伊予の一色党 歴史年表

豫州・一色党関係 伊予国・東予地区関係
1531 享禄 4  黒川元春が渡部越中守光綱を襲って降ろす。
1572 元亀 3 ・阿波の三好勢信長の援軍をえて伊予国に侵入交戦後敗走する。
・河野通直鷺森城に出陣して三好軍と戦う。高峠城を攻める。石川氏も前非を悔いて河野氏に降る。
・宇摩・新居両軍河野家に返還される。
1573 天正 元年 足利幕府滅ぶ(信長将軍義昭を追う)
1574 天正 2 黒川通長が万福寺で壬生川摂津守通国を殺し両氏争う。通長も榎木城で自殺。
1575 天正 長宗我部氏土佐国を統一
信長と毛利家対陣のとき、河野家の加勢として黒川、櫛部、宇野氏ら福山城を攻める。
・金子元宅桑村郡を攻める。
元宅、桑原三郎兵衛に挑戦、桑原氏は芸州高橋氏らの援軍により勝つ。
1578 天正 6 ・石川備中守勝重、金子元宅の勧めで長宗我部元親に下る。
・石川備中守勝重、長宗我部元親の姫と結婚。

・黒川美濃守通博が玉井又十郎に安井村の所領を与える。
1579 天正 7 金子元宅、象ヶ森城を夜襲
1580 天正 8 金子元宅、広岡村阿曽岡の河野功三郎を攻める。
・金子元宅再び櫛部兼久らを近田ヶ原城に夜襲し兼久自害
1582 天正 10 建武2年、一色範光が足利尊氏から丹後の守護に任じられ、八田の建部山に城を築いてから247年目、9月28日(一説5月28日)丹後の一色党は全く滅亡

・丹後の城主一色義定の三男、一色右馬三郎重之
 丹後国宮津の城落ちて新居郡、高外木城の石川氏の食客となる。
本能寺の変
・宇摩・新居郡の諸将、長宗我部元親に下る。

・来島氏、河野家に背き秀吉に通じる。
1583 天正 11 秀吉、大阪城を築く
・毛利元親、阿波全土を領有する。
・秀吉が元親に土佐一国は与えるが他は返納を命ずる。
天正 12
1585 天正 13 ・秀吉の四国平定の戦い(天正の陣)勃発7月2日〜18日迄

・天正の陣、一色一族(党)中山城(下島山)に陣取る。

・白馬の騎士 
中山城主 一色但馬守天正の陣の戦いでで討死
・河野氏、長宗我部元親に和を請う。
・秀吉の四国征伐
・天正の陣 
・小早川隆景、新居・宇摩郡を攻略。
・小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・小早川隆景、伊予国を支配する。

小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・黒川五右衛門尉通貫・剣山城落城により安芸国は退去。
1586 天正 14 ・小早川隆景、九州に出陣を命ぜられる
1587 天正 15 ・9月、周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は秀吉の家来青木民部一重の所領となり、民部の養子、青木駿河守正重が来て当地を支配。一色馬右三郎重之が代官となって周布を支配する。 ・河野道直芸州竹原で病没
・小早川隆景、筑前名島に移封される。
・伊予国の領主は秀吉子飼の家来が来る。東予五郡を領して福島正則がくる。・この時、周敷村は領地にならず青木駿河守一重の飛び領地となる。
1588 天正 16
1589 天正 17
1590 天正 18 ・一色右馬三郎重之が古城に居た北条の地頭 越智勘左衛門を討ってここに住み、此処を「三ツ屋」と称す。
1591 天正 19 ・青木一重従五位下民部少輔に叙せられる。以後青木民部と呼ばれる。
1592 文祿 1
1593 文祿 2 一色右馬三郎重之の子重次、青木民部の代官を勤める
重次、周布三谷の庄屋になる
1594 文祿 3
1595 文祿 4 ・一色右馬三郎重之が荒井藤四郎氏を攻める。
(秀吉の朝鮮出兵の軍費の為か新領主による過酷な年貢の取立てがあったようで、旧領主 荒井藤四郎が一揆の企てがあるとのことで、五月一三日一色右馬三郎重之率いる一色党が荒井氏を攻めるた。荒井方はよく戦った衆寡敵せず悲運のうちに藤四郎はじめ家子郎党一三人は討ち死にした)
・福島正則が転封になり北条は天領となる。
・福島正則の後に池田伊豫守高佑転封、国分城に入る。
・加藤嘉明、淡路から伊豫松前6万6万2千石に転封。
1610 文祿 5 ・北条は天領から再び関が原の戦いの功により領主となった藤堂高虎の領地になる。
1598 慶長 3 秀吉、伏見で病没
池田伊豫守伊豫大洲へ移封、小川土佐守祐忠七万石就封、国分城に入る。
1600 慶長 5 ・加藤嘉明、居城を松前から松山に移す。
・藤堂高虎
宇和島から今治に移封。
(加藤・藤堂の所領区域の協定があった、加藤は久米・伊豫・和気・野間・浮穴五郡内で14万5千石、風早・桑村・周布三郡はその高の半分、越智・新居二郡も取得分があり両家の所領は錯綜状態だった。尚、西條地方は加藤領であった)
1603 慶長 8 徳川家康征夷大将軍になる。
1608 慶長 13 ・北条は再び藤堂高虎が去って天領となる。
1611 慶長 16 ・一色右馬三郎重之(没)墓は宝積寺(三蔵院)にある。

