丹後守護
◆六代 義秀(よしひで)

 文明2年(1470)生まれ。 義直の二男・義春の弟。

 初め弟の季岳と共に南禅寺に出家して周儀従者(法会や儀式を取り仕切る役)の任にあった。
 
 義春は急死したので急遽還俗して修理大夫・左京大夫・五郎・丹後・北伊勢守護を拝命した。。
 
 
長享元年(1487)9月将軍義尚は六角高頼征討のため近江へ出陣していた。義直は自らは出陣せず義秀を近江坂本へ出陣させて義尚に対面させた。 弟の義遠と一色吉原氏を補佐として付けた。この時正式に守護に任命された。
 
延徳元年(1489)3月義尚が近江の陣中で卒したので、4月足利義視(ヨシミ)と義材(ヨシキ)親子が美濃国より上京してきて翌2年義視は出家して義材が将軍になった。
 
 延徳3年(1491)義視が卒した。かねてから義視親子と対立していた丹後国丹波郷の地頭結城正広は同年3月義材に京都館をやかれて出奔し、跡地は一色兵部少輔正具が領知した。
 
 この頃丹後では義春舎弟と甥の義清とが跡目をめぐって国内が分裂していた。
 
 明応2年(1493)正月かねてから足利義澄党であった丹後の伊賀次郎左衛門が叛したため、父義直が急遽丹後へ下ってこれを鎮圧した。
 
 伊賀氏は熊野郡と竹野郡の奉行を兼任する有力な国衆で一色の重臣でもあった。彼は熱烈な「義澄」党であって、「常に「義材」党で守護義秀に反抗していた。 

 義秀のスポンサーである加悦奉行石川氏とも犬猿の中であった。
 
 義秀には加悦の石川直清がついて「義稙」の擁立を図り、一方守護代延永や伊賀は「義澄」党に組みし、丹後守護に義秀の甥になる人物を立てようとして紛糾した。
 
 将軍家では跡目を争いが起き足利義政と細川政元は「義澄」をおして、義政の夫人日野富子は「義稙」を押して中央の葛藤が深刻になってきた。
 
 明応7年(1498)義稙は越前へ移り、守護朝倉貞景を頼って9月一乗谷の館に入り、上洛の機会を窺っていいた。
 
 義秀は「義稙」の上洛を助けてこれを迎えようとしたが細川政元が「義稙」上洛を阻止した。
 
 伊賀氏は政元に加担して兵を挙げ義秀を攻めたので晋甲山へ退いて防いだか、破れて切腹した。
 
 義秀に組した石川直清は所領丹波郡善応寺は退いたが破れて切腹した。
 
 明応7年5月28日一色義秀 於普甲山ノ山中御自害。 御内衆13人討死。