海の国愛媛の出身者には、「愛媛の海偉人」と語り継がれている人達がいる
日本・トルコを結ぶエルトゥールル号に続く第二の架け橋
平明丸事件 (只今製作中)

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人道面で偉大な功績を残した勝田銀次郎と勝田汽船商船隊 勝田銀次郎
 勝田汽船社旗

 当時の露国シベリアではアメリカ軍撤兵のあとロシア赤軍の勢いが増し大正九年三月から五月にかけてアムール川河口で日本人七三一人を含む住民六千人超が惨殺されるという大事件「尼港事件」が勃発し、緊張状態が続いていた。
 そうした状況下で敵国民を救助することなど通常あり得ず、また海運不況と戦っている海運界には極東のウラジオストクからロシア革命内戦で難民になり行き場を無くしたロシア子供達他(千余名---陽明丸)、トルコ兵俘虜他(千人余名---平明丸)、ドイツ人捕虜(三千余名人---海久丸)他にチェコ・スロバキア兵俘虜(陽南丸)、を乗せて水雷の浮流する水域や敵対国海域を航行するなど、大きいリスクを伴う計画に協力する船会社は一社も無かった中、勝田銀次郎の決断は素早く、自己資金をも投入し新造貨物船を簡易旅客船に改造して彼らを無事故郷までの送還に尽力した。
 この事象は無事送還された方々の子孫達によって語り継がれ、百年後の「真実」として勝田銀次郎が下した数々の決断と共に勝田汽船商船隊乗組員達の活躍が明らかになった。
 

 松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目三番地三銀天街入り口)で米穀商の家に長男として生まれた勝田の人生は、大ざっぱに言うと前後期の二期に区切ることができる。前半は青雲の志を抱いて明治二十四年郷里松山を飛び出し、東京英和学院(現青山学院大学)で苦学の後、関西で貿易海運業の仕事に就き日本の三大船成金と呼ばれる成功者になったいわゆる疾風怒涛の前期時代。
  後半は政治家として(勅撰貴族院議員・衆議院議員、市議会議長、更には神戸市長二期八年間の獅子奮迅の活躍は歴代市長の中でも有数の名市長として神戸市史に記されている。
 そんな勝田は司馬遼太郎のいう「坂の上の雲」の時代において、その主人公の秋山真之や正岡子規と同じく当時の松山中学校を卒業しており数年の後輩にあたる。
 勝田はその高潔な人柄と愛郷心で、当時の金額で故郷松山市の三津浜築港費用に一万円、済美学園に校舎一棟一万六千円他、北予学校に三千円を寄付、また今回紹介する平明丸・陽明丸等新造大型船を松山市三津浜港船籍とした

 


○平明丸事件の概略
 大正七年八月、日本はチェコ兵俘虜の救出を名目にシベリア出兵を開始したその最中、英国を通じてトルコ政府から日本政府へロシアの俘虜となってウラジオストクの俘虜収容所にいるトルコ人千余名を母国トルコのコンスタンチノープルまで帰還させてほしいと依頼があった。       

 日本は大正十年二月二十三日、勝田汽船(勝田銀次郎社長)の「平明丸」を傭船、陸軍中佐津村諭吉を責任者として任命し、吉田真(陸軍騎兵大尉),中村競(陸軍第一衛病院陸軍一等軍医、通訳一名、主計官一名と勝田汽船の田村一得を船長に任命し、トルコ人俘虜と共に平明丸に乗船ウラジ
オストクを出港した。
 
 平明丸は地中海に入った後、当時上ルコ軍と戦闘状態にあったギリシャ軍に拿捕されてしまう、津村諭吉中佐はギリシャ軍の主張する捕虜の引き渡しに応じなかったため、船ごと全員が現地で抑留されることになった。
(津村中佐のトルコ兵俘虜をギリシャ側に引き渡さなかった行為が後にトルコ共和国から大変感謝される結果となる)
 日本政府はギリシャに対し平明丸の無条件解放を求め、外交努力を重ねるが交渉は難航し無為に時間だけが流れさらに 船内では衛生状態も悪化し殊にチフス発生し、吉田大尉外乗組員もこれに襲われ、火夫森岡某病死し、船長田村一得も同年九月三日病死アテネ市郊外に墓標を残す結果となった。
 
