中世・戦国時代の周布・桑村郡
   愛媛県西条市

戦国時代の桑村郡・周布郡

◎戦国期の伊予守護河野氏の領国
戦国期の河野氏の領国は中予地方現、松山周辺)の「風早、和気、温泉、久米、浮穴、伊予」、現、今治周辺「越智、野間」そしてこの東予地方北部の「桑村、周布」10郡でした。
現新居浜、西条地方の「
宇摩・新居」両郡も、将軍義満より河野家に安堵されていましたが実際には讃岐の細川家の支配下にありました。
又これらの領地に城砦と居館とを築いて、それぞれの小領域を支配していた国人衆を家臣団とし同族的結合の形をとって、御一門三十二将として編成されました。

河野氏を支える軍政の重職である寄合衆、家老、侍大将、(船大将)、武者奉行にはこの御一門三十二将から選任しました。

◎壬生川に鷺森城を築城
文和元年(1352)伊予国守護河野通盛は、壬生川浦の海岸古子の地先(現旭町辺り)を埋め立てここを聖地と定め、将軍足利尊氏に願って伊勢神宮を勧請した。
この杜の楠の森に白鷺の大群が住みつくようになったので、鷺森とよぶようになった。
鷺森城は応年元年(1394)伊予国守河野通之が道前各郡を鎮撫するために、神領壬生川郷(壬生川・円海寺・明理川・北台)千貫の地を没収して一族である桑原摂津守通興を移住させて築かせました。
壬生川の地は、当時この地方において戦略的に重要な位置であるとともに、交通の要衝としてもこの場所がすぐれていました。

この当時、東予地方は隣国讃岐の細川氏との抗争が続いており宇摩・新居二郡は細川氏の支配下にありました、そしてそれらの地頭らは細川氏の勢力をバックに河野氏を無視してその領界を侵しました。
この鷺森城も隣の北条の地に勢力を張っていた多賀谷衆が早くから河野氏に反して細川氏の勢力に属し双方にとって最前線とする所でした。
このように壬生川の地は河野氏の所領と細川氏の勢力下の接点の位置であり河野氏側にとって拠点を必要としていたのです。


◇鷺森城
   河野氏旗下十八将の一人桑原通興(後に壬生川氏と改名)が築城より天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐(天正の陣)までの 190年間河野家の東予地方における出先機関で、最前線司令部として機能しました。
 ○広さ  東西五十間(90m)  南北六十間(108m)
   いわゆる「浮城」と称するべきもので城は海に臨み燧灘(ひうちなだ)にそそぐ川尻を巧みに生かし、湖沼を掘り開き海水を導いて航路兼ねた水濠をもって守り、家臣を城内に住まわせ有事にそなえるなど配慮が行き届いていました。


◎河野家 州家(総領家)と予州家(庶子)の争い
応仁の乱にあたって、総領家と庶子(予州家)とが対立した。
総領家の通義の孫教通(松山湯築城主)は東軍細川勝元方に味方し、予州家は通之の孫通春は中国の大内氏と共に西軍山名持豊に属し、東西両軍は互いに激しく戦った。

◎細川讃岐守義春、周布・桑村郡に侵入
文明十一年(1479)細川義春侵入し河野家家臣らと鷺森城・獅子鼻城に於い戦い細川軍を破り敗走する。

◎細川讃岐守持隆の伊予進入

天文八年(1539)細川讃岐守持隆は、退勢を挽回しょうとして1万余の軍勢を従え伊予に侵入、周布郡で河野軍と対決した。

ところがこれまで細川方についていた新居、宇摩の衆は突然河野方に味方したので細川方は敗走した。

戦国時代末期 黒川元春領主層に成り上がる

伊予二名集によれば黒川元春は享禄年間(1528〜1531)小松町妙口の剣山城を築きました。
黒川元春は四国を統一した長宗我部元親の祖父兼序の次男で土佐を出奔して小松町石鎚の黒川山城守通矩を頼り、その妹婿に納まり黒川性を名乗ったと伝えられていますが根拠はうすく、千足山村の黒川氏の一族で黒川山城守通矩の妹をめとって領主層に成り上がったと言う説が強いようです。

元春は周布郡・桑村郡に覇を唱えるために山間部の石鎚から平野部への進出の拠点として剣山城を築きました。
そしてまたたく間に周布郡を席捲してやがては新居・宇摩二郡を支配する高外木城の石川氏と対抗する勢力に発展していきました。

◎天文12年(1543)の黒川対馬守道俊と壬生川摂津守通光との戦い

 黒川勢が周布村に陣をしき壬生川摂津守の鷺森城を攻めようと度々攻めてきました。
壬生川方の兵の大半は討ち死に弱体化しましたが大将の摂津守は大曲砦を守って抵抗し一歩も退きませんでしたが黒川方の久米道清と首藤金世の二人に不意打ちに攻撃され大曲橋から円海寺あたりで討ち取られました。又、この戦で家老の鵜木新左衛門も首藤金世の弟金重に討ち取られました。
円海寺築山には、壬生川摂津守と鵜木新左衛門の墓が現在も残っています。


