青木民部と一色党の関係
  
◎天正の陣(秀吉の四国征伐)以後の伊予国支配
 天正の陣(秀吉の四国征伐)以後の周敷村の領主について調べてみると、天正十三年八月、伊予国は小早川隆景の支配となったが、その支配は約2年で終わった。隆景の後、伊予国の領主は秀吉子飼いの家来が来た。東予地方へは東予五郡十一万千二百石を領して天正十五年九月五日福島正則が来て天正十六年居城を国分城に移し拝志村に城下町を営なんだ。此の時当地周敷村は福島正則の領地にならず、天正十五年九月周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は青木民部の所領となり、民部の養子、青木駿河守正重がきて代官として当地を支配した以後青木氏の当地支配は民部の養子重兼が徳川家光の時代、寛永四年蒲生忠知が松山藩二十万国になり青木氏は約四十年間支配した周布郡四千3百石を離れ伊予の飛び領地は摂津国豊島、川辺二郡の内へ移され麻田藩としてまとまり伊予の分は蒲生忠知松山藩領になった。

青木民部
  青木氏は寛政重修緒家譜では丹治氏を名のり、鎌倉時代の武蔵七党の丹党で本拠地武蔵国青木(現、埼玉県飯能市)民部の父青木加賀衛門重直は美濃国に左遷され配所に住んでいたが、土岐氏に仕え後、斉藤道三に属し、道三没落後、織田信長に従い木下藤吉郎秀吉に仕える。文禄三年摂津国豊島郡に領地を得て刑部卿法印に叙せられた。
  青木民部一重は天文二十年美濃国生まれ、はじめ今川氏真に仕え武功をあげ武勇の士として知られる。今川氏真没落後は徳川家康に仕え元亀元年(1570)姉川合戦で朝倉方の猛将真柄十郎左衛門を討ち取り有名をあげる。
武田信玄が三河に攻め入った三方ヶ原の戦いでは丹羽長秀に属し、長秀没後は豊臣秀吉に仕える。秀吉の旗本の黄母衣衆で使番を勤める。天正十三年摂津国豊島郡で領地をあたえられ、備中国及び伊予国でも領地が加給された。
  天正十六年四月十四日、正親町天皇が聚楽第へ行幸された時、秀吉の家来衆にも叙位があり、青木一重は従五位下民部少輔に叙せられ以後、青木民部と呼ばれた。

◎青木民部と大阪の役
青木民部は秀吉の死没後も大阪城で秀頼を守り慶長十九年大阪城冬の陣では豊臣方の武将として大阪城を守備し戦っている。伊予の領地からも代官一色重政の率いる一色党が参戦している。
  徳川方と和議が成立した元和元年正月、青木民部は和議謝礼使として駿河に下向駿府城で家康に謁見する。家康は民部を徳川に従わせたく思っていたので、板倉伊賀守勝重に命じて、京都に止め置き、近侍として家康に仕えている民部の弟青木次郎右衛門可直を民部が大阪に帰れば誅すと言わせて民部を大阪城に帰れぬようにした民部は夏の陣には参戦出来ず大阪城豊臣は亡んだ。
  民部の養子駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地からも代官一色重次の長男重政がひきいる一色党二百人が参戦し重政、重光は尼崎で戦死した。民部は剃髪して京都にとどまる。
  家康は民部を二条城に召し出し父重直の領地を合わせて、摂津国豊島、兎原二郡備中国厚後月、小田、残口、三郡及び伊予国周布郡で合計一万二千石を与えた。
  周布郡の領地は大阪合戦中もその後も家康は手を付けず民部が支配していたのか、駿河守正重が大阪戦後浪人して一色重政の弟、重明の家に逗留していたと言う、重明は兄重政が戦死したので民部の代官として周布郡の領地を支配していた。
  

◎青木民部の伊予の飛び領地
  青木氏の伊予国周布郡の三津屋、北条、周敷、石田の支配は徳川時代となっても継続していて元和五年養子の青木重兼に領地を継がしている。重兼は民部の弟次郎左衛門可直の子である。
  寛永四年、蒲生忠知が松山藩二十万石に封ぜられた時、青木重兼の伊予の領地は摂津国へ変え地された。
  青木氏の伊予国周敷村支配は四十年間で終わったが代官として支配していた一色氏は庄屋となって、一柳、紀州分家西条藩松平と領主は変わっても庄屋職を明治維新まで継続している。