| 西 暦 | 和 暦 | 一色党の歴史年表 | 解説 | |
| 丹後の守護となって、建部山(舞鶴市)に城を築いた足利泰氏。この4男公深(きみふか)が一色の姓を名のった。 足利泰氏−公深(一色氏)−範氏−範光−詮範 範光は父範氏、子詮範とともに足利尊氏に従い、九州に下って諸処で勤王の軍を破り、尊氏再挙の基を開いた。尊氏はその恩賞として、範光父子に丹後一円を与え北の守りに当らせた。丹波は尊氏ゆかりの地である。京都の幕府を開こうとする尊氏にとって、丹波、丹後は重要な基地である。 | ||||
| 南 北 朝 時 代 |
1336 | 延元1 | ・後醍醐天皇が延暦寺に移り足利尊氏が京都に入るが、新田義貞らに攻められて九州に逃げる。 ・一色範氏、多々良浜の戦いにおいて宮方に属した菊池氏らを撃破する。 ・足利尊氏を迎え撃ち楠木正成は湊川で戦死。 |
一色範氏は早くから足利尊氏に仕え、建武の親政に際し尊氏が後醍醐帝に対して反乱を起こした楠正成、新田義貞らに追われて九州に逃げたときにも尊氏に従った。やがて、尊氏が九州から上洛の途につくと、範氏は九州に残留して鎮西大将軍、鎮西管領となり肥前守護を兼ねたといわれている。 範氏の使命は、九州の幕府軍の指揮と九州各地の統治にあったが、鎌倉時代から九州各地の守護であった少弐氏、大友氏、島津氏などの反発に加え、経済基盤の弱いこともあって、その統治は困難を極めた。範氏は鎮西管領の権限の確立と、管領と守護との権限の明確化、経済基盤強化などを再三にわたり幕府に訴える一方で、辞任を再々申し出ていたが許されず、逆に範氏の嫡子直氏を九州に下向させて父子による支配体制の強化が図られた |
| ・一色範氏の子、範光は加佐郡八田(舞鶴市)に館を構え、子の詮範とともに守護の職につく。 | 範光に従う諸将3000騎、その持城282ヶ城。丹後5郡のほとんどすべての部落に一色の城があった | |||
| 1338 | 延元3 | 足利尊氏が征夷大将軍となる。 | ||
| 1346 | 貞和2 | ・一色直氏、足利尊氏の命で九州に入り、父範氏とともに九州の統治にあたる。 ・12月範氏は鎮西管領を子の直氏に譲り、出家して道猷(どうゆう)と号す。 |
範氏は佐田文書、深堀文書など多くの文書を発給しており、父子協同しての統治体制が敷かれたと推察される。 直氏は一時肥前、筑前、肥後、日向の守護にも任ぜられたがまったく実体は伴っていなかった |
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| 1349 | 貞和5 | 足利尊氏の庶子直冬が南朝に帰順し肥前の少弐頼尚と結び、尊氏に反旗を翻し、長門から九州にかけては宮方、直冬方、尊氏方の三勢力が鼎立して、離合集散する複雑な情勢となる。 |
尊氏方は、すなわち鎮西管領方であり、一色方にほかならない。範氏父子は、終始一貫して尊氏方の立場であったが、中央での尊氏と弟直義が対立する観応の擾乱と絡み合って、苦戦は避けられなかった。尊氏と直義の妥協により一時的に乱が収まると、直冬は九州を去ったが、少弐氏と南朝方が結んで一色父子に対抗した | |
| 1350 | 観応元年 | ・ 足利尊氏の子足利直冬が九州で挙兵、尊氏は追討のため出京。足利直義が南朝に降る。 | ||
| ・但馬の守護山名伊豆守時氏が尊氏に反し南朝に味方して丹後に乱入。 | 一色勢よく防戦したがついに破れ、丹後の国は山名時氏に奪い取られた。時氏は更に京都に攻め入り、足利義詮は一時、美濃の国にのがれ、尊氏は時氏を追って入京した。しかし戦に破れ、北朝後光厳院をいただいて近江の国に敗走した。尊氏はようやく態勢を挽回して南朝方を破って京都を回復した | |||
| 1351 | 正平6 | 尊氏・義詮が南朝方に降伏。 | ||
| 1352 | 文和元年 | 直冬を九州から駆逐。しかし、その後懐良親王を擁して菊池氏や少弐氏が宮方として立ち、これと戦う。 | ||
| 1353 | 文和2 | 筑前針摺原の合戦で一色父子はこれと戦って大敗し、以後在地勢力の支持を失う。 | ||
| 1355 | 文和4 | 範氏・直氏・範光親子は長門に逃れる。 | 一色氏の鎮西管領時代は約20年に及んだが、統治権を発揮し得るような状況ではなく、そのために九州一円に広域な支配力を形成することなく終った | |
| 1358 | 延文3 | ・範氏・直氏・範光親子上洛。 |
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| ・足利尊氏没して足利義詮が征夷大将軍、すなわち足利二代将軍となる。 | 一色直氏、二代将軍義詮の将軍宣下の際の供奉の列に加る。 | |||
| 1366 | 貞治5 | 直氏の弟でもある範氏の子範光が、斯波高経失脚後の若狭守護に任ぜられる。斯波氏は足利一族の名門でもあり、幕府創設の功臣でもあったが、尊氏没後二代将軍義詮は斯波氏の勢力伸張を警戒し、これを失脚させ、斯波氏が守護を勤める越前・若狭・越中を没収し、一色範光を若狭守護とし、同時に修理大夫に就任させた。 | ||
| 1368 | 正平23 | 足利義満が十一歳で征夷大将軍になる。 | ||
| 1379 | 康暦元年 | 一色範光、三河国守護職を得る。 | ||
| 1381 | 永徳元年 | 範光の子詮範、侍所頭人に任じられ、いわゆる四職家に列する端緒を開く。 | ||
| 1388 | 嘉慶2 | ・一色範光、正月24日没 ・範光の子、詮範(あきのり)若狭と三河の守護を継ぐ。 |