 この時、海外視察中でニューヨークにいた勝田銀次郎はこの難局解決の為、すぐさま英国に渡りロンドンからフランスパリに三回、伊太利亜ローマに一回と平明丸開放の為百万尽力し抑留以来百六十余日、遂に国際連盟の名に於いてトルコ兵俘虜達をギリシャ赤十字社の手に引き渡す事で解決した。


○100年前のこの平明丸事件は津村中佐がトルコ兵俘虜守り抜き、勝田銀次郎が平明丸解放に多大な尽力をした。

※一部大正十二年発行神戸市史参照
 

日本・トルコ共和国、友好の架け橋「平明丸」

シベリアー日本海―エーゲ海を渡って 捕虜生活から自由へ

序文

1921年2月23日にコーカサス戦線でロシアの俘虜となり、シベリアへ送り込まれたトルコ人を乗せてウラジオストクからの「俘虜生活から自由への出航」100周年を機に制作した本書はトルコとの日本の「明るい平和」の日々の頂点を飾ると確信しています。

メフメット・ムハッレム・カサボール トルコ共和国青年及びスポーツ大臣

◎トルコ共和国青年及びスポーツ省発行「捕虜生活から自由へ」(非売品)写真表紙から・序文は同書から転載


平 明 丸
HEIMEI-MARU 
1919年8月31日進水 大阪鉄鋼所因島工場 6,671トン
船籍地  愛媛県松山市新浜(現三津浜港)
所有者  勝田汽船・大洋汽船株式会社 社長 勝田銀次郎
1926年  大洋汽船から所有者が変更船籍も松山から神戸に変わる(勝田汽船整理の為)
1944年  1月4日17:00頃インドネシア近辺にて対空戦闘被爆 
18:50陸上からの砲撃で沈没


シベリアー日本海ーエーゲ海を渡って 「捕虜生活から自由へ」
トルコ共和国青年及びスポーツ省2021年8月発行より転載


  絵 坂和守廣  文章 一色敏郎
其の1
シベリアでの俘虜生活
其の2
俘虜シベリア→ウラジオストクへ

 100年以上前の大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発、ロシア帝国とオスマン帝国の戦闘で多くのトルコ兵がロシア帝国の俘虜となった。

 1917年シベリア各地に送られたトルコ兵俘虜は、故国が自分たちを救出するため活動しているかどうか心配していた、東部及び最北部地域にいた俘虜達は長い者で8年半の捕虜生活を余儀なくされた。

 シベリア俘虜生活の中でトルコ兵たちの精神疾患はあまりにも酷い状態となり多くが俘虜生活の際に精神病に悩まされた、描かれているのは食事を待つトルコ兵の姿である

 一方トルコ国内では早期から彼らを生まれ故郷に返す人道的な募金活動等がトルコ赤新月協会(赤十字)によって行われていた。→→→其の2へ


 シベリア鉄道を通じてバイカル湖まで進軍した日本軍はトルコ兵俘虜が多数いることに気づいた、日本軍が制圧した地域にも800~900人のトルコ兵俘虜がいた。

 トルコ兵俘虜がここまで来ていたことを思いつきもしなかった、トルコ兵俘虜と日本軍兵士が運命を共にした捕虜収容所の1つはニコラエフスキー町=尼港であった、大正9年(1920)赤軍バルチザン4300人によって町の半分にあたる6000人の虐殺を行なわれた、日本人も日本兵350人皆殺し一般人400名余りも全員残虐に殺害された世に云う尼港事件が起こった場所である。

 尼港には12名のトルコ兵俘虜が酷い拷問や虐待をされていたが日本軍が大規模な援軍を率いて進軍したおかげで助かった、俘虜達は日本軍によってウラジオストクの日本軍基地に移送された。

其の3
歓喜のウラジオストク出航
其の4
平明丸自由への船旅

 大正10年(1921)の始めオスマン政府がトルコ兵俘虜送還輸送に必要な金額を日本に送金したと知らせが届きウラジオストク港は祝祭に沸き返った。

 俘虜をイスタンブールに送り届ける日本の船、勝田汽船の平明丸(松山市三津浜船籍)が停泊するや否や俘虜たちは港を埋め尽くした。そして彼らは、目を疑った。彼らが7年間続いた俘虜生活が終わると信じることができたのは船が停泊した後になってからである。

