豫州・一色党関係 (前半一色義員&一色藤長関係) 伊予国・東予地区関係
1528 享禄 ・黒川氏のぼっ興(剣山城築く)
・黒川通堯(元春)が
 ○中森城主能瀬越前守を襲う
 ○安井村松尾城主松木豊後守を攻める
 ○高峠城主石川氏と合戦 
1529 享禄 2 以下の諸将、黒川の旗下に属す
(獅子鼻砦主宇野、赤滝、大熊、文台、駒頭、楠窪、臼坂、池田
1530 享禄 3 黒川元春、北条地頭修理太夫を討つ。
1531 享禄 4 ・黒川元春が周布三谷城主渡部越中守光綱を討つ。
・黒川通堯(元春)が周布郡の旗頭になる。
・黒川氏が
 ○鷺の森城主壬生川氏と交戦(河野氏調停)
 ○桑村衆櫛部・稲井氏と交戦(調停)
1532 天文 一色藤長生まれる
1534 天文 3 織田信長・細川藤孝生まれる
1538 天文 7 一色義員、竹野郡成願寺城へ入る
1543 天文 12  ○三内村大熊城を攻めて黒川通俊戦死
 ○高峠城の石川氏と八幡、船山の間で度々交戦、幻城を要害城として石川氏に備える。

1553 天文 22 ・一色右馬三郎 生まれる。
1558 永禄 元年 丹波の守護代内藤宗勝(八木城主)丹後へ入り、与謝野郡を奪う
この時
一色義員田辺は移る
1561 永禄 4 11月日置左衛門尉、内藤宗勝を追い一色義員より褒状を受ける
1565 永禄 8 5月、足利義輝、三好・松永党に攻められ討死。7月義輝の弟後の足利義昭奈良興福寺より脱出して近江和田庄へ入る。
一色藤長、藤孝御供する。
1567 永禄 10 ○村上(河野)通泰没 一色右馬三郎外祖父  
1568 永禄 11 ○足利義昭 征夷大将軍に任じられる
1571 元亀 2 一色藤長摂津高槻は出勢する。
1572 元亀  ○河野通直鷺森城を出陣して三好軍と戦う、夜襲で大勝し三好軍敗走。

・河野通直鷺森城に出陣して三好軍と戦う。高峠城を攻める。石川氏も前非を悔いて河野氏に降る。
 ○河野通直高峠城を攻める。石川氏前非を悔い河野氏に降る。
 ○剣山城主美濃守通博が河野氏に従って戦い石川氏の高尾城を攻略する。
 ○壬生川庄1千貫の地を鷺森大明宮に寄進。
・阿波の三好勢信長の援軍をえて伊予国に侵入交戦後敗走する。

・宇摩・新居両軍河野家に返還される。

1573 天正 7月足利義昭,一色昭光の槙島城で挙兵。敗れて紀州興国寺へ走る。藤長御供
○足利幕府滅ぶ(信長将軍義昭を追う)

1574 天正 2 4月丹波の萩野・赤井ら丹後を犯す。一色義員、信長に救援求める。 黒川通長が万福寺で壬生川摂津守通国を殺し両氏争う。通長も榎木城で自殺。河野家和解はかる。
1575 天正 3 長宗我部氏土佐国を統一
信長と毛利家対陣のとき、河野家の加勢として黒川、櫛部、宇野氏ら福山城を攻める。
・金子元宅桑村郡を攻める。
元宅、桑原三郎兵衛に挑戦、桑原氏は芸州高橋氏らの援軍により勝つ。
・湯月城から鷺森城へ奇騎
1576 天正 4 紀州由良(和歌山県日高郡)の興国寺にいた“将軍”足利義昭が突如毛利氏の領国・備後鞆の浦(とものうら)に移る

○足利義昭、福山の鞆の浦に鞆幕府を開く

・義昭は毛利輝元を副将軍格に据え、この鞆の浦の地に後に“鞆幕府”と呼ばれるような小幕府を開き御所を構え再び信長との対立姿勢を強める。
1578 天正 6 ・石川備中守勝重、金子元宅の勧めで長宗我部元親に下る。
・石川備中守勝重、長宗我部元親の姫と結婚。

