一色氏の祖
◆一色詮範(あきのり)

 
暦応3年(1340)の頃の生まれ。 範光の長男

 四郎・左京大夫・宮内少輔・式部少輔・右馬頭・兵部少輔・評定衆・侍所頭人従4位下・入道信将

 父の後を継いで若狭・三河の守護となった。家督継承前の永徳元年(1381)には侍所頭人・山城守護を兼任し、将軍義詮(よしあき)の諱を拝受している。

 嘉慶2年(1388)父が卒した折に山名に丹後を奪われて、若狭へ退いた、丹後の占拠は5年間であった。

 明徳2年(1391)には尾張知多郡の守護に任じられる。

 この頃将軍義満は「六分一殿
と呼ばれていた山名勢力を警戒して山名の分裂を図り、同族相討たせてその勢力を削った。
 明徳2年(1391)10月山名満幸が出雲横田庄(島根県仁多郡横田町)の仙洞御領(後円融院領)を横領したとして、満幸とその叔父氏清・義理らを挑発して蜂起させた。
 満幸は氏清らに呼応して蜂起、丹波より京へ攻め上がったが、待ち構えていた一色詮範・満範父子らと内野で合戦したが敗れ、氏清は討死し満幸は両国丹後へ逃れたが、国人らの叛にあって捕らえられ京へ護送されて誅殺しられた。
 これを
「明徳の乱」といい、義満の懸案であった南北朝が統一された。
 
 
※山名氏は丹後・丹波・因幡・美作・出雲・隠岐・備後・但馬・和泉・紀伊等11国の守護を兼ねていたが「明徳の乱」以後は僅かに但馬とその近辺を領するだけとなった。
 

 明徳3年(1392)正月4日恩賞が行われ、詮範には旧領三河・若狭に加えて若狭の税所(国の租税を司る役所)今富庄55町歩を与えられた。※今富庄は若狭遠敷郡に敬在する荘園で幕府直轄地のこと)

 
子の満範には丹後一国が与えられた。

 ●応永13年(1406)6月7日卒する。 67才