1336(延元元)年、後醍醐天皇が比叡山に逃れたとき、懐良(かねなが)親王を征西大将軍に任じ、九州から軍勢を率いて東上せよと、命じました。親王一行は伊予の忽那(くつな)諸島に到着します。忽那氏は瀬戸内海の海賊の雄でありました。惣領は北朝方でしたが、弟は南朝方でした。
1341(興国2)年、一行は忽那諸島から九州薩摩に到着し、守護島津氏に対抗する谷山氏の居城に入ります。大宰府で九州での拠点を築き、九州の武士を率いて上洛することが目的でした。大宰府進攻に親王らが最も期待したのは肥後の菊池氏でした。
菊池氏は鎮西探題北条英時を攻撃したとき以来南朝方でした。この折、菊池武時が戦死し、武重が継ぎました。武重は強力な武士団を形成しました。その後、武光が惣領に選ばれました。
1347(正平2)年、大規模な陽動作戦を展開している間に、親王一行は谷山から海路を八代を経て、肥後宇土に着きます。
1347(正平2)年、肥後菊池郡隈府(わいふ)に、懐良親王一行を、菊池武光は迎えました。九州は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏らに代表される豪族と、九州探題一色氏、それに懐良親王の宮方が鼎立しました。
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