白馬の武将 
    伊予 天正の陣の頃
◎白馬の地蔵と一色但馬守供養塔

白馬の地蔵
西条市飯岡池ノ内


 西条市飯岡の池之内中村に天皇木という”ホノギ”があり、地名の通り牛頭天皇(素鵞神社)を祀っていたが、鉄道が社地の中と通っていたため現在地に還座した。

 そのためか、祠は社地入口の反対側南向きに建っている。

 方形の石積みの上に、中央が牛頭天皇、向かって左側に荒神・祇園神社があり、右側に但馬の守が祀られ、少し放れて自然石の社日宮がある。

 また、同じ敷地の入口に安永5年(1776)7月24日、と刻字のある地蔵さんが西向きに祀られ、その裏側に数子の石(加工されたものもある)を墓状に積み重ねたもの等が散在している。

中央に牛頭(こず)天皇
左側に祇園神社

右側に荒神社
丹但馬の供養塔
伊予中山城の一色但馬守の墓とも言われる

社日宮(しゃげつぐう)
土の神様

<白馬の地蔵>と並んで<丹但馬守>の供養塔があります。

ここから140メートル程西に、南北に通ずる細い道があり天正の陣で白馬に乗った武士がここで討死したそうです。

 その後、ここを白馬に乗った人が通ると落馬して怪我人が出るので村人達は地蔵さんを西向きに建立供養したところ災害はなくなり、村人たちはこの地蔵さんを白馬の地蔵とよぶようになったと言い伝えがあります。

その後は災難はなくなったので村人たちはこの地蔵さんを白馬の地蔵とよぶようになったと言い伝えがあります。

白馬の武将は丹但馬守ではなく一色但馬守という説があります、しかしこの地は一色但馬守の屋敷跡で、墓状に積まれた石(供養塔?)は一色但馬守の墓との説の方が有力なような気がします。

昔の武将は名前を幾つも持っていたので、一色但馬守と同一人物ではないかと・・・

その他の言い伝えでは安永年間に一色茂左衛門と有力者がおり、その人が一色但馬守の供養のため、お地蔵さんを祀ったとする説もありますが古文書、文献その他証明できるものは残って居ません。



伊予 中山城  新居郡・島山郷・大町組(西條誌 下島山村の項)参考

 「伊予の古城跡」 中山城の項に
 
「伊予温故録」下島山村にあり、一色但馬守居る。

江戸時代に書かれた西條誌 天保七年(1836)西條藩編纂地誌に中山城について下記のように記されています。

 ・中山一カ所、これは、牛の角あり(つの)と云処にあり。城主を一色但馬守といいしとある。

 ・天神山一カ所、船屋村境にあり、平三段に分かれ、上の平八畝程、又その次の平も五畝程、又その次の平も五畝程あり、この三段の外にも、少々の平地あり。この城主を石川美濃守といいしという、下に矢倉下と称する地あり。少し南に、的場が谷と名のる処あり、馬責場と呼ぶものあり。

 以上三城跡の内にて、この天神山を、少し大いなりとすれ共、畢竟戦国の時のいわゆる砦というものの如くにして、城地と称するにはたらざるを覚ゆ。 然れども、官府に蔵ある新居郡絵図の内にも、当村と船屋村の間に於いて、古城と識せる小丘あり、この天神山を指す、因てその大略をここにだす。

※この時代、丹後から新居郡へ来て石川氏の食客になった一色右馬三郎重之と伊予中山城の一色但馬守との関係はどうなんでしょうか?
同時期に一色家系図には右馬三郎の三男(名前は不明)を新居郡萩生村に留め置くと記録が残っているので彼こそ天正の陣を石川方で戦った中山城主一色但馬守かもしれません。

なぜなら、
①一色但馬守の中山城は近くにありいつも通っていた道筋である。


②丹後国から河野家をたよって来た一色党は水軍と関係が深く中山城があった牛の角は昔は港だあった。

③一色但馬守は(石川氏の家来(長臣)である丹民部守清光)の舎弟となり丹但馬守と名乗ったとしても不思議ではない。

④今でもこの近辺(飯岡)辺りにはご子孫と思われる一色姓の方が多く住んでいる。

丹後国宮津城主一色左京太夫ノ舎弟ナリ后ニ一色宇右門云イ天正八年一色家没落シテ后伊予国新居郡萩生村ニ浪人シ其后桑村郡旦シ上村居住其后天正の末年周布郡三津屋村ニ居住ス)と系図に記録がある。

西條誌、黒瀬山の項に以下の文章がある、この項をどう読みとくか?今後の課題としたい。
     
  
   庄屋 定蔵
     丹 民部の末孫なるよし、民部の墓は、西泉村にあり。
     この人、高峠石川氏の長臣にて、天正の乱に、西泉村にて討死すという。
     その舎弟但馬といえるを、定蔵が家にて、小祠を建てこれを祭る。
     所持の品、古鞍・槍・鞍は民部よりつたわれりという。
     元禄年中、南天樹、長さ2間半あるを献ず。
     これによって銀銭十文下し置かれる。

 
 
天正8年(1580)後守護一色義員は籠城の責任をとって丹後中山城で切腹をさせられました。(丹後守護職はこれで終わり)

 同年丹後中山城落城により、義員の三男 予州祖一色右馬三郎範之
(後に青木一重の諱を拝領し重之と云う)は母方の外祖父河野通泰(村上通泰)の縁をたより伊予の新居郡に再起をかけ渡りました。

 ※元々この近辺には中山という地名等はなく中山城と名付けた理由は上記の通り地形や風景がよく似ていたのと丹後最後の居城であり父義員が自刃し兄弟や丹後一色党が散り々になった思い入れの深い名称を使ったではないでしょうか?