一色範氏 (いっしき のりうじ)
正安2年(1300)( 1369年)応安2/正平24218没   

公深の子。宮内少輔。早くから足利尊氏に仕え、尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻て破れ、九州に逃げた際にもそれに従う。その後尊氏の命により九州に留まり、九州探題となる。
貞和2年(1346年)に探題職を子の直氏に譲り出家して道猷と号する。しかし探題資格は持ち続け文書も発給している。範氏は九州統治の役割を与えられながら権限を明確化されず、そのために統治は困難を極め、その状態で九州各地で南朝方と戦わなければならなかった。
文和2年(1353年)の筑前針摺原の合戦で南朝方に敗北し、以後在地勢力の支持を失い、2年後の文和4年に父子は長門に逃れ、次いで延文3年(1358年)上洛した。その後の消息は明らかでないが(隠居?)、「寛政重修諸家譜」では応安2年に死去したとされる。


南北朝時代の北部九州
 

北家 登巳hp 北九州あれこれより借用

1336(延元元)年、後醍醐天皇が比叡山に逃れたとき、懐良(かねなが)親王を征西大将軍に任じ、九州から軍勢を率いて東上せよと、命じました。親王一行は伊予の忽那(くつな)諸島に到着します。忽那氏は瀬戸内海の海賊の雄でありました。惣領は北朝方でしたが、弟は南朝方でした。
1341(興国2)年、一行は忽那諸島から九州薩摩に到着し、守護島津氏に対抗する谷山氏の居城に入ります。大宰府で九州での拠点を築き、九州の武士を率いて上洛することが目的でした。大宰府進攻に親王らが最も期待したのは肥後の菊池氏でした。
菊池氏は鎮西探題北条英時を攻撃したとき以来南朝方でした。この折、菊池武時が戦死し、武重が継ぎました。武重は強力な武士団を形成しました。その後、武光が惣領に選ばれました。
1347(正平2)年、大規模な陽動作戦を展開している間に、親王一行は谷山から海路を八代を経て、肥後宇土に着きます。
1347(正平2)年、肥後菊池郡隈府(わいふ)に、懐良親王一行を、菊池武光は迎えました。九州は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏らに代表される豪族と、九州探題一色氏、それに懐良親王の宮方が鼎立しました。

 

1349(貞和5)年、足利直冬が九州に下向すると、博多の一色氏と対立していた少弐頼尚(しょうによりひさ)は直冬を大宰府に迎え入れました。足利直義が高師直を滅ぼし、直冬を九州探題に任命すると、直冬・少弐の勢力が伸び、一色氏は一時期、宮方に付きました。しかし、直義の死後、直冬の勢力は衰え、直冬は長門に転進します。一色氏は尊氏方に戻り、少弐氏が宮方に移って行きました。
1353(正平8)年、少弐氏を応援した菊池武光と一色範氏が針摺原(はりすりはら、福岡県筑紫野市)で戦い、一色氏はこの合戦で敗れました。

北九州では、伊川・柳・大積系の門司氏は宮方で、猿喰(さるはみ)城を本拠地にしていました。片野・楠原・吉志系の門司氏は幕府方として門司城を本拠地にしていました。吉志系の門司親胤(ちかたね)は、長門の厚東武直(ことうたけなお)と海上で合戦したり、門司関と赤間関間や小倉津沖で敵方と戦っています。
宮方は大宰府に入っていました。1356(正平11)年、菊池軍は豊前から筑前にかけて遠征しています。門司親胤は惣領片野系の親資(ちかすけ)とともに、足立や片野で菊池軍と戦っています。しかし、戦いに敗れ、一色範氏の子の直氏とともに長門に逃げています。
麻生氏は山鹿氏の所領を与えられています。それは山鹿氏が宮方に付いたためと思われます。この後、山鹿氏本流は麻生氏に取って代わられます。菊池軍の遠征に対し抗戦しますが、一色直氏とともに長門に逃げています。
北九州の長野氏や貫氏は宮方に付いていました。
この時点で一色範氏・直氏の九州での活動は終わり、京都に戻りました