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9,― エーゲ海の停船命令 —
津村中佐:「彼らを連れて行くなら、まず私を越えて行け」
銃剣を装着した小銃。
鋭い軍靴の音。
将校は船橋へ案内されるなり、書類を机の上へ叩きつけた。
ギリシャ軍将校:「貴船に乗船中のトルコ人捕虜1000余名を、ただちに我が軍へ引き渡していただく。」
船室の空気が凍りついた。
津村論吉中佐は書類に目を落としたあと、静かに顔を上げた。
「理由を伺いたい。」
「彼らは我が国の敵兵だ。」
将校は言った。
ギリシャ軍将校:「ギリシャ王国はトルコと交戦中である。我々には捕虜として拘束する権利がある。」
津村中佐は微動だにしなかった。
「彼らは日本政府の保護下にある。」
ギリシャ軍将校「そんなものは我々には関係ない。」
将校の声が荒くなる。
「要求を拒否するなら、我々は武力による臨検を行う。」
その言葉に、船室の空気が一変した。
平明丸は武装商船ではない。
相手は軍艦。
抵抗すれば、勝負は見えている。
船員たちは息を呑んだ。
しかし津村中佐は椅子から立ち上がると、将校の目を真っ直ぐ見つめた。
津村中佐:「断る。」
将校の顔色が変わる。
ギリシャ軍将校:「今、何と言った?」
津村中佐:「引き渡しはできない。」
ギリシャ軍将校:「あなたはギリシャ王国に逆らうつもりか。」
津村中佐の返答は短かった。
「私は日本政府の命令に従うだけだ。」
将校は机を叩いた。
「あなたは1〇〇〇余名のトルコ兵のために、日本とギリシャの外交問題を引き起こす気か!」
津村論吉中佐は静かに答えた。
「問題を起こそうとしているのは、あなた方だ。」
船室が静まり返る。
「私は彼らを祖国へ送り届けるよう命じられている。」
「私の任務は、それだけだ。」
将校は怒りを露わにした。
「我々は必要なら力ずくで連行する!」
その瞬間だった。
津村中佐の表情が変わった。
先ほどまでの静かな口調は消えた。
軍帽のひさしの下の目が鋭く光る。
「貴官に私へ命令する権限はない。」
船室の空気が凍りついた。
「貴官は私と同階級、あるいはそれ以下と聞いている。」
「この件については、私より上級の責任者が来られるなら話をしよう。」
津村中佐は扉の方を指した。
「それまでは――退船願いたい。」
ギリシャ将校の顔色が変わる。
「これはギリシャ政府の要求である!」
津村中佐は一歩前へ出た。
「私は日本政府の命令に従っている。」
「そして、ここは日本船だ。」
船室に重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
船橋入口に立つ日本人将校たちが、無言のまま腰の拳銃へ手を添えた。
誰も言葉を発しない。
しかし、その意味は明白だった。
もし中佐に危害が及ぶなら、彼らは命令を待たず動く。
ギリシャ兵たちもまた銃を握る手に力を込める。
船室の空気は張り詰め、誰かが呼吸する音さえ聞こえるほどだった。
エーゲ海の穏やかな波音だけが、窓の外から聞こえていた。
一瞬の判断で銃声が響くかもしれない。
平明丸船橋は、まさに戦場の最前線となっていた。
津村中佐は微動だにしなかった。
「私が命じられているのは、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜を祖国へ送り届けることだ。」
「その命令が変わらない限り、彼らを引き渡すことはない。」
将校は津村中佐を睨みつけた。
だが、その目の前に立つ日本軍人の覚悟を崩すことはできなかった。
やがてギリシャ将校は帽子を取り、低い声で言った。
「本国へ報告する。」
軍靴の音が遠ざかる。
船室の緊張がわずかに解けた。
しかし、本当の試練はまだ終わってはいなかった。
四月五日、平明丸はエーゲ海のミディッリ島沖で停船を命じられ
そして5日間にわたり、祖国を目前にした1〇〇〇余名のトルコ人捕虜たちは、再び運命の判断を待つことになる。
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― 平明丸船橋の沈黙 ―
ギリシャ将校団が船橋を去ったあとも、船内を覆う重苦しい空気は消えなかった。
エーゲ海の陽光は甲板を明るく照らしている。
しかし、その光は誰の心にも届いてはいなかった。
船長は船橋の窓際に立ち、両手を背中で組んだまま海を見つめていた。
荒天のインド洋も、濃霧の紅海も、この男は顔色一つ変えずに乗り切ってきた。
だが、この日の船長の横顔には、隠しきれない苦悩が浮かんでいた。
軍艦一隻で商船など容易く止められる。
もしギリシャ軍が武力による臨検を決断すれば、平明丸に抵抗する術はなかった。
船を守るべきか。
乗客を守るべきか。
いや、その両方を守る方法はあるのか。
船長は帽子を脱ぎ、深く息を吐いた。
その姿は、まるで嵐の海で進路を失った航海者のようだった。
その時、一人のトルコ人士官が静かに近づいた。
「船長、何が起きているのですか。」