青木一重、従5位民部少輔に序せられ以後、青木民部とよばれる。
1614 慶長 19 ・大阪城冬の陣へ民部の養子駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地から代官一色重次長男重政が率いる一色党200人が参戦。
1615 慶長
元和
20
1
・大阪城の夏陣へ代官一色重次の長男一色重政、大阪方として一色党を率い参戦、重政、重光は尼崎で戦死。
青木駿河守正重(34):従五位下駿河守,廃嫡される
1616 元和 2
1617 元和 3 ・大阪の役で戦死した重政、重光の供養の為一色重次は長福寺に釈迦堂と方丈を建立する。
この頃、
青木駿河守正重が大阪戦後浪人として一色重政の弟、重明の家に逗留した。
1618 元和 4
1619 元和 5 ・青木民部守養子の青木重兼が周布郡領地を継ぐ。(重兼は民部の弟次郎左衛門可直の子)
1620 元和 6
1621 元和 7
1627 寛永 4 右馬三郎重之嫡男の一色重次(没)

・周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村は蒲生忠知松山藩領になる。青木民部の養子重兼が摂津国豊島、川辺二郡の内へ移され麻田藩としてまとまり四十年に及んだ当地の支配を終える
(代官として当地を支配していた一色氏は庄屋となって、一柳、紀州分家西條藩松平と領主は変っても庄屋職を明治維新まで継続する)
・加藤嘉明、合津若松城に移封(松山在城25年松前を通じて松山にあること33年)
・蒲生忠知、24万石で伊豫に封ぜられる。
(西條地方も蒲生領であったらしい)
1634 寛永 11 ・蒲生忠知、京都で死亡、その家は断絶するこれより、松平出雲守勝隆が幕命で松山にきて国政を執った。
1635 寛永 12 久松定行、松山入城15万石
1637 寛永 13 ・一柳監物直盛、西條に封ぜられる。
・北条は小松藩一柳家の領地になる。
1658 万治 元年 ・重次の子、一色重明(没)
1684 貞享 元年 ・松山藩より一色新兵衛範好、壬生川村大庄屋仰せ付け。桑村郡大庄屋の始めとなる
1686 貞享 3 ・周布村庄屋
1688 元禄 元年 ・一色七左ヱ門、河野家に関係が深い長敬寺墓跡に蓮生庵建立する。蓮生庵は一色庄屋の持ち庵で観音様を祀っている。
長敬寺の住職の塩崎家とは同じ清和源氏の流れを汲む家で密かな供養の心で天正の昔の霊をなぐさめた。
(一色重明の弟市兵衛重昌が周敷村の庄屋になりその孫が
七左ヱ門
1699 元禄 12 ・新兵衛範好の子一色与五左衛門重之明理川の庄屋から壬生川の庄屋へ
1702 元禄 15 ・一色与五左衛門重之改庄屋になる。役料米7俵
1706 宝永 3 ・一色与五左衛門重之大庄屋になる。三人扶持役料10俵
1718 享保 5 ・一色与五左衛門重之五人扶持になる。
1720 享保 5 ・一色与五衛門重之(与五衛門))12月9日五代藩主定英の家督相続の式に、領内所郡の庄屋惣代として、和気郡の玉井助九郎とともに出府を仰せ付けられた。
(29日に三津浜を出発し、翌年正月23日に江戸到着。26日に生鯛一折差上げ、御目見仕。御料理被下置・・・白銀5枚拝領。同日若殿様江生鯛一折差上げ、白銀3枚被下置・・・)
1730 享保 15 ・壬生川村一色庄屋三代目範江村庄屋並びに大庄屋見習いになる。
1736 享保 21 ・壬生川村一色庄屋三代目範江酒造を許される
1738 元文 3 ・壬生川村一色庄屋三代目範江大庄屋になり、三人扶持役料拾表あてを受ける。
明和 7 ・壬生川村一色庄屋三代目範江周布郡の大庄屋を兼任する。
1774 安永 3 一色範江、病気の為、役職をしりぞく四十四年間当地方の行政にそのすぐれた手腕を発揮した。