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| ・一色氏は建武3年八田に入国して以来、52年にして丹後の国全部を失う。 | 丹後の守護山名満幸(みつたか)は、再三建部山城を襲ったが、一色範光、詮範、詮範の子満範は、孤城を守って敵を追いかえした。 亀山天皇の北朝嘉慶2年、南朝元中5年(1388)正月、範光(慈雲寺殿)が世を去ったので、詮範父子は建部山城を守り通すことの困難を知り、330騎(一説には220騎)を従え、吉原左京と名のって丹波郡(中郡峰山町)吉原山(山祇山:やまずみやま)に立てこもった。詮範父子が建部山城を捨てて吉原山に引き退いたことを知った山名満幸は早速大軍をひきいて追討ちをかけた。詮範はついにささえきれず、山名方に降参した。一色氏は建武3年八田に入国して以来、52年にして丹後の国全部を失ったのであるが、与謝、加佐、中、竹野、熊野郡の豪族(地頭)の中には一色氏にひそかに好意をもつものがあり、奥丹後(中、竹野、熊野郡)における一色氏にひそかに味方する諸将は尚健在であったので、詮範は他日を期して自重していた。山名満幸は、一色詮範が足利将軍と同じ家柄でありながら、吉原左京と姓名をあらためて謹慎している心情に同情して山名の陣代(代理、代官)として吉原山にとどめ、奥三郡の支配を代理させた。これは、奥三郡の事情に明るく、しかも人望のある詮範を利用することが好都合であったからであろうが、一色氏にとっては、再起の糸口を与えられたことになった | |||
| 1389 | 康応元年 | 詮範、3月将軍義満の命で、北伊勢における北畠顕泰の乱へ仁木満長とともに出陣してこれを鎮定。 | ||
| 1391 | 明徳2 | ・詮範、山名氏清の起こした明徳の乱で軍奉行 ・一色満範、山名氏清の起こした明徳の乱では、父詮範とともに活躍し氏清を討ち取る。 |
●明徳の乱 北朝の明徳2年(詮範父子が吉原城にこもってから3年目)丹後の守護山名満幸が北朝の天子後円融の御料地を掠めとった。将軍義満は怒って、満幸の丹後守護を罷めさせ、都から追放した。危機を感じた満幸は叔父の山名陸奥守氏高をそそのかし、和泉、丹波、丹後、但馬の軍勢を集めて、淀と梅津から京都を襲う計画をたてた。 この陰謀を知った詮範、満範父子は急を将軍に知らせるとともに、敵を都に誘いこんで討ちとる計画を立て、12月31日、赤松、佐々木、畠山、細川ら諸将と相はかって、まず氏清を迎え討ち、その首を斬った。詮範父子が山名氏清の首を将軍義満に御覧に入れたのは、翌日、すなわち明徳3年正月元旦の朝であった。将軍は、山名満幸の所領を取り上げ、手柄のあった諸将に分け与えた。一色満範を再び丹後の守護に任じ、父詮範には若狭の今富をさずけた。 |
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| ・詮範、若狭・三河に加え尾張国の伊勢湾に臨む知多・海東二郡の分郡守護に補せられる。 | ||||
| 1392 | 明徳3 | ・一色満範、明徳の乱での功績で丹後守護に補せられる。 |
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| ・一色詮範は税所今富名を得て、ここに一色氏は初めて若狭の一元的支配権を手にした。 | 詮範はさっそく守護代小笠原長房を今富名代官に、小守護代武田重信を同又代官にそれぞれ任じたが、税所代は前代からの海部泰忠を起用して、とりあえず税所の機能を旧態のまま継承した。しかし、応永五年(一三九八)の段銭配符は依然として武田(ただし重信の子長盛)・浄玖の連署となっており(ア函一一一)、段銭徴収方式に変化はみられない。ところが、同十四年(ツ函九七)以降の段銭配符はすべて国衙機構たる留守所の下文となる。すなわち、ここにようやく税所を含む国衙機構全体を守護権力の一機関として機能させるにいたったのである。応永十年、海部泰忠の税所代職が没収されて田所忠俊に替えられたのは、一色氏による国衙機構の吸収という事態を象徴するものといえよう | |||
| 1393 | 明徳2 | 詮範、将軍義満、義持らを若狭小浜に迎える。 |
将軍義満が文珠堂に参詣した。一色満範は文殊の竜穴(りゅうげつ)の山上に小さな亭舎(休憩所)をつくり、京都から将軍をお伴をしてこの亭舎に案内した。将軍はそこから見おろす天橋立と与謝の海の絶景に感激し、この亭舎に「玄妙」の名を贈った。これが「玄妙庵」の起源である。将軍は全く上機嫌で、丹後と若狭の一色領を巡視して京都へ帰った | |
| 1394 | 応永元年 | ・詮範、大和国小夫宗清の乱の平定などで活躍。 ・足利義勝(義持)が4代将軍となる。 |
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| 1395 | 応永2 | 詮範、将軍義勝が文珠堂に参詣した。 |
一色満範は将軍を例の「玄妙亭」に迎え、再び将軍を案内して丹後、若狭を巡回した | |
| 1397 | 応永4 | 足利義満が京都北山に金閣寺を建てた。 | ||
| 1398 | 応永5 | :幕府、三管領(細川・斯波・畠山)・四職(山名・一色・京極・赤松)の制を整備。 | ||
| 1399 | 応永6 | 満範、大内氏の起こした応永の乱にも父詮範とともに出陣。 | ||
| 1402 | 応永9 | 将軍義勝と義満が一緒に文珠堂に参詣した。 |
満範は父詮範夫妻とともに将軍の案内をして大変喜ばれた。この頃が丹後一色党の全盛時代、黄金時代であったといえるであろう | |
| 1405 | 応永12 | 一色詮範が再度侍所頭人になる。 | ||
| 1406 | 応永13 | ・詮範、6月7日没 ・満範、詮範が死去すると遺領の若狭、三河、尾張二郡の守護を引継ぎ、丹後と合わせ3ヶ国2郡の守護となる。 ・満範、侍所頭人になる。 ・三河の一色領をあずかっていた小笠原明鎮(みょうちん)父子が叛いたので、満範は二人を京都の邸につれかえり、さらに与謝郡石川山城(野田川町)におしこめる。 |
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| 1407 | 応永14 | 将軍義満、三回目の若狭旅行に来る。 |