・黒川美濃守通博が玉井又十郎に安井村の所領を与える。
1579 天正 7 5月宮津在陣中の明智光秀、波多野を氷上郡に攻める。
足利義昭は鞆を拠点として上洛を果たすべく各方面は激を飛ばし一色義員らが上洛の通路を確保しようとしたが果たせなかった。
8月足利義昭田辺籠城軍に褒状を与える。

9月一色義員
(47才)
(右馬三郎の父)籠城していた居城、建部山城が落城し、但馬国を目指して38騎の部下とともに落ち延びる途上の中山城で籠城の責任をとって自害
10月明智光秀と細川藤孝両丹平定を安土城の信長に報告


 ※一色氏の丹後支配は実質終わった。
金子元宅、象ヶ森城を夜襲
1580 天正 8 7月信長光秀に丹波を、藤孝に丹後を与える
8月藤孝長岡の青竜寺より宮津八幡山へ入城する。

主人公である一色右馬三郎重之初め一色右馬介太郎

・丹後の城主一色義員の三男
 丹後国宮津の城落ちて伊予新居郡、高外木城の石川氏の食客となる。

古文書引用
(丹後国宮津城城主左京太夫ノ舎弟ナリ后ニ宇右エ門ト云イ天正八年一色家没落シテ后伊予国新浜郡萩生村ニ浪人し上村居住其后天正ノ末年頃周布郡三津屋村ニ居住ス)

金子元宅、広岡村阿曽岡の河野功三郎を攻める。
・金子元宅再び櫛部兼久らを近田ヶ原城に夜襲し兼久自害
1582 天正 9 二月信長二条城で馬揃え、一色五郎(義定)出場する
五月細川藤孝の娘伊也、一色五郎(義定)に嫁ぐ
九月信長の丹後検地。12万3千5百石の内一色五郎の知行を2万石とする。
1582 天正 10 一色義員の子五郎(義定)明智光秀に加担の疑いで宮津城三の丸で切腹。
建武2年、一色範光が足利尊氏から丹後の守護に任じられ、八田の建部山に城を築いてから247年目、9月28日(一説5月28日)丹後の一色党は全く滅亡


6月本能寺の変 織田信長が明智光秀により討死。
・宇摩・新居郡の諸将、長宗我部元親に下る。

・来島氏、河野家に背き秀吉に通じる。
1583 天正 11 秀吉、大阪城を築く
・毛利元親、阿波全土を領有する。
・秀吉が元親に土佐一国は与えるが他は返納を命ずる。

1585
天正 13 ・秀吉の四国平定の戦い(天正の陣)勃発7月2日〜18日迄

・天正の陣、一色一族(党)伊予中山城(下島山)に陣取る。

・白馬の武将 
中山城主 一色但馬守天正の陣の戦いでで討死
・河野氏、長宗我部元親に和を請う。
・秀吉の四国征伐
・天正の陣 
・小早川隆景、新居・宇摩郡を攻略。
・小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・小早川隆景、伊予国を支配する。