◎細川讃岐守持隆、攻め滅ぼされる
三好義賢は天文二十一年(1552)細川持隆を攻め滅ぼし、阿波、讃岐、淡路の領主となりました。
 
(三好義賢は細川持隆の重臣だった)


◎元亀3年(1572)阿波国の豪族三好長春の伊予攻略
 この年阿波国(徳島)の三好長治は、新居郡高外木城の石川備中守道清(長治の同族長慶の娘婿)と謀り伊予攻略を企て、元亀3年(1572)9月7日、三好の軍勢3,000余騎が阿波を出発して伊予に攻めてきました。
この動きを知った予讃国境(現香川と愛媛の県境)の川之江城主妻鳥(めんどり)采女正友春は、道後湯月城に急報し河野道吉は自ら2,000余騎を統率し追従の御旗本
近寄衆86騎、外様近寄衆167騎合わせて253騎も加え道後湯月城を9月11日戦闘本陣の鷺森城へ向かいました。
 三好勢は、予讃国境、妻鳥采女正友春が守る川之江城を攻略するため軍を二手に分け一手は三角寺より山路を越えて西側より、他の一手は長治3,000余騎率いて姫が浜から海路川之江浦に上陸し、ここに陣を敷き攻めたてましたが、城の守りは堅く寄り手の士気は上がらず三好の軍勢がここにくぎずけとなり、高外木城の石川勢との合流がおくれました。
 これを見た川之江城主友春は、素早く河野本陣鷺の森城に急報、河野通吉はこれを受け、9月13日好機この時とばかり出陣を決意、続く者1,500余、先陣を地元武将、壬生川摂津守道国、
黒川美濃守道博が高外木城の攻略に向かいました。
 この日(午前8時)郡境(桑村郡・新居郡)付近に於いて、石川勢と遭遇し両軍船形八幡山(氷見)を囲んで激戦数刻、死者50名余をだした石川勢は高尾城に後退防戦するも好転せず、守将石川越前守は自決、城は河野通吉の手に落ちました。
 9月13日暮れ、この日の戦況を知った長治は、三好史部に川之江攻めを任せ、その夜主力を率い川之江浦を出航、翌朝新居浜浦に上陸して高外木城支援に向かいました。
 時に9月14日早朝、これら三好勢の行動はあまさず河野道吉に知らされており



◎伊予守護 河野家の衰退

室町幕府や伊予の守護河野家の統制力が衰えてきたこの時代、土豪、国人衆、地侍、地主、小領主とよばれる郷村の農民がいざ合戦というときだけ戦場や城砦に詰め、お互いに争い弱肉強食の結果、旗頭になる者と重臣とに分化していきました。


◎周布郡・桑村郡の旗頭(戦国時代末期)

◇周布郡全域の旗頭は、剣山城主
黒川美濃守通博
◇桑村郡--河野家の東予地方における出先機関で、最前線司令部であった鷺森城にいる
原三郎兵衛泰国と象ヶ森城に桑村衆の旗頭である櫛部肥後守兼久の二人であった。


周布・桑村卿 戦国歴史年表

1352 文和 伊予国守護職河野通盛、壬生川浦の海岸古子の地先を埋め立てここを聖地と定めて、足利尊氏に請い伊勢神宮を歓請した。
この時植えた楠の木に白鷺の大群が住みついたのでこの地を鷺の森とよぶ
1394 応永 河野通之、兄の通義のあとを継ぎ将軍足利義満より伊予国守護職と宗家の知行を安堵される。
(宇摩・新居両郡は以前から河野氏を無視して隣国讃岐の細川氏の実質的な支配が続いている)
伊予国の守護河野道之が神領を没収してその一族である桑原摂津の守道興に鷺の森城を築かせる
1467 応仁 応仁の乱にあたって、河野家の総領家と庶子(予州家)とが対立した。
1479 文明 11 細川義春侵入し河野家家臣らと鷺森城・獅子鼻城に於い戦い細川軍を破り敗走する。
1528 享禄 ・黒川氏のぼっ興(剣山城築く)
・黒川通堯(元春)が
 ○中森城主能瀬越前守を襲う
 ○安井村松尾城主松木豊後守を攻める
 ○高峠城主石川氏と合戦 
1529 享禄 2 以下の諸将、黒川の旗下に属す
(獅子鼻砦主宇野、赤滝、大熊、文台、駒頭、楠窪、臼坂、池田
1530 享禄 3 ・黒川元春、北条地頭修理太夫を討つ。
1531 享禄 4 ・黒川元春が周布三谷城主渡部越中守光綱を討つ。
・黒川通堯(元春)が周布郡の旗頭になる。
・黒川氏が
 ○鷺の森城主壬生川氏と交戦(河野氏調停)
 ○桑村衆櫛部・稲井氏と交戦(調停)
1543 天文 12  ○三内村大熊城を攻めて黒川通俊戦死
 ○高峠城の石川氏と八幡、船山の間で度々交戦、幻城を要害城として石川氏に備える。
1552 天文 21 ・三好義賢は天文二十一年(1552)細川持隆を攻め滅ぼし、阿波、讃岐、淡路の新領主となる。
1572 元亀 3  ○河野通直鷺森城を出陣して阿波の三好軍と戦う、夜襲で大勝し三好軍敗走。
 ○河野通直高峠城を攻める。石川氏前非を悔い河野氏に降る。
 ○剣山城主美濃守通博が河野氏に従って戦い石川氏の高尾城を攻略する。
 ○壬生川庄1千貫の地を鷺森大明宮に寄進。