 陸軍に傭船された大洋汽船(勝田銀次郎社長)の平明丸は陸軍少佐津村諭吉を指揮官に任命し、吉田真(陸軍参謀大尉),中村競(陸軍第一衛病院軍医少佐)、通訳1名、主計官1名と勝田汽船の田村一得を船長に任命し日本人乗組員、赤十字の看護師、トルコ人1012名が平明丸に乗船、大正10年(1921)2月23日午後4時、トルコのイスタンブールを目指しウラジオストクを出港した。


 45日間続く予定の航海の間、船は水を買うために立ち寄るコロンボの港以外には立ち寄らない予定でスエズ運河を通って真っすぐにイスタンブールに向かう予定となっていた。

2月25日自由の身となったトルコ兵達はこれまでで一番安心して眠っていた、ところが夜中前日本海はまるで狂ったかのように波が出始めた。真っ暗な船の中で嘔吐する者や気絶する者が出た。
 暗闇の中で何が起こっているのか誰も分からなったがやがて朝を迎えた。
 明け方、海も凪いだようで津村諭吉中佐がトルコ人達に対し、「朝鮮半島を超える所で台風に出会い私達は大変な災害を切り抜けました。連絡が取れなくなった船の所有者勝田汽船は必死で平明丸に連絡を取ろうとしていたようです、先程ようやく連絡が取れ喜んでいましたそして船にいる仲間達にお疲れ様とお祝いの言葉を伝えて下さいとお願いされました」と伝えた。

其の5
津村中佐の英雄行為

其の6
ギリシャ抑留中の平明丸



100年近くの時を経て2020年秋、トルコ兵俘虜を守り抜いた中佐に敬意を込めイスタンブール市内のある通りが「津村中佐通り」YARBAY YUKICHI TSUMURAと改名された。

 同年4月5日午後9時平明丸はエーゲ海ギリシャ領「ミティレー二島」付近を航行している時交戦状態にあったギリシャ軍戦艦ヘラクレス号が平明丸に停船を命じてきた、乗船しているトルコ兵が交戦相手のトルコ(アンカラ新政府)国民軍に加わることを恐れ平明丸の行くてに立ちはだかり同船に乗り込こんできたギリシャ将校が指揮官の津村中佐にトルコ兵を引き渡すよう要求したのである。

 津村中佐はその時、酷く苛立ちギリシャ軍将校に即刻船を去るよう要求した、他の日本人将校達も、腰に下げた武器に手を置き、津村中佐の命令を待っていた、この厳しい態度を見たギリシャ軍将校達は船を去るざるを得なっかった。

 津村中佐の英雄的行為でトルコ兵は一人もギリシャ側に渡すことは無かったが平明丸は5日間「ミティレー二島」に留められ4月12日平明丸はギリシャ近郊のピレウス港に連行され拿捕されトルコ兵を引き渡すようにと執拗に迫られた。


 ペレウス港で抑留されることになった平明丸船内は衛生状態も極度に悪く日本側の電報によればトルコ俘虜中ニハ絶望ノ余リ発狂シ又ハ自殺セルモノスラ生スルニ至リタル趣ナリ。

田村一徳船長より415日頃ギリシャ官憲より食料ノ供給ヲ受クルコトト成タル旨来電アリタリモ其後久シク通信絶シ・・・・(原文のママ)

この後日本政府は船長と直接のやり取りが出来なくなった為、英国に安否の確認を頼み「トルコ将校は一般的に不愉快、貧弱なる食料、石鹸は不足及び不完全なる衛生設備に付き不平を述べたる・・・船内では衛生状態も悪化し伝染病のチフスが発生しこの時点でトルコ兵66名の病人あり皆極度の疲労により異常事態となった、日本側関係者吉田大尉外乗組員もこれに襲われ火夫森岡某病死、遂に船長田村一得も8月28日盲腸炎罹りアテネ市内の病院に入り療養僅6日間即ち9月3日午後3時アテネ郊外に一片の墓標を残し客死す。後に勝田汽船社長勝田銀次郎の図らいで大日本帝国より1000円の弔い金が残された家族に支払われた。

其の7
平明丸解放への努力

END
イスタンブール金門湾に到着・自由への旅が始まる


 津村中佐はシベリアで7年間も留まり憔悴しっきたトルコ兵達を引き渡さなかった為平明丸のアテネ近くのピレウス港での抑留は長引きトルコ人と日本人の共同捕虜生活が続いた。