義満にとって最後の丹後・若狭旅行で、九世戸から高浜を経て小浜にいたる恒例のコースであった。このとき一色満範は義満を栖雲寺に、義満の妻北山院(日野康子)を玉花院にそれぞれ宿泊させ、両寺の間に廊下を造営した。また小浜湾には二艘の飾り船を浮かべ、道路もさまざまに飾り立てたという。こうした満範の懸命の歓待ぶりのなかに、彼にとって義満一行を小浜に迎えることがこのうえもなく晴れがましく、得意絶頂の心持ちであったことがよく表われている。 この将軍歓待によって一色氏は、若狭の人びとに守護としての権威を効果的に知らしめるとともに、将軍家との関係もより親密なものとし、幕府内における政治的地位を固めることができたと思われる | |
| 1408 | 応永15 | 満範、長年にわたり若狭守護代などを勤めた小笠原一族が三河で反乱を起こしたが、これを平定した。 | ||
| 1409 | 応永16 | 満範、正月6日没。後、満範が死去すると家督争いがある。 |
父満範が死ぬると、兄の持範は吉原城にこもって、八田(もと加佐郡、現舞鶴市)にいた弟の義範と父の遺領を争った。丹後の諸将や領民はどちらに味方すべきかに迷った。その3月、後難をおそれた義範は、石川山城(与謝郡野田川町)にとじこめていた三河の陣代小笠原父子に切腹を命じる | |
| 1411 | 応永18 | 持範・義範兄弟は仲直りする |
兄持範は京都の北野に第(だい、邸宅)をつくって住み、名を義清と改めた。これを北野一色といった。弟義範も、この年、幕府の侍所の別当(長官)となって八田から室町の邸に移り、名を義貫と改めた。兄持範が三河、伊勢の守護となり、丹後を義範が領したとも、また丹後、三河、若狭を二人で分けあったともいい、或は丹後の東半分を義範がとって八田に陣代(代理)を置き、持範が相変わらず吉原山城(峰山町)に近藤、遠藤の二臣を陣代にとどめて奥三郡(中、竹野、熊野郡)を支配させたとも伝えられている | |
| 1414 | 応永21 | 一色義範(義貫)、応永28年(1421年)まで侍所頭人を勤める。 | ||
| 1417 | 応永24 | 一色満範の子、義範(義貫)、16才で伊勢北畠満雅討伐軍の総大将に指名され、将軍義持から旗・鎧・太刀を授けられ伊勢に発向して満雅を討。。 | ||
| 1418 | 応永25 | 義範(義貫)、十月には山城国守護に補任された | (『看聞日記』同年十月二十四日条)。このとき山城国守護代となって淀に入部した三方範忠の勢は三〇〇余騎であったとされ(同 同年十一月一日条)、京都における一色軍のおよその規模を知ることができる。 | |
| 1421 | 応永28 | 義範(義貫)、将軍義持の命により山名時煕とともに赤松満祐の乱の討伐に活躍し、幕府内での地位を高める。 | ||
| 1423 | 応永30 | 義範(義貫)は八月の鎌倉公方足利持氏討伐で将軍から旗を授かる。 | ||
| 1427 | 応永34 | 義範(義貫)、十一月の赤松満祐退治にさいしても将軍から旗を授かる。 | ||
| 1429 | 正長2 | 義範(義貫)、関東公方足利持氏への対処方について義教と対立する。 | ||
| 1430 | 永享3 | 義範義貫、義教右大将拝賀の式典に際して、供奉の行列の序列を巡ってトラブルとなり、供奉の責を果たさなかった。 |
六代将軍義教の代になると、当初は御相伴衆として重きをなしたが、関東公方足利持氏への対処方について義教と対立し、永享2年(1430年)の義教右大将拝賀の式典に際して、供奉の行列の序列を巡ってトラブルとなり、供奉の責を果たさなかった。義教は義貫処分を断行しようとしたが、義貫に合戦の覚悟があると知れると幕府重臣が義教を諌め、処分は保留された | |
| 1431 | 永享 | |||
| 1432 | 永享4 | 義範(義貫)、永享4年(1432年)〜永享8年(1436年)にかけ侍所頭人に再任される。 | ||
| 1433 | 永享 | |||
| 1434 | 永享6 | 義範(義貫)、8月からは山城守護を兼ねる。 | ||
| 1436 | 永享8 | 義範(義貫)、大和の反乱鎮定にあたる。 |
鎮定は長引き、その陣中にあった永享12年(1440年)5月15日早朝、義教の命を受けた武田信栄らにより討たれた | |
| 1438 | 永享10 | 義範(義貫)は幕府の命によって大和の三河の大僧正義昭を討伐。 | ||
| 1440 | 永享12 | 義範(義貫)、幕府にそむき5月15日、義教の命を受けた武田信栄らにより討たれる。 |
(五月十五日、大和の国人越智氏らを討伐するため出陣していた義貫は、義教の密命を受けた武田信栄から朝食に招かれ、鴟(奈良県桜井市外山)の武田の陣所で襲われて自害したのである。このとき義貫に従っていた三方若狭守・同弾正の二人は最後まで奮戦して討死したという(『師郷記』同日条)。翌日京都では勘解由小路猪熊にある一色邸を接収するため義貫の甥教親が押し寄せ、留守を預かっていた家臣らとの間で激戦となり、義貫の家臣二〇数名が討死した(「東寺執行日記」)。一色氏の分国のうち、若狭と尾張知多郡は武田信栄、三河は細川持常にそれぞれ与えられたが、丹後および義貫と同時に謀殺された土岐持頼の遺領伊勢が一色教親に認められて(尾張国海東郡はこれ以前に失っていた)、一色家の断絶は免れた。教親は持信の子である。義教の持信重用の行き着く先が、ここにきて明確な形となって現われたといえよう。ともあれこうして「万人恐怖」といわれた専制将軍義教によって、若狭の守護は突然一色氏から武田氏へと替えられたのである。) (武田信栄は余勢に乗じて、若狭の一色領を奪い、更に丹後に押し寄せて来たが、吉原城にいた持範の子、八郎持長は、陣代の近藤、遠藤を激励してよく防戦した。八田に立てこもっていた義範の家臣、領民また心を合せて持長の指図に従って戦い、武田勢はついに丹後に入ることを得ずして退却した) |
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| 1443 | 嘉吉3 | 丹後は大水にみまわれた。これを「嘉吉の洪水」といい各所に大きな被害が出る。 |
