白馬の武将 丹但馬守
    伊予 天正の陣の頃
◎白馬の地蔵と一色但馬守供養塔


西条市飯岡の池之内部落に

<白馬の地蔵>と並んで<丹但馬守>の供養塔があります。

天正の陣で白馬に乗った武士がここで討死したそうです。

その為かこの近辺では落馬や怪我をする人が続出したらしく


村人達が相談して白馬の武将の怒りを鎮める為に地蔵を建て供養したところ

その後は災難はなくなったそうです。

白馬の武士こそ丹但馬守だと思われます。

丹但馬守は、同じく天正の陣で芸州の士・吹上六郎というものと戦い

刺し違えて死んだ高峠石川の長臣で丹民部清光の舎弟と言い伝えられています。。

江戸時代に書かれた西條誌、には天正の乱に、西泉村にて討死すという。

その舎弟但馬といえるを、定蔵が家にて小祠を建てこれを祭る。

所持の品、古鞍・槍・鞍は民部より伝われりというと記録されています。。




白馬の地蔵と丹但馬守供養等は西条市飯岡の池之内部落にあります。





伊予 中山城  新居郡・島山郷・大町組(注釈西條誌 下島山村の項)参考
江戸時代に書かれた西條誌 天保七年(1836)西條藩編纂地誌に中山城について下記のように記されています。
 ・城跡と称する地三カ所あり、笹山一カ所、これは、西福寺山の内にて、今は山上に地蔵庵あり。城主の姓名詳ならず。
 ・中山一カ所、これは、牛の角あり(つの)という所にあり。城主を一色但馬守といいしという、右二城跡とも、皆狭小にして、録するに足らず。
 ・天神山一カ所、船屋村境にあり、平三段に分かれ、上の平八畝程、又その次の平も五畝程、又その次の平も五畝程あり、この三段の外にも、少々の平地あり。この城主を石川美濃守といいしという、下に矢倉下と称する地あり。少し南に、的場が谷と名のる処あり、馬責場と呼ぶものあり。
以上三城跡の内にて、この天神山を、少し大いなりとすれ共、畢竟戦国の時のいわゆる砦というものの如くにして、城地と称するにはたらざるを覚ゆ。 然れども、官府に蔵ある新居郡絵図の内にも、当村と船屋村の間に於いて、古城と識せる小丘あり、この天神山を指す、因てその大略をここにだす。
※この時代、丹後から新居郡へ来て石川氏の食客になった一色右馬三郎重之と中山城主の一色但馬守との関係はどうなんでしょうか?ご存知の方がいましたらお知らせ下さい。

天正の陣(天正十三年七月二日~十八日迄)伊予防衛軍布陣

戦国時代の旗頭と地侍

宇摩・新居郡旗頭 高峠城主 石川備中守道清
新居郡
金子城主 金子備後守元宅・同対馬守下春 古土居城主 高橋美濃守
岡崎城主 藤田大隈守、同山城守 生子山城主 松木三河守安村
麓城主 一本塩見三郎兵衛 黒岩城主 越智信濃守
小野城主 小野上野介 新須賀城主 岡田喜三通孝
真鍋城主 真鍋近江守 黒瀬砦 黒瀬飛弾守通信
奥の城主 光増飛弾守 大保木城主 寺川丹後守通保
中山城主 一色但馬守 天神山城主 石川美濃守
西後城主 伊藤近江守祐晴 八ノ川城主 今井飛弾正左衛門
野津子城主 工藤兵部光信 明日城主 明日丹後守
八堂山城主 石川越前守 搔上助手 難波江内蔵助祐勝
狭間城主 徳永修理亮 江渕城主 塩出紀伊守忠重

宇摩郡
澁柿城主 薦田治郎進義清 中尾山城主 薦田備中守義定、同四郎兵衛成道
松尾城主 真鍋大炊介通近、同左衛門佐 轟城主 大西備中守元武
仏殿城主 妻鳥妥女正 横尾城主 横尾山城守国信
野田城主 野田右京亮透之

周布郡
旗頭 剣山城主 黒川美濃守通博
桑村郡 
 旗頭 鷺森城主 桑原三郎兵衛泰国
象ヶ森城主 櫛部肥後守兼久