一色直氏 (いっしき なおうじ)
   
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
官位 宮内少輔、右京権大夫、右京大夫
幕府 室町幕府九州探題
氏族 一色氏
父母 父:一色範氏
兄弟 一色直氏一色範光
一色氏兼

範氏の子。宮内少輔、右京大夫、宮内大輔。貞和2年(1346年)に足利尊氏の命で九州に入り、父範氏とともに九州の統治にあたる。このときに範氏から九州探題職を譲られたとされるが、範氏も探題資格を持ち続けている。実質的に父子協同で職務にあたった。肥前、筑前、肥後、日向、筑後の守護も兼任している。
尊氏と弟直義が争う観応の擾乱では終始尊氏方につき、直義方の長門探題足利直冬(尊氏の弟)やそれと結んだ少弐頼尚らとの間で合戦を繰り返す。合戦は不利に展開したが、中央での尊氏・直義和睦によって文和元年(1352年)直冬を九州から駆逐。しかし、その後懐良親王を擁して菊池氏や少弐氏が宮方として立ち、これと戦うことになるが、文和2(1353)の筑前針摺原の合戦で敗れ、在地勢力の支持を失って、2年後の文和4年に父範氏とともに長門に逃れ、次いで延文3(1358)上洛した。

南北朝時代の北部九州
 

北家 登巳様hp 北九州あれこれより借用

1336(延元元)年、後醍醐天皇が比叡山に逃れたとき、懐良(かねなが)親王を征西大将軍に任じ、九州から軍勢を率いて東上せよと、命じました。親王一行は伊予の忽那(くつな)諸島に到着します。忽那氏は瀬戸内海の海賊の雄でありました。惣領は北朝方でしたが、弟は南朝方でした。
1341(興国2)年、一行は忽那諸島から九州薩摩に到着し、守護島津氏に対抗する谷山氏の居城に入ります。大宰府で九州での拠点を築き、九州の武士を率いて上洛することが目的でした。大宰府進攻に親王らが最も期待したのは肥後の菊池氏でした。
菊池氏は鎮西探題北条英時を攻撃したとき以来南朝方でした。この折、菊池武時が戦死し、武重が継ぎました。武重は強力な武士団を形成しました。その後、武光が惣領に選ばれました。
1347(正平2)年、大規模な陽動作戦を展開している間に、親王一行は谷山から海路を八代を経て、肥後宇土に着きます。
1347(正平2)年、肥後菊池郡隈府(わいふ)に、懐良親王一行を、菊池武光は迎えました。九州は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏らに代表される豪族と、九州探題一色氏、それに懐良親王の宮方が鼎立しました。

 

1349(貞和5)年、足利直冬が九州に下向すると、博多の一色氏と対立していた少弐頼尚(しょうによりひさ)は直冬を大宰府に迎え入れました。足利直義が高師直を滅ぼし、直冬を九州探題に任命すると、直冬・少弐の勢力が伸び、一色氏は一時期、宮方に付きました。しかし、直義の死後、直冬の勢力は衰え、直冬は長門に転進します。一色氏は尊氏方に戻り、少弐氏が宮方に移って行きました。
1353(正平8)年、少弐氏を応援した菊池武光と一色範氏が針摺原(はりすりはら、福岡県筑紫野市)で戦い、一色氏はこの合戦で敗れました。

北九州では、伊川・柳・大積系の門司氏は宮方で、猿喰(さるはみ)城を本拠地にしていました。片野・楠原・吉志系の門司氏は幕府方として門司城を本拠地にしていました。吉志系の門司親胤(ちかたね)は、長門の厚東武直(ことうたけなお)と海上で合戦したり、門司関と赤間関間や小倉津沖で敵方と戦っています。
宮方は大宰府に入っていました。1356(正平11)年、菊池軍は豊前から筑前にかけて遠征しています。門司親胤は惣領片野系の親資(ちかすけ)とともに、足立や片野で菊池軍と戦っています。しかし、戦いに敗れ、一色範氏の子の直氏とともに長門に逃げています。
麻生氏は山鹿氏の所領を与えられています。それは山鹿氏が宮方に付いたためと思われます。この後、山鹿氏本流は麻生氏に取って代わられます。菊池軍の遠征に対し抗戦しますが、一色直氏とともに長門に逃げています。
北九州の長野氏や貫氏は宮方に付いていました。
この時点で一色範氏・直氏の九州での活動は終わり、京都に戻りました