加佐郡八田(舞鶴市)一帯は泥水に没する惨状で、時の守護一色義範は農民の難儀をみかね、丹後の一国の年貢を免じて領民を救った。しかし、義範は3年前、幕府の命を受けて討伐に向った武田信賢のために大和で討死しているので話があわない。これは義範のやったことでなく、或いは吉原山城にいた一色持長の計らいであったかも知れない | |
| 1445 | 文安2 | 義範の弟持範の子教親が丹後の守護になる。 | ||
| 1449 | 宝徳元年 | 義範(義貫)の子義直に丹後の国十万三千四百余石が与えられた。 | ||
| 1450 | 宝徳2 | 一色義直が丹後の守護となって、八田にその府(役所)を設ける。 |
八田にその府(役所)を設けたが、彼はほとんど京都の室町の邸に住んでいた。義直の代官が宮津の館に駐屯して与謝郡一帯を支配していたものであろう。吉原山城(中郡峰山町)には義直の弟義遠が、従兄の一色八郎持長の後を継いで吉原四郎義清と名のり、奥丹三郡を治めていた | |
| 1451 | 宝徳3 | ・義貫弟持信の子。一色教親33歳で急死 ・一色義直、教親が急死したのち、その遺領である丹後と北伊勢の守護職を継ぐ。 |
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| 1467 | 応仁元年 | 「応仁の乱」起こる。 ・一色氏は丹後府中館に住むようになる。 |
将軍義政には子がなかったので浄土門跡になっていた弟を還俗させて養子とし、義視(よしみ)と名のらせ、将軍の職をゆずることを約束した。義視の後見役(執事)を細川勝元に申しつけた。人々は義視のことを今出川殿と呼んでいたがその後間もなく将軍の奥方富子に義尚が産まれた。富子は実子義尚を将軍にするために山名宗全に後見を依頼した。細川、山名の両家は養子問題で不和となっていたが、畠山、斯波の両家の間も将軍家と同様、養子と実子の問題で紛糾(ふんきゅう)していた。これが細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両陣営に諸将が加担して三十万の大軍が都中で戦う原因となった。後土御門天皇の応仁元年(1467)早春から始ったので世に「応仁の乱」といわれている。 一色義直の妻は山名宗全持豊の孫娘であった。義直は早速、丹後、伊勢の兵を引きつれて山名の西軍に味方しその5月から戦闘に参加した。応仁元年9月、西軍が破れ、一色義直勢は総くずれとなって丹後に逃げようとしたが、敵に退路をふさがれて帰ることができなかった。しかしその翌10月にはかえって細川勢を鳥羽に破った | |
| 1469 | 文明元年 | 将軍義政は一色義直の領地を取り上げて、細川に味方する若州(じゃくしゅう)の武田信賢に与え、大和の陣の後、一色義範から奪った若州の一色領も、正式に彼の所領として認めた。 |
武田信賢は直ちに丹後に攻め入り、八田の館をおとしいれ、余勢をかって奥丹後へ進もうとしたが、但馬から来た山名の援軍と合した一色義直は、武田方を普甲峠でうち破った | |
| 1471 | 文明3 | 武田信賢が病死し、丹後の守護は一時なくなる。 |
一色義直は、丹後の守護の位を取り上げられたけれども、なお85ヶ城に将兵を配し、依然として丹後にゆるぎない勢力をもっていた。丹後一色党は八田に拠って口丹後を固めていたけれども、党主義直自身は殆んど京都の戦場にいた | |
| 1473 | 文明5 | ・武田信賢の遺臣で、高浜の城主逸見(へんみ)駿河守はその隙に乗じて丹後に侵入し、加佐郡市場城の香川馬之助をたおして八田にながれ込んできた。 | 義直の弟、吉原四郎義清(義遠)は遠く吉原城(中郡峰山町)から駆けつけ、逸見勢をうち破った。逸見はついに一色に降り、かえって設楽(しらく)の城主としてとどまったといわれている | |
| ・将軍義政の後を承けて足利義尚が九代将軍となる。 | ||||
| 1474 | 文明6 | 一色義直丹後守護に復帰。 | ||
| 1477 | 文明9 | ・5月、幕府は北畠政郷に与えていた伊勢北半国守護職を義春に与えたため、伊勢において北畠軍と一色軍の間で合戦が起こり、北畠軍が勝利する。 ・一色義直の三河領の守護代東条国氏(くにうじ)が反したので、吉原四郎義清は子の左京太夫義有(よしあり)を伴って出陣し、国氏を追い出し、義有を三河にとどめて引き返した。 |
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| ・「応仁の乱」終わる。 |
(応仁元年以来11ヶ年にわたった「応仁の乱」も1勝1敗の中に、細川勝元、山名宗全の東西の両将が相ついで病死し、その他の諸将も戦いに飽いて故郷に帰る者多く、自然消滅の形で終った。一色氏にとっては、将軍家と仲直りができたばかりでなく、文明11年8月(1479)には再び丹後の守護に任じられ、伊勢の国さえ与えられ、同15年(1483)5月には四位の下に任官している) | |||
| 1479 | 文明9 | 一色義春、北伊勢の守護に補せられる。ここに一色氏は旧領を回復した。 |
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| 1483 | 文明15 | 一色義直、四位の下に任官 | ||
| 1484 | 文明16 | ・義春、父義直に先立って病死し、義直を嘆かせ、また将軍義尚もその死を深く悲しんだという。 ・義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。ただし若年であったせいか、この時は丹後守護職には父義直が就いている |
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| 1486 | 文明18 | 父義直は禁裏の意向により、知行地若狭国小浜を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。激怒した義直は直ちに丹後へ下向。 | ||
