◎盛林寺とは
  
一色氏重臣五家の一つである上宮津城主小倉播磨守の菩提寺として天正五年(1577)宮津大久保谷に創建された。
 小倉氏は天正六年十月、細川藤孝が普甲山より宮津谷へ攻め入った際、加悦の石川氏らと共にこれに抵抗し敗れて滅んだ。

 この後天正七年八月には一色義員は田辺山城に籠城し、同年十月に丹後を平定した、藤孝は信長より丹後一国を与えられ天正八年八月普甲山を越え丹後の大名として宮津八幡山へ入り宮津に築城した、盛林寺はその時より細川氏の庇護を受けた。

 盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは、慶長八年(1603)で、場所は現在地の南に接する「寺谷」であった。
 当時、細川氏は九州中津(大分県)に移った後であった。 更に現在地に移ったのは貞享二年(1685)である。
 寺地は山懐に包まれた景勝の地で、この地方の歴史を語る風物や文化財に恵まれている。

 ◆伊予西条誌に伝えられている
 先祖宮内少輔公深というもの、三河国吉良庄一色村より出す子孫その村名をとりて氏とし、移って丹後国 「宮津の城」にいる右馬三郎重之というもの、天正年中、宮津の城を落ちて当国に来たり、高外木(たかとき)城の石川氏の客たり、後に周敷郡周敷村三谷の城主荒井藤四郎を討ちてその地を領すという。」
 
 西条誌が伝える「宮津の城」とは上宮津城ことではなかろうか?
 「一色軍記」から・・・依りて天正六年寅十一月に長岡(細川)藤孝父子、丹後の國上宮津八幡山に陣をとり一色に随ふ足利の残徒と相戦ふ。  大将分には小倉播磨守、野村将監、川島備前守、井上佐渡守、小倉筑前守、日置禅正同小次郎、千賀常陸守同山城守手を替いたく相戦う。云い。

  これに対し「細川家作丹後御旧領図説」では春秋2回とし、前略・・同じき九月藤孝君忠興御父子丹後に攻め入り給ふ事2度かかる所大坂本願寺一揆附城の押さえを信長公に命ぜられるるによって丹後をやめて摂州に至り給ふ(後略・・・またこの秋の戦いには、猪の岡山に拠った細川軍は背後を制する上宮津城を攻め、柿部落の水の手を絶ったゝめ、窮した城兵は大将小倉播磨守以下堅城を出て敵の本陣八幡山に切り込み相果てたと云う。

 いずれにせよ宮津近辺での戦は信長の意を受けた細川勢にとって丹後凋落の前哨戦として大きい成果であったであろう。
 この後生き残った丹後一色勢は大将一色義員(義道)の本城であるた田辺城に籠城した。反信長勢である。

 
将軍義昭は義員らの田辺城籠城軍に対してこの功を賞している。(義員は足利義昭の上洛に呼応してその通路を確保していた)

 
細川藤孝は一色勢を建部山に攻め、建部山の合戦に敗れた一色義員(義道)は逃れて中山城で自刃したとも当時大雲川と呼んだ由良川で討死したとも伝えられ一九〇年間続いた丹後守護一色氏はここで終ったが、嫡男一色五郎義定が織田信長の二万石の大名として迎えられたが天正十年本能寺の変で光秀に加担したとして舅の細川忠興に謀殺された。

 足利義昭から一色義員への褒状
●足利義昭感状写   

「田辺城敵調略。 既至壁際 いえども 取詰候。 城中者共依心懸無異議由。 無比動尤神妙候。 於其表一着可恩賞候。  猶近日可差下使者可申聞也」
 
    
     
天正七年八月十六日  義昭 (花押影)