船長はしばらく答えなかった。
やがて低い声で言った。
「困ったことを言ってくるのです。」
そして海の向こうに浮かぶギリシャ軍艦へ視線を向けた。
「彼らは、あなた方を引き渡せと言っている。」
士官の顔から血の気が引いた。
船長は続ける。
「あなた方がトルコ人であること、それだけで十分な理由だと言うのです。」
「我々は日本政府の保護下にある人々を運んでいる。」
「それを我々の手で差し出せと言う。」
船長は拳を握った。
「そんなことが許されるのでしょうか。」
「それで、あなた方は何と答えたのですか。」
船長は振り返った。
その目には決意が宿っていた。
「引き渡さない、と答えました。」
短い言葉だった。
だが、その一言の重みを誰もが理解していた。
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― ミディッリ島沖、五日間の停船 ―
しかし、本当の試練はここから始まった。
ギリシャ軍の要求を拒絶した平明丸は、そのまま航海を続けることを許されなかった。
あと少しで祖国の土を踏めるはずだったトルコ兵たちは、その海上で足止めされた。
一日。
二日。
三日――。
平明丸は動かない。
煙突から煙が消え、機関の鼓動も止まった。
見えるのは、すぐそこに横たわる故郷の方角だけだった。
夜になると、トルコ兵たちは甲板へ出て、闇の向こうを見つめた。
「あの向こうに、母がいる。」
「あの向こうに、妻と子供が待っている。」
だが船は進まない。
いつギリシャ軍が再び乗り込んでくるのか。
いつイスタンブールから「引き渡せ」という命令が届くのか。
誰にも分からなかった。
ある者は眠れず、甲板を歩き続けた。
ある者は故郷の名を呟きながら祈った。
またある者は、再び始まるかもしれない捕虜生活を思い、声を殺して泣いた。
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一方、津村中佐は毎日船橋に立ち、沖合に停泊するギリシャ軍艦を見つめていた。
相手は軍艦。
こちらは一隻の商船。
力の差は明らかだった。
それでも中佐は譲らなかった。
「彼らを祖国へ送り届けよ。」
日本政府から受けた命令は変わらない。
そして津村中佐自身の決意もまた、変わらなかった。
船長もまた苦悩していた。
船を動かせば国際問題になる。
動かなければ人々の希望が消えていく。
船橋では夜遅くまで灯が消えることはなかった。
日本側はイスタンブール、日本大使館、関係各国へ次々と電報を打ち続けた。
平明丸の運命。
百余名のトルコ兵の運命。
そのすべてが、外交交渉の行方に委ねられていた。
― 五日目の朝、そして再び試練 ―
そして五日目の朝。
ついに待ち続けた返答が届いた。
だが、それは誰も望んでいたものではなかった。
平明丸に与えられた命令は、
「航行再開」
ではなかった。
「アテネ近郊のピレウス港へ回航せよ。」
というギリシャ当局の指示だったのである。
船橋に重い沈黙が落ちた。
船長は電文を握ったまま、しばらく言葉を失った。
津村論吉中佐もまた、無言でその文面を見つめていた。
四月十二日。
平明丸はミディッリ島沖を離れた。
しかし、その針路はイスタンブールではなかった。
西へ。
ギリシャ本土へ。
アテネ近郊のピレウス港へ向かっていたのである。
その事実を知ったトルコ人捕虜たちの間に、不安が広がった。
「我々は再び捕虜になるのか。」
「ギリシャ軍へ引き渡されるのではないか。」
誰も口にはしなかった。
だが、その表情がすべてを物語っていた。
甲板の上から見えるエーゲ海は相変わらず美しかった。
だが彼らにとって、その海は自由への道ではなくなっていた。
船橋の窓から海を見つめる船長の表情は険しかった。
その横で津村中佐が静かに言う。
「船長。」
「はい。」
「進路を変更してください。」
船長は驚いたように振り返る。
「ピレウスへ、ですか。」
津村中佐はゆっくり頷いた。
「今は従うしかありません。」
そして続けた。
「しかし、彼らを引き渡すことだけはありません。」
船長は黙って帽子を被り直した。
「承知しました。」
平明丸は黒煙を吐きながら、ゆっくりと針路を西へ変える。
甲板では、1〇〇〇余名のトルコ人捕虜たちが黙ってその様子を見つめていた。
祖国は東にある。
だが船は西へ向かっている。
その現実が、彼らの胸を締めつけた。
しかしその時、津村中佐は甲板に集まったトルコ人たちへ向かって静かに言った。
「安心してください。」
「あなた方を祖国へ送り届けるという任務は、まだ終わっていません。」
その言葉に、トルコ人たちは静かに帽子を取り、中佐へ向かって頭を下げた。
エーゲ海の風が吹く。
右舷マストのトルコ国旗が大きく翻る。
平明丸はピレウス港へ向かって進む。
だが、その船の進路を決めていたのは、海図ではなかった。
最後まで約束を守ろうとする、一人の日本軍人の意志だったのである。
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