一色左衛門尉教重公の供養碑は長年に渡る歳月をへて殆ど村民に忘れ去られていた。
嘉永三年(1850)に至り山西村の庄屋一色義十郎が大可賀新田を開発することになる。

この計画に刺激された斉院の村人は「この斉院こそ開拓の先覚の地」との意図の下にこの碑に先人先覚者の供養と改めて行った。
この供養の音頭は斉院の里正である宮崎市郎兵衛であり良助並に伊ヱ門達であり松山に住む縁の者すなわち居合の人々によって挙行されたわけである。
依ってこの供養碑は二面に渡って供養が行われた。

第一回目は豊前の住人長七が行った天和三年(1683)
第二回目は斉院村里正宮崎市郎兵衛が行った嘉永三年(1850)

上記の次第により表面と側面側の字が異なっている。