるで狂ったかのように波が出始めた。真っ暗な船の中で嘔吐する者や気絶する者が出た。
暗闇の中で何が起こっているのか誰も分からなったがやがて朝を迎えた。
明け方、海も凪いだようで津村諭吉中佐がトルコ人達に対し、「朝鮮半島を超える所で台風に出会い私達は大変な災害を切り抜けました。連絡が取れなくなった船の所有者勝田汽船は必死で平明丸に連絡を取ろうとしていたようです、先程ようやく連絡が取れ喜んでいましたそして船にいる仲間達にお疲れ様とお祝いの言葉を伝えて下さいとお願いされました」と伝えた。
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其の5
津村中佐の英雄行為
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其の6
ギリシャ抑留中の平明丸
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100年近くの時を経て2020年秋、トルコ兵俘虜を守り抜いた中佐に敬意を込めイスタンブール市内のある通りが「津村中佐通り」YARBAY YUKICHI TSUMURAと改名された。 |
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同年4月5日午後9時平明丸はエーゲ海ギリシャ領「ミティレー二島」付近を航行している時交戦状態にあったギリシャ軍戦艦ヘラクレス号が平明丸に停船を命じてきた、乗船しているトルコ兵が交戦相手のトルコ(アンカラ新政府)国民軍に加わることを恐れ平明丸の行くてに立ちはだかり同船に乗り込こんできたギリシャ将校が指揮官の津村中佐にトルコ兵を引き渡すよう要求したのである。
津村中佐はその時、酷く苛立ちギリシャ軍将校に即刻船を去るよう要求した、他の日本人将校達も、腰に下げた武器に手を置き、津村中佐の命令を待っていた、この厳しい態度を見たギリシャ軍将校達は船を去るざるを得なっかった。
津村中佐の英雄的行為でトルコ兵は一人もギリシャ側に渡すことは無かったが平明丸は5日間「ミティレー二島」に留められ4月12日平明丸はギリシャ近郊のピレウス港に連行され拿捕されトルコ兵を引き渡すようにと執拗に迫られた。
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ペレウス港で抑留されることになった平明丸船内は衛生状態も極度に悪く日本側の電報によればトルコ俘虜中ニハ絶望ノ余リ発狂シ又ハ自殺セルモノスラ生スルニ至リタル趣ナリ。
田村一徳船長より4月15日頃ギリシャ官憲より食料ノ供給ヲ受クルコトト成タル旨来電アリタリモ其後久シク通信絶シ・・・・(原文のママ)
この後日本政府は船長と直接のやり取りが出来なくなった為、英国に安否の確認を頼み「トルコ将校は一般的に不愉快、貧弱なる食料、石鹸は不足及び不完全なる衛生設備に付き不平を述べたる・・・船内では衛生状態も悪化し伝染病のチフスが発生しこの時点でトルコ兵66名の病人あり皆極度の疲労により異常事態となった、日本側関係者吉田大尉外乗組員もこれに襲われ火夫森岡某病死、遂に船長田村一得も8月28日盲腸炎罹りアテネ市内の病院に入り療養僅6日間即ち9月3日午後3時アテネ郊外に一片の墓標を残し客死す。後に勝田汽船社長勝田銀次郎の図らいで大日本帝国より1000円の弔い金が残された家族に支払われた。 |
其の7
平明丸解放への努力
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END
イスタンブール金門湾に到着・自由への旅が始まる
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津村中佐はシベリアで7年間も留まり憔悴しっきたトルコ兵達を引き渡さなかった為平明丸のアテネ近くのピレウス港での抑留は長引きトルコ人と日本人の共同捕虜生活が続いた。
時あたかも欧米視察中であった平明丸所有者たる大洋汽船社長勝田銀次郎は米国よりロンドンに逸早く渡り百万尽力する處あり遂にジュネーブに於いて開催中の国際連盟会議の問題となり大使石井菊次郎の委員長たる関係により人道上力説して止まず駐英大使林権助、駐伊大使落合謙太郎も力を合わせ各国の同情を得て遂に国際連盟の名に於いてギリシャ赤十字社の手に渡すことに決し、非戦闘員400名は8月6日ギリシャ汽船にてイスタンブールに送還し、600名は10月19日平明丸にて伊国アシナラ島に輸送し在伊国赤十字社委員に引き渡せり。大正12年(1923)発行の神戸市史より抜粋
※国際連盟の難民高等弁務官のフリチョフ・ナンセン博士はギリシャ政府と直接交渉し、婦人等非戦闘員はギリシャ汽船にてイスタンブールに送還することを認めさせる等平明丸事件に於いて大きい役割をはたした。 |
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平明丸は大正10年(1921)10月12日、ギリシャのビレウス港を出航19日にイタリアのアジナーラ島に到着しイタリア万国赤十字社にトルコ兵俘虜を引き渡し任務終了した。
戦闘員は伊国アジナーラ島に8ヶ月間再抑留されたが国際連盟やトルコ赤十字社に尽力によりトルコ汽船ウミット号に乗船し大正11年(1922)6月19日にイスタンブールに向け出航した、祖国トルコの船ウミット号に乗っていること、自由の香りを感じていることはシベリアからの俘虜たちにとって感慨深いものがあった。
そして遂に6月25日イスタンブールのシルエットが見えた。
戦闘員達はシベリアでの俘虜生活6~7年平明丸抑留、アジナーラ島での再抑留を経てやっと自由への旅が始まろうとしていた。
参考書籍 ○トルコ共和国出版 シベリアー日本海―エーゲ海を渡って捕虜生活から自由へ
○神戸史 大正12年発行、○看護実践の科学―人道を貫いた乗組員達 野村憲一著作
○アジア歴史資料センター 平明丸事件顛末
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