| 1487 | 長享元年 | 将軍義尚が近江の六角高瀬を討伐したとき、義秀、弟義遠(吉原四郎)と共に参加して軍功を立てる。 | ||
| 1489 | 延徳元年 | ・将軍義尚没。 ・同2年足利義稙が十代将軍となる。 |
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| 1492 | 明応2 | 将軍義稙は越中の国に追われる。 | ||
| 1493 | 明応3 | ・一色義直丹後の国人伊賀次郎左衛門の反乱の際に丹後に下向し、普甲山において国人衆に攻められて切腹したとされる ・細川政元は翌3年、足利義澄をたてて十一代将軍とした。 |
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| 1497 | 明応7 | 細川政元、若州武田一族をそそのかせて丹後を犯させた。 |
一色義直は再び普甲峠に武田勢と対陣したが、軍破れて討死し、妻も自害してしまった。勝ちほこった武田勢は与謝郡に攻め入った。急を知った吉原四郎義清は武田勢を迎え討ち、さんざんにうち破って兄義直のかたきをうった。こうして、吉原山城(峰山)に拠る吉原四郎義清は、傾きかかった一色党の安危を双肩に荷って目覚しい活躍をしていた | |
| 1498 | 明応8 | ・一色義直の子、一色義秀、国衆の叛乱が相次ぎ、5月29日丹後国普甲山で国衆に攻められ自害して果てた。 ・一色義遠の子、義有、自刃した先代の一色義秀の跡を継いで当主となった。 |
(国内は守護代延永氏が台頭するなどして混乱を極めた) | |
| 1051 | 明応10 | 細川政元、澄元(政元の子)らと計り、将軍義澄を説いて、武田国信の子大膳太夫元信を従四位若狭守に任じ、更に、丹後の守護をも兼ねさせる。 |
武田元信は加佐郡に攻めこんで来たが、また吉原四郎のために追いしりぞけられた | |
| 1501 | 文亀元年 | 吉原四郎義清(一色義遠)は三河の国に止まっていた長男義有を呼びもどして、本家の跡を継がせて丹後の国王とする。 | ||
| 1505 | 永正2 | 丹後守護に義直弟義遠の子、一色義有が補任される。 | ||
| 1506 | 永正3 | 丹後の守護武田元信が細川澄元の支援を得てまた加佐郡に攻め来る。 |
一色八郎持長の子義春がこれを防いだが支えきれず、武田勢はその7月大川(由良川)を渡り、普甲峠を越え8月、宮津になだれ込み、如願寺で丹後の兵と戦い、寺を焼き払い、府中に渡り、一色義有の本城阿弥陀ヶ峰を見下す成相寺に陣をしいた。 京都室町にいた一色義有は急をきいて、小西石見(いわみ)守を丹後に送って丹後勢をはげました。丹後に下った小西石見守は、石川城の義遠、宮津の義春、吉原山城の義信と手をつなぎ、府中陣代延永修理進を助けて成相寺の武田勢を包囲した。驚いた武田元信は、4年4月、使いを細川政元へ走らせて援軍を求めたので、政元・澄元父子は早速、小笠原朝経入道(沢蔵軒(たくぞうけん))を将として大軍を送った。小笠原は奥郡(中、竹野、熊野郡)との連絡をたつために、山田、加悦方面の攻略に向い、同年5月には山田城の下山将監、加悦城の石河直経(なおつね)ら一色方の諸将との間に和睦の様子が見え始めてきた。 ところが、その6月、細川政元が逆臣葛西(かつさい)のために嵯峨で殺され、形勢が逆転した。 京都室町にいた一色義有は、好機逸せず、丹後に帰ると、味方の陣頭に立って成相寺に迫り、寺に火を放って、夜襲した。武田勢はたちまち総崩れとなり、大将武田元信は命からがら日置の浜(宮津市)から小舟を拾って逃げ去り、退路を断たれた小笠原朝経は、文殊堂内の無相堂にかけ入り割腹し、腸(はらわた)を天井に投げつけて自殺し、一族郎党八十二人も彼の後を追って殉死した | |
| 1508 | 永正5 | ・将軍義澄は近江にのがれ、前将軍義稙(よしたね)が再び征夷大将軍となる。 ・一色義春が病死 |
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| 1514 | 永正11 | 但馬の山名祐豊(すけとよ)が熊野郡久美浜に不意に乱入し、その機に乗じ若州の武田元信がまた普甲峠を越えて宮津に攻め込んで来た。 |
吉原山城(峰山町)の越前守義信は熊野郡の氏家勢に下知して、9月8日、山名を撃退し兄一色義有は、上宮津の小倉、加悦の石川、和田の諸将を指揮して武田勢をむかえたので、武田方はなすすべもなく退却した。 それから間もなく一色義有は世を去り、一子義幸(よしゆき)が後を継いだがその年月日は明らかではない | |
| 1516 | 永正13 | 翌年にかけて同族一色九郎と争う。義清は加悦城主石川直経と、九郎は守護代延永春信と結び戦いを繰り広げたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。 | ||
| 1517 | 永正14 | 石川城の一色義遠は、災厄の因(もと)を断つため、逆に若狭の武田元信を襲ったが、朝倉孝景の為に邪魔されて目的を果すことができなかった。 | ||
| 1521 | 大永元年 | 丹後の守護武田元信が病死し、子元光が職を継ぎ、室町幕府では、将軍義晴が十二代将軍となった。 | ||
| 1527 | 大永7 | 一色義幸の軍が若狭の国小浜の西津浜を襲う。 | 武田元光に撃退され、加佐郡で敗れたといわれている | |
| 1546 | 天文15 | 足利義輝が十三代将軍となる。 | ||
| 1547 | 天文16 | 若狭の武田元光の軍が丹後に攻めて来た。 |
一色義幸これを下宮津に迎え討ち、一色方奮戦してついに武田勢を追い返した。普甲寺はこの時の兵火にかかって焼失した | |
| 1548 | 天文17 | 武田元光再び丹後に攻め寄せてきたが、また義幸のために追い返す。 | ||
| 1551 | 天文20 | 丹後守武田元光が病死し、その子伊豆守信豊が丹後の守護職を継ぐ。 | ||