小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・黒川五右衛門尉通貫・剣山城落城により安芸国は退去。
1586 天正 14 ・小早川隆景、九州に出陣を命ぜられる
1587 天正 15 ・9月、周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は秀吉の家来青木民部一重の所領となり当地を支配。一色馬右三郎重之が代官となって周布を支配する。 ・河野道直芸州竹原で病没
・小早川隆景、筑前名島に移封される。
・伊予国の領主は秀吉子飼の家来が来る。東予五郡を領して福島正則がくる。・この時、周敷村は領地にならず青木駿河守一重の飛び領地となる。
1588 天正 16
1589 天正 17
1590 天正 18 ・一色右馬三郎重之が古城に居た北条の地頭 越智勘左衛門を討ってここに住み、此処を「三ツ屋」と称す。
1591 天正 19 ・青木一重従五位下民部少輔に叙せられる。以後青木民部と呼ばれる。
1592 文祿 1
1593 文祿 2 一色右馬三郎重之の子重次、青木民部の代官を勤める
重次、周布三谷の庄屋になる
1594 文祿 3
1595 文祿 4 ・一色右馬三郎重之が荒井藤四郎氏を攻める。
(秀吉の朝鮮出兵の軍費の為か新領主による過酷な年貢の取立てがあったようで、旧領主 荒井藤四郎が一揆の企てがあるとのことで、五月一三日一色右馬三郎重之率いる一色党が荒井氏を攻める。
荒井方はよく戦った衆寡敵せず悲運のうちに藤四郎はじめ家子郎党一三人は討ち死にした)

・7月9日当地を大地震が襲う、北条邑鶴岡八幡宮(地頭多賀谷修理大夫道保寛正勧請が崩れる。
・福島正則が転封になり北条は天領となる。
・福島正則の後に池田伊豫守高佑転封、国分城に入る。
・加藤嘉明、淡路から伊豫松前6万6万2千石に転封。
1596 文祿 5 ・北条は天領から再び関が原の戦いの功により領主となった藤堂高虎の領地になる。
1596 慶長 四月九日一色藤長卒する。六一歳
1610 文祿 5
1597 慶長 一色重虎(弥五郎)八月十五日病死(青木民部領地庄屋)
(青木民部より菊一文字刀と一色家家宝茶壷を拝領との記録あり)
弥五郎の子重信は周布村在住、重広は新居郡萩尾村在住(現在の西条市飯岡近辺)
1598 慶長 3 秀吉、伏見で病没
池田伊豫守伊豫大洲へ移封、小川土佐守祐忠七万石就封、国分城に入る。
1600 慶長 5 ・北条鶴岡八幡宮、塩見五郎兵衛景則北条村長再造営、三ツ屋村長一色弥兵衛重次神輿を寄付し奉り神事於是復 ・加藤嘉明、居城を松前から松山に移す。
・藤堂高虎
宇和島から今治に移封。
(加藤・藤堂の所領区域の協定があった、加藤は久米・伊豫・和気・野間・浮穴五郡内で14万5千石、風早・桑村・周布三郡はその高の半分、越智・新居二郡も取得分があり両家の所領は錯綜状態だった。尚、西條地方は加藤領であった)
1603 慶長 8 徳川家康征夷大将軍になる。
1608 慶長 13 ・北条は再び藤堂高虎が去って天領となる。
1611 慶長 16 ・一色右馬三郎重之(没)墓は西条市三津屋の宝積寺(三蔵院)にある。

青木一重、従5位民部少輔に序せられ以後、青木民部とよばれる。
1614 慶長 19 ・大阪城冬の陣へ民部の養子駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地から代官一色重次長男重政が率いる一色党200人が参戦。
・大阪城の夏陣へ代官一色重次の長男一色重政、大阪方として一色党を率い参戦、重政、五月十二日、重光は五月十三日尼崎で戦死。

青木駿河守正重(34):従五位下駿河守,廃嫡される
1615 慶長
元和
20
1

1616 元和 2 長福寺南明禅師生誕
1617 元和 3 ・大阪の役で戦死した重政、重光の供養の為一色重次は長福寺に釈迦堂と方丈を建立する。
この頃、
青木駿河守正重が大阪戦後浪人として一色重政の弟、重明の家に逗留した。
1618 元和 4
1619 元和 5 ・青木民部守養子の青木重兼が周布郡領地を継ぐ。(重兼は民部の弟次郎左衛門可直の子)
1620 元和 6
1621 元和 7
1627 寛永 4 右馬三郎重之の次男一色重次(没)