 時あたかも欧米視察中であった平明丸所有者たる大洋汽船社長勝田銀次郎は米国よりロンドンに逸早く渡り百万尽力する處あり遂にジュネーブに於いて開催中の国際連盟会議の問題となり大使石井菊次郎の委員長たる関係により人道上力説して止まず駐英大使林権助、駐伊大使落合謙太郎も力を合わせ各国の同情を得て遂に国際連盟の名に於いてギリシャ赤十字社の手に渡すことに決し、非戦闘員400名は8月6日ギリシャ汽船にてイスタンブールに送還し、600名は10月19日平明丸にて伊国アシナラ島に輸送し在伊国赤十字社委員に引き渡せり。大正12年(1923)発行の神戸市史より抜粋

 ※国際連盟の難民高等弁務官のフリチョフ・ナンセン博士はギリシャ政府と直接交渉し、婦人等非戦闘員はギリシャ汽船にてイスタンブールに送還することを認めさせる等平明丸事件に於いて大きい役割をはたした。

平明丸は大正10年(1921)10月12日、ギリシャのビレウス港を出航19日にイタリアのアジナーラ島に到着しイタリア万国赤十字社にトルコ兵俘虜を引き渡し任務終了した。

 戦闘員は伊国アジナーラ島に8ヶ月間再抑留されたが国際連盟やトルコ赤十字社に尽力によりトルコ汽船ウミット号に乗船し大正11年(1922)6月19日にイスタンブールに向け出航した、祖国トルコの船ウミット号に乗っていること、自由の香りを感じていることはシベリアからの俘虜たちにとって感慨深いものがあった。

そして遂に6月25日イスタンブールのシルエットが見えた。

 戦闘員達はシベリアでの俘虜生活6~7年平明丸抑留、アジナーラ島での再抑留を経てやっと自由への旅が始まろうとしていた。

参考書籍 ○トルコ共和国出版 シベリアー日本海―エーゲ海を渡って捕虜生活から自由へ

     ○神戸史 大正12年発行、○看護実践の科学―人道を貫いた乗組員達 野村憲一著作

     ○アジア歴史資料センター 平明丸事件顛末


1992年
津村諭吉 陸軍中佐

]
1992年
貴族院議員・神戸市会議長・勝田汽船社長

津村中佐は、第1次世界大戦中にロシアの捕虜となった1000人あまりのトルコ兵を母国に送還した、旧日本軍が勝田汽船より傭船した平明丸の司令官。

 平明丸はトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕され、津村中佐は捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。

100年後トルコ人ハイリエィ監督の「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画が制作されこの事件が知られるようになった。





石井菊次郎

(駐フランス特命全権大使、国際連盟日本代表)


ギリシャ軍による平明丸抑留問題を国際連盟会議の問題とし平明丸解放に向け駐英大使林権助、駐伊大使落合謙太郎と力を合わせ人道上力説し各国の同情を得て遂に国際連盟の名に於いてギリシャ赤十字社の手に引き渡す事に決し問題解決に大きい役割を果たした。

 勝田銀次郎とは旧知の仲で石井大使の行動は銀次郎の意思が大きく働いた結果である。

スイス赤十字委員会のフリチョフ・ナンセン氏(1922年のノーベル平和賞受賞者)は抑留された平明丸船上にいるトルコ兵俘虜から解放を求める手紙を直接受け取った。
 ナンセンは俘虜達の解放を保証するため活動した第一人者である。

 ナンセン博士はノルウェーの極地探検家で、大規模な難民支援の先駆者であり、初代国連難民高等弁務官であったの画期的なアプローチで難民保護と支援に献身的に貢献したこと、自己犠牲を伴う勇敢な行為による難民支援、難民を取り巻く状況改善に並外れた功績を残した。


内田康哉 落合謙太郎

ハイリイェ・サバシュチュオール)監督
平明丸事件と呼ばれるこのエピソードはHAYRİYE SAVAŞÇIOĞLU(ハイリイェ・サバシュチュオール)監督によって「平明丸母国トルコへ帰るとき」映画化もされています。



会場 : 愛媛県松山市 坂の上の雲ミュージアム 2Fイベントホール
 2024.9月3日~9月20日

日・トルコ外交関係樹立100周年認定事業
勝田銀次郎と平明丸事件パネル展スナップ



   
    
 








海運王 
勝田銀次郎


陽明丸HP
 

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松山ロシア兵捕虜収容所
今も続く、日露友好のかけ橋
 



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