| 1555 | 天文24 | 武田信豊が病死して、その子大膳太夫義純が丹後の守護となったが、一色氏の丹後の地盤は依然としてゆるがなかった。 | ||
| 1558 | 永禄元年 | ・一色義幸が隠居 ・義幸の子式部太夫義道が後を継ぐ。 |
義道の弟義清は吉原越前守義信の後を受けて吉原山城(峰山町)により、吉原越前守義清と名のって奥丹後三郡を指揮した。よい家臣をもち、その家臣のため、三郡の城主、領民は義清を信頼した | |
| 1560 | 永禄3 | 織田信長が今川義元を桶狭間(おけはざま)の戦で破り、その名は一躍有名になった。 |
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| 1568 | 永禄11 | 足利義栄(よしひで)が三好、松永らにおされて十四代将軍となったが、美濃、近江を征服した信長は、足利義昭を奉じて都に入り、同年9月足利義昭を15代将軍の位につかせた。 | ||
| 1570 | ・一色義幸の子で丹後の国主、義道、信長より上洛を促される。 | |||
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・一色七郎の謀反を信長に注進するとともに黄金十両を進上する。 ・将軍邸完成の祝典に招かれ、能見物の席を連ねる。 |
(幕臣としての行動か) | |||
| 1573 | 天正元年 | ・将軍義昭は武田信玄を誘って、信長を挟撃しようとしたが失敗し、一度は赦されたが、再び反抗したので将軍義昭は捕えられ、河内の国に押し込められた。 ・細川藤孝は将軍家を相手に抜群の功により、その7月14日、山城の国の桂川の西、長岡を与えられ、姓を長岡と改める。 |
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| 1575 | 天正3 | ・細川藤孝、丹波の国の船井、桑田両郡を追加される。 ・八月の越前一揆討伐戦の時、丹後より船で出陣し、越前の浦々を攻撃する。 |
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| ・信長より一色義道丹後の守護に任じられる。 | 同じ足利の一族である一色義道は、藤孝のような世渡りは良心が許さなかったものか、天正3年(1575)信長から丹後の守護に任じられながら意思の疎通を欠くものがあった。しかし一説には「一色義道は悪政にして国人順わず」とも伝えられている。比叡山の僧や、足利の残党が彼をたよって逃げてきたのは、信長と義道の対立的な関係を察していたのがその理由であったのかも知れない。義道もこれをかばって丹後八十五ヶ城に配して国の守りを固めた)信長は、義道に再三反省を促したが、義道聞き入れず、丹後にひそんでいる比叡山の僧らはひそかに信長誅滅の祈祷まで行っているといううわさがひろがっていた) | |||
| 1576 | 天正4 | 信長は新しく出来上がった安土の城に移り、中国征伐の作戦を練っていたが、丹波、丹後から目をはなすことができなかった。 | ||
| 1577 | 天正5 | 信長は明智光秀と細川藤孝を呼んで二人が協力して、ます丹波をうち、続いて丹後を平定してくれたら、丹波を光秀に丹後を藤孝に与えようと約束する。 | ||
| 1578 | 天正6 | ・義道九月、信長に隋従して堺へ赴き、九鬼嘉隆の大船を見物する。この時同道したのは、公家の近衛前久と旧管領家の細川信良であった。 ・長岡(細川)藤孝は、長岡、船井、桑田の勢を集め、その子忠興、興元とともに宮津に攻め寄せる。 ・その後信長と決裂し、長岡藤孝の侵入を受けて、これと抗戦。同七年一月、敗れて八田城を退き、中山城の沼田勘解由(幸兵衛ともある)のもとに逃れたが、沼田の裏切りに会い、自害したという(一色軍記)。 |
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| 1579 | 天正7 | ・義道の子、一色義俊(義定)父の自害(病死ともいう)に伴って家督を継ぎ、丹後の丹波・竹野・熊野郡を領し、弓木城主になる。 |
一色義道は、八田、栗田等の兵をひきいて北上し、須津、弓木など近在の諸将が南下して猪の岡山の細川軍を包囲した。不利と見た細川と明智は軍をまとめて丹波の園部に引きあげた。「丹後田辺府志」には、天正の頃、宮津城には、一色五郎満信がいて、細川藤孝が丹後を領したが、少しもひるまず八幡山城にひきうつり、と書かれている)沼田は何とかして義道に腹を切らせ、その首を土産に細川方につこうとあせっていた。 一色方の武将、大江越中守、高屋駿河守、近藤兵庫、原紀伊守、金屋伊豆守、山口弾正、荒川帯刀、赤井五郎左衛門、木村長門守、氏家大和守、杉山出羽守、垣見筑後守、白杉主税介(ちから)、横田伝太夫らは足利の残党で、戦場に馴れた勇将で、よく部下を指揮して持場を守った。 一万騎を超える細川、明智の大軍も、中山城一つをもてあまし、攻撃に3ヶ月をついやしたが攻め落とすことが出来なかった。そこで松井佐渡守は城内に密使をおくり、沼田幸兵衛の持場に火をつけさせ混乱に乗じて夜襲した。 一色義道は、一旦城から切り抜け、川原に逃げたが、到底再起の見込みがないと思ったのか、秋草のかげで自害した。この合戦で主従三十八騎が討死している。 この時、義道の子義定は、よりすぐった百人余の若武者と大船山(舞鶴市、四所)の峠にかくれていた。機を見て細川軍の後方から襲う計画であった。義定は父の自害をきくと、じだんだふんで口惜しかった。「いいかひ(甲斐)なき父の有様なるかな、たとい沼田の悪心にて落城に及びぬとも一方を切抜け奥郡へ引取る事はなかりなんをやみやみ切腹に及ばれける残念さよ。」父の無駄死に憤激した義俊は、精兵を引きつれ、大船山の峠からまつしぐらにかけ下りると、そのまま細川勢に突入した。その時細川勢の正面から「若殿を討たすな」と大江越中守をはじめ、一色の諸将が一団となってうって出たので、流石の細川勢もさんざんにうち破られて八田をさして引退いた。 細川勢を打ち破った義俊は、討ち取った敵の首百九十余りを槍に結び大雲川(由良川)を渡って与謝郡に入り、弓木の稲富伊賀守の城に立てこもった。 忠興兄弟も、義俊らの見事な引き揚げぶりに感心し、追討をかけずに見送った。 しかし、この一戦で宮津から南は完全に細川の手に落ちてしまった。そして10月、細川藤孝、忠興父子は安土城に織田信長を訪れ、この戦果を報告した。 |