 ○ 宇摩・新居両軍河野家に返還される。
1573 天正 ◇足利幕府滅ぶ(信長将軍義昭を追う)
1574 天正 2 ・黒川通長が万福寺で壬生川摂津守通国を殺し両氏争う。
通長も榎木城で自殺、河野家和解はかる。
1575 天正 長宗我部氏土佐国を統一
信長と毛利家対陣のとき、河野家の加勢として黒川、櫛部、宇野氏ら福山城を攻める。
・金子元宅桑村郡を攻める。
元宅、桑原三郎兵衛に挑戦、桑原氏は芸州高橋氏らの援軍により勝つ。
・湯月城から鷺森城へ奇騎
1578 天正 6 ・石川備中守勝重、金子元宅の勧めで長宗我部元親に下る。
・石川備中守勝重、長宗我部元親の姫と結婚。

・黒川美濃守通博が玉井又十郎に安井村の所領を与える。
1579 天正 7 ・高峠城主石川備前中守通清、長宗我部と手を結び自らの長子の勝重を土佐に人質として送る。
・金子元宅、象ヶ森城を夜襲
1580 天正 8 金子元宅、広岡村阿曽岡の河野功三郎を攻める。
・金子元宅再び櫛部兼久らを近田ヶ原城に夜襲し兼久自害
1582 天正 10 本能寺の変
・宇摩・新居郡の諸将、長宗我部元親に下る。

・来島氏、河野家に背き秀吉に通じる。
・丹後の城主一色義定の三男、一色右馬三郎重之 丹後国宮津の城落ちて新居郡、高外木城の石川氏の食客となる。
1583 天正 11 秀吉、大阪城を築く
・毛利元親、阿波全土を領有する。
・秀吉が元親に土佐一国は与えるが他は返納を命ずる。
1584
天正 12 ・一色右馬三郎重之が古城に居た北条の地頭 越智勘左衛門を討ってここに住み、此処を「三ツ屋」と称す。
1585 天正 13 ・河野氏、長宗我部元親に和を請う。
・秀吉の四国征伐
・天正の陣・秀吉の四国平定の戦い(天正の陣)勃発7月2日〜18日迄  
・小早川隆景、新居・宇摩郡を攻略。
・小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・小早川隆景、伊予国を支配する。

小早川隆景、河野氏とその旗下を掃討。
・黒川五右衛門尉通貫・剣山城落城により安芸国は退去。


・天正の陣、一色一族(党)中山城(下島山)に陣取る。
・白馬の騎士 
中山城主 一色但馬守天正の陣の戦いでで討死
1586 天正 14 ・小早川隆景、九州に出陣を命ぜられる
・桑村郡から黒川通貫も隆景に促され出陣
1587 天正 15 ・河野道直芸州竹原で病没
・小早川隆景、筑前名島に移封される。
・伊予国の領主は秀吉子飼の家来が来る。東予五郡を領して福島正則がくる。・この時、周敷村は領地にならず青木駿河守一重の飛び領地となる。

9月、周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は秀吉の家来青木民部一重の所領となり、民部の養子、青木駿河守正重が来て当地を支配。一色馬右三郎重之が代官となって周布を支配する。
1590 天正 18
1593 文祿 2 一色右馬三郎重之の子重次、青木民部の代官を勤める
重次、周布三谷の庄屋になる
1595 文祿 4 ・福島正則が転封になり北条は天領となる。
・福島正則の後に池田伊豫守高佑転封、国分城に入る。
・加藤嘉明、淡路から伊豫松前6万6万2千石に転封。

・一色右馬三郎重之が荒井藤四郎氏を攻める。
1610 文祿 5 ・北条は