丹後守護
 ◆二代 義貫(よしつら)

 満範長男・応永7年(1400)生まれ。 応永16年(1409)父満範の死去によって家督を相続する。

 
 ※子は男子が7人あって判明しているのは義直・義遠(予州祖 一色右馬三郎に継る)・政氏(五郎)・正熈(まさひろ)(後の一色藤長に継る)

 応年18年(1411)10月侍所頭人に任じられ、11月には兵部少輔に任じられた。

 応年19年(1412)6月斑始めが行われ、左京大夫に任じられた。

 応永19年(1412)6月13日持信と家督を争うが丹後守護は一貫して義貫であった。

 応年20年(1413)修理大夫に任じられた。25才

 将軍足利義政の新任が篤く、兵部少輔・修理大夫・侍所頭人・相伴衆・小侍別頭等を歴任した。

 丹後・若狭・三河・山城・尾張知多郡・海東郡守護・若狭税所今富庄領主を歴任。

 応永22年(1415)4月 幕命により北畠満雅を討つ。

 応永25年(1418)侍所頭人兼山城守護に再任。

 応永30年(1423)8月 幕府より弟持信・三河守護代氏家らを従えて関東へ出陣し、足利持氏を討つ。

 永享元年(1429)7月 関東の足利持氏の誅伐に反対して、将軍義教(よしのり)の反感をかった。

 永享2年(1430)7月 将軍義教右大将拝賀の供奉(ぐぶ)に一騎打先頭を望んだか、これを畠山持国に奪われて出仕せず、義敦が激怒した。

 永享4年(1432)正月 侍所頭人兼山城国守護となり、所司代に延永益信の子益幸を任じた。同年4月義貫は室町御所の造営費に千五百貫を負担した。

 永享8年(1436)正月 同族伊勢守土岐持頼・武田信栄兄弟らと南党越智樵通一族や箸尾一族の討伐のため大和へ出陣した。
※義貫の室は土岐家の出である。

 永享9年(1437)3月大和橘寺の合戦で、丹後勢は大きな被害を被った。

 永享10年(1438)7月 大和天河(てんが)で挙兵した南党大覚寺義昭(ぎしょう)を多武峰に追討する。
 
※義昭(ぎしょう)は将軍義教の兄にあたるが、義敦とは不和で大覚寺に出家した。その後大和へ出奔して南党越智しらと組み、多武峰で北軍と「合戦したが敗れて九州へ走って討死した。
 同年、越智樵通を討って誅殺した。 樵通は大和高取城主で、早くから南党に属して北軍と戦っていた。

 ●永享12年 将軍の近くに召しつかわれた小弁をいふ女、一色南帝に志ある由を申し将軍実否も糺さず同年5月15日将軍足利義教は武田信栄兄弟に命じて大和の斑(とび)現桜井市外山)において義貫を謀殺し、家臣300人が討死した。41才であった。

 将軍の命により甥の一色範親は京都勘解由小路堀川の義貫邸を攻め、老臣数十人が討死した。
 義貫は前将軍義持には寵愛されていたが、義教からは憎まれていたといわれている。

 
 ※将軍義教は専制政治を確立して権力を固めるために、すざましいばかりの粛清を行ったが赤松満祐の為に41才で殺された。これを嘉吉の乱という。
 
 義貫の欠所三河は細川持常に、丹後は甥の教親に、若狭は武田信栄に分与しられた。※三河は後に持常の甥(養子成之)領となった。
  
※一色氏の若狭守護はこれをもって終わり武田に変わった。
 
一色氏の若狭領知は4代74年で終わった。