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| ・七月、明智光秀・長岡藤孝に攻められるが、やがて藤孝の娘を娶るという約束で講和する(一色軍記)。 | ||||
| ・九年二月二十八日、長岡(細川)兄弟とともに馬揃えに参加する。 | ||||
| 1581 | 天正9 | 一色義俊(義定)、細川藤孝の娘、名をイヤまたは菊の方と結婚する。忠興、興元の妹。 |
これから丹後八十五ヶ城の将士は田辺と弓木に日勤することになり、丹後はしばらく戦火の苦しみから解放された | |
| 1582 | 天正10 | ・本能寺の変 ・一色義俊(義定)、婿として9月8日宮部城に赴いたところを、長岡(細川)藤孝にだまし討ちにされる。 |
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| 1584 | 天正12 | 細川藤孝父子は加佐郡大内山に移り、八田に城を築く。 |
丹後の平和は長くは続かなかった。細川が娘を義俊(義定)に嫁がせたのは政略のためであり、一色方としても、細川、明智は勿論、その背後にある織田信長に屈することをいさぎよしとは思っていなかった。信長は足利の天下を奪った張本人で、細川、明智はその手先であるという憎しみが一色氏にはあった。 また、明智光秀は細川忠興のしゅうとである。主君信長のためというよりは、先づ娘婿忠興のために丹後を手に入れてやりたいと思うのも人情である。 こうした空気の中にあって結婚以来一度も細川方に顔を出していない義俊の態度は細川方に最もよい口実を与えた。こうして義俊誘殺の計画はひそかに進められていった | |
| 一色義俊(義定)の誘殺 (9月8日説) | ||||
| 織田信長が明智光秀のために本能寺に倒れたのは天正10年6月2日(1582)である。 光秀は早速細川に使者を送り摂津一国を与えるといって誘ったが、藤孝父子は返事もしなかった。
藤孝は髪を剃って玄旨(げんしゅ)法印幽斉と名を改め、亡き信長に対し二心なきことを誓った。 忠興は光秀の娘である妻の玉子に子供をつけて野間の奥味土野(竹野郡弥栄町)に閉じ込めてしまった。 細川忠興は直ちに羽柴秀吉に手紙を出し、光秀討伐の協力を誓い、丹後の軍勢を集めたが、出陣を待たずにその13日、光秀は、秀吉のため滅ぼされてしまった。 7月に入ってまもなく、幽斉と忠興は上京して信長の跡を弔い、秀吉に出会った。秀吉が「細き川こそ二つ流るれ」と和歌の下の句を読んだ。 幽斉は即座に「御所車、ひき行くあとに雨降りて」 と上の句をつけたので、秀吉は大変満足して、細川父子を心からねぎらった。これで細川の丹後十一万七百石は安泰となった。 やがて、柴田、滝川征伐が始った。細川の武将米田監物は、秀吉の加勢として亀山攻めに参加し、玄蕃頭興元は志津ヶ嶽の合戦に馳せ向い、忠興は兵船を指揮して越前の国に向った。 ところが志津ヶ嶽で中川瀬兵衛の討死が、誤って秀吉軍が敗れたと丹後に伝わった。 弓木城にいてこれをきいた義俊は、この機会に乗じて、細川の宮津の館を奪い取ろうと、兵船を用意して犬の堂沖(宮津の西入口)まで漕ぎ出したところ、後ろから早船が追いついて、全くの誤報であることを伝えたので、一色勢はすごすごと引き返した。 まもなく越前方面の討伐を終えて、細川忠興は田辺に凱旋したが、一色義俊は凱旋祝いにも行かず引きこもっていた。そこで、幽斉は思案の末、自分から宮津の館に出向いて、婿の義俊の招待をすることにした。 造営中の宮津城はまだ完成していなかった。細川の重臣たちは交替で宮津の館に出張し、与謝郡一帯を支配し、奥三郡の一色の動静を監視していた。 宮津の館の位置について「丹後宮津誌」には、猪岡山の麓、辻町附近であったといい、また一説によると後に鶴賀城三の丸が建てられていた場所であったとも伝えられている。しかし、年代や、当時の模様から考え合わせると、やはり辻町附近が正しいようであると述べ、義俊が誘殺されたのも田辺城内ではなく宮津とせざるを得ないといっている。当時、宮津の館の在番は有吉将監であったが、忠興、興元兄弟をはじめ、米田壱岐(いき)守宗堅、松井佐渡守康之らの重臣が一族郎党を引き連れて出張(でば)り誘殺の計画を立てていた。 「幽斉、老衰に及び、余命の程も分りませぬ、婿と舅になったからには、命のある間に親子の対面を致し、この老人を喜ばせていただきたく・・・」幽斉はこういって義俊を案内した。天正10年9月8日(1582)騎士三十六人、雑兵三百余人を従えて宮津に着いた義俊は、雑兵を城外に待たせ、侍どもを広間に残して書院に通された。 まず、忠興と義俊が向かい合い、一色家の家老の日置主殿介(へきとのものすけ)の座は忠興の右側であり後の襖一重隔てて仕手(討手)の士十七人がかくれていた。他の大勢の侍は、義俊を討ち取ると同時に、弓木城に攻めかかるため、玄蕃頭興元、松井佐渡守康之、立行是政らがひきつれて普請場のかげに待機していた。忠興の太刀は、中島甚之允が持って出て脇に置いたが、柄の勝手が悪かったので、米田宗堅が肴を運ぶついでに、わざと袴のすそを触れ、押しいただく拍子に少し鞘走ったのを押し込んで、忠興の手勝手のよいように置きなおした。 いよいよ盃がでた。義俊が何気なく盃を押しいただいた瞬間、忠興は抜打ちに、義俊の肩先から脇腹にかけて切りつけ、返す刀で主殿介に向った。太刀は勢州信長作。三尺八寸余の業物であった。主殿介は驚いてにげ出そうとしたが、中路市之允に討ち取られた。気丈な一色義俊は、脇差を抜こうとしたが、そのままどっと縁側に倒れた。 弓木城に向かう計画については、先づ義俊の内室菊の方を取り戻すことが先決であった。