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◎予州一色党の発祥その1・・・足利一族として |
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予州 一色党のルーツは今から約650年位前に清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)で鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(きんぶか)が母方の三河国幡豆郡吉良の庄一色邑で養育され初めて一色姓「一色公深」を名のったのが始りと伝わってる。
足利家同族の一色党として元弘3年(1333)4月 一色公深の長男範氏が弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅探題を攻め陥した。
範氏は鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げる等し室町幕府が発足してからは三管四職の内四職の一つを担い将軍家側近の相伴衆・御供衆等の要職を長らく勤め努め、同時に丹後・若狭・三河・尾張・北伊勢・山城等の守護を兼ねて権勢を誇った。
「海の一色」ともよばれて強大な水軍を持ち伊勢湾・若狭湾の海上権確保し経済を保っていた。
しかし将軍家や管領家の紛争のあおりで同族の違乱、国衆の反乱、隣国との紛争で絶えず戦乱に巻き込まれ本領は三河だが近隣諸侯の蚕食を被り、最終領土となる丹後においても隣国の若狭・丹波との争い等が続き緊張が絶えなかった。
室町末期おいては足利幕府の再興を願って最後の室町将軍足利義明の側近一色藤長は織田信長との間を取り持つことに奔走し又、丹後守護一色義員は丹後田辺城に籠城し足利義明の上洛に呼応してその通路を確保したり、最後まで一色党として足利家を支え続けた。
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◎予州一色党の発祥その2・・・一色遠祖 公深(きんぶか) |
写真 幸手一色末裔より拝借 |
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一色公深開基 宝持寺 |
一色公深像 |
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一色公深墓 |
幸手市 一色稲荷 |
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一色祖 一色公深
一色公深は元応元年((1319)二男頼行に三河吉良庄を譲り長男範氏を伴って、下総国葛飾郡下川辺庄田宮郷薩手(現埼玉県幸手市へ新補地頭として赴いた。幸手は父泰氏の遺領である。 ●元徳2年2月17日(1330年3月7日)同地に没し、曹洞宗 宝持寺に葬られた。
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◎予州一色党の発祥その3・・・丹後守護 一色氏の終焉 |
天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めに水軍で参戦し信長公より丹後国を安堵された一色左京太夫義員だが、追放した将軍・足利義昭を匿った為に、信長の怒りを買い天正7年(1579) 細川藤孝・忠興父子に明智光秀の加勢を受けた軍勢に、籠城していた田辺城を攻め陥された。
将軍義昭は義員らの田辺城籠城軍に対してこの功を賞している。(義員は足利義昭の上洛に呼応してその通路を確保していた)
足利義昭から一色義員への褒状
●足利義昭感状写
「田辺城敵調略。 既至壁際 いえども 取詰候。 城中者共依心懸無異議由。 無比動尤神妙候。 於其表一着可恩賞候。 猶近日可差下使者可申聞也」
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天正8年(1580)後守護一色義員は籠城の責任をとって丹後中山城で切腹した。(丹後守護職はこれで終わり)
同年丹後中山城落城により、義員の三男 予州祖一色右馬三郎範之(後に青木一重の諱を拝領し重之と云う)は母方の外祖父河野通泰の縁をたより伊予の新居郡に再起をかけ渡ったと伝わる。
※右馬三郎の舅で家臣櫻井四郎尹忠(佐波賀城主)(加佐水軍で活躍した人物)も中山城籠城していることから右馬三郎もこの時同じく丹後中山城に籠城していたと思われる。
長男一色左京大夫五郎義定は同じく籠城していましたが父義員が責任を取った為許され信長の大名になり二万石を知行され天正9年2月織田信長が催した「天覧京都御馬揃えに出馬、同年明智光秀の仲介で5月に細川藤孝の娘伊也を娶り同年8月因幡国鳥取城攻めに参戦。
天正10(1582)年2月武田勝頼討伐の為織田信忠に従い信州高遠城攻めに参陣したが6月2日に本能寺の変があり信長が明智光秀の為に討死。
一色五郎義定は光秀に加担の疑いで秀吉より切腹を命じられ、細川藤孝の宮津城三の丸米田屋敷において自刃した。
実質190年も丹後守護職であった一色範氏の流れをくむ(丹後系一色氏)は滅亡した。
本能寺の変で完全に室町の時代は終わり太閤秀吉の時代へと移ったのです。
(丹後守護一色氏代々控参考)
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丹後中山城は想像以上に大きく城主は一色左京大夫と結論されている |
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