・周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村は蒲生忠知松山藩領になる。青木民部の養子重兼が摂津国豊島、川辺二郡の内へ移され麻田藩としてまとまり四十年に及んだ当地の支配を終える
(代官として当地を支配していた一色氏は庄屋となって、一柳、紀州分家西條藩松平と領主は変っても庄屋職を明治維新まで継続する)
・加藤嘉明、合津若松城に移封(松山在城25年松前を通じて松山にあること33年)
・蒲生忠知、24万石で伊豫に封ぜられる。
(西條地方も蒲生領であったらしい)
1634 寛永 11 ・蒲生忠知、京都で死亡、その家は断絶するこれより、松平出雲守勝隆が幕命で松山にきて国政を執った。
1635 寛永 12 久松定行、松山入城15万石
1637 寛永 13 ・一柳監物直盛、西條に封ぜられる。
・北条は小松藩一柳家の領地になる。
1639 寛永 16
九月七日 右馬三郎の嫡男 一色重直(没)
1643 寛永 20 長福寺南明和尚28才之頃乱世後寺檀之約末’定時’一色氏、塩見氏共為三ツ屋、北条邑長於是始固成寺檀之契約。
1658 万治 元年 ・重次の子、一色重明(没)
1684 貞享 元年 ・松山藩より一色新兵衛範好、壬生川村大庄屋仰せ付け。桑村郡大庄屋の始めとなる
1688 元禄 元年 ・一色七左ヱ門、河野家に関係が深い長敬寺墓跡に蓮生庵建立する。蓮生庵は一色庄屋の持ち庵で観音様を祀っている。
長敬寺の住職の塩崎家とは同じ清和源氏の流れを汲む家で密かな供養の心で天正の昔の霊をなぐさめた。
(一色重明の弟市兵衛重昌が周敷村の庄屋になりその孫が
七左ヱ門
1692 元禄 2 周敷神社本殿 再建 一色弥兵衛 一色弥五郎らがこの建築に関わる
1699 元禄 12 ・新兵衛範好の子一色与五左衛門重之明理川の庄屋から壬生川の庄屋へ
1702 元禄 15 ・一色与五左衛門重之、壬生川の改庄屋になる。役料米7俵
1706 宝永 3 ・一色与五左衛門重之大庄屋になる。三人扶持役料10俵
1718 享保 5 ・一色与五左衛門重之五人扶持になる。
1720 享保 5 ・一色与五衛門重之(与五衛門))12月9日五代藩主定英の家督相続の式に、領内所郡の庄屋惣代として、和気郡の玉井助九郎とともに出府を仰せ付けられた。
(29日に三津浜を出発し、翌年正月23日に江戸到着。26日に生鯛一折差上げ、御目見仕。御料理被下置・・・白銀5枚拝領。同日若殿様江生鯛一折差上げ、白銀3枚被下置・・・)
1730 享保 15 ・壬生川村一色庄屋三代目範江村庄屋並びに大庄屋見習いになる。
1736 享保 21 ・壬生川村一色庄屋三代目範江酒造を許される
1738 元文 3 ・壬生川村一色庄屋三代目範江大庄屋になり、三人扶持役料拾表あてを受ける。
1765 明和 ・大門者周・桑二郡兼大荘司壬生川邑一色範江之建立、太守一柳公始大門御通り駕籠之節。
初雪やけふあく門の水離れ(一柳太守)
範江 大門落成の句・・人留むとどめぬや松の雪庇
1770 明和 7 ・壬生川村一色庄屋三代目範江周布郡の大庄屋を兼任する。
1774 安永 3 一色範江、病気の為、役職をしりぞく四十四年間当地方の行政にそのすぐれた手腕を発揮した。
1774 安永 3 一色又三、範江の後を継ぎ大庄屋格になる、安永九年(1780)大庄屋格のままで、庄屋役は喜多台村庄屋、長井源之衛門の預かりとなる。「天明八年まで」
1795 一色範序誕生
1836 周布村庄屋一色太郎九郎 西条誌周布村散見される
1860 万延元年 一色範序小松邑志
1863 一色範序卒
1850 嘉永 3 十二月十三日三津屋村の一色庄屋罷免される。