そのため玄蕃興元、松井佐渡守手兵を引きつれて須津村に馬を伏せ、宮津からの合図を待っていた。菊の方は幽斉の娘であり、忠興兄弟にとっては妹である。人質をとられていては、弓木城攻撃の鉾先がにぶるからである。この伏兵は、烽火(のろし)を合図に、弓木城にかけつけ、奥方を取り戻そうとしたが、城兵はこれを拒んで鉄砲を乱射した。奇手は死傷者続出し、退却のやむなく、弓木城を遠巻きに包囲した。「丹州三家物語」はこの時の模様をかの十騎余りの兵と、その仲間の地侍どもは、この烽火をみるが早いか、米田監物に従って弓木に押し寄せ、城内に向って「御内室のお迎えとして米田監物ここまで参ってござる。この上はとやかく申さず、お渡し下され」と大音にて呼ばわった。しかし城内からは一言の返事もない。城主稲富伊賀守は、天下に双ぶ者のない鉄砲の名手で、彼のねらい射つ弾に、寄手はみるみるうちに多数の死者を出した。寄手はやむを得ず野田の橋詰まで退却した。 「御内室様さえお渡し下さるならば、穏便に事すむよう、主人藤孝公の御前をうまく取りなしましょう」と再三交渉を続けている間に、一色の家臣が、菊の方を人質にして、そっと後ろの山から城を抜け出し、但馬の国をさしていった。と伝えている。 これを知った米田監物は、ただちに早馬をもってその後を追い、但馬の国の藤ノ森で追いつき、無事に菊の方を取り戻し宮津の館につれ帰った。供の侍は細川方に降り、あるいは都に走って秀吉の家臣となった。 幽斉や兄たちのもとに帰った菊の方は、夫義俊の最後の様子を詳しく聞き、次のように述懐した。 あの8日の卯の刻(午前6時)妾(わたし)に向って、「今日、はじめて舅の細川殿にお会いするのだが、この一色家と細川家は、先祖の代から親しい間柄で、代々将軍にお仕えして、所々で合戦のある度に、お互いに頼み頼まれて力を合せて来た仲らしく、古い手紙なども保存してあるが、今、たとえ孫子の末となったとはいえ、昔を思うと懐しいよ。そのうえ、また、こうして親子の間柄となったのも深い宿縁というものか、不思議に思えて仕方がない」と、いつもよりやさしく言って、馬鞍なども美しく飾らせて弓木を出ていかれました。 年(天正9年)の夏の5月の頃、妾が一色殿に嫁いで参って以来、こんなに賑やかな供揃いで外出されたことはありませんので、妾も本当にうれしくて、城の窓から見送って居りますと、須津の浜辺を通り、山路にかかられたが、まだ朝霧も晴れないで、段々お姿がかすかになり、とうとう生い繁った松のかげにかくれて、もう供人さえ見えなくなったので、心残りがして、自然に涙がこみあげてくるのをジッと辛抱して、たとえ人には見せなくとも女々しいことであると思ったから、盃の用意をさせ、自分でも悲しみをまぎらせ、女房(側に仕える女)たちも慰めておりましたのに、全く意外な事が起って、お亡くなりになったことは、本当に悲しいことでございます。このような企みがあったことは、妾自身は夢にも存じませんが、義俊殿御最後の時、さぞお恨みになっていたことだろう。」と、菊の方は毎日歎いておいでになりました。(丹州三家物語)菊 の方の悲しみをよそに、細川方の喜びは大きかった。しかし敵とはいえ、義俊は幽斉にとって娘の婿である。彼は家臣に命じて、義俊の遺骸を一色家累代の菩提所である上宮津の大円山盛林寺に送り、ねんごろに葬らせた。名「一色賞雲源忠大禅門」 弓木城主稲富伊賀守の鉄砲は天下無双で八町以内(約1440m)であれば、百発百中の名手であった。稲富は二十五才の時、橋立明神に7日間の断食祈願を行い「盲(めくら)打ち」を会得したという。すなわち、目かくしをしても的を射ることができるという達人であった。常に一両から八匁までの弾丸を用い、闇の中でも狐や狼の鳴き声を聞いただけでも必ず射止めたと伝えられている。義俊の誘殺と同時に、弓木城を乗っ取ろうと考えた細川方の計画が不成功に終ったのは、この稲富伊賀守の鉄砲に妨げられ、菊の方を取り返すことができなかったのが一つの原因であった。 細川方の作戦はここで一変した。ひとまづ全軍を田辺城に引きあげ、興元、松井、有吉の三手の水軍を組織して、海上から経ヶ岬を回って、北円の海岸から上陸し、弓木の城背後にある奥丹三郡の堅城を攻め、弓木城の孤立化を計った。 弓木城には、義俊の叔父吉原越前守一色義清が主従百二十騎をつれて入城した。 大江、杉山、一色宗左衛門の三人は甥義俊の悲壮な最後を悔み歎く義清をなぐさめ、「義俊殿の最後は御覚悟の上のことです。この上はあなたのお考えを承りとうございます」と、いった。義清は、「家運つきて城を枕に死ぬることは、いささかも心残りとは思わない。建武3年、我が先祖の尊氏公が将軍の職につかれてから、義昭公に至るまで十五代、一色の家は八代、その間242年、将軍の一族の列に加えられ、丹後の守護を賜った御恩は、我が一色一族、悉く生命を義昭公に捧げるともどうして惜しかろう。しかし、今天下は、平民である織田信長に奪われている。我々足利源氏の一統は、信長の家来となる理由はない。それを世間の者が、足利の残党などとけがらわしい名で呼ぶのが口惜しいのだ。 しかし、細川が丹後の守護に任命されてから5年間、一歩も国をゆずらず、明智、細川の連合軍と戦って勝つこと二十三度、そのため和睦もし、縁者ともなって、両家が並んで丹後を支配すること2年・・・。これが足利家に対するせめてもの御恩返し・・・。この気持ちは末代まで人々が汲み取ってくれるであろう。籠城の面々、どうかこの義清と生死を共にし、潔く討死してもらいたい」と、いった。これをきいた城内の将兵は、あっぱれ九代の大将であると感じ合った。 義清は名を一色五郎義清と改め、義定の形見の家宝の鎧兜をまとって戦場に出ることにした。 2月25日(一説、9月13日)大江、杉山両将は、義清の命により、早朝から弓木城にはせ集る軍士を検閲し、その名を到着順に記録させた。石川文吾秀澄が書き上げた一色党および地侍の数は八千五百余人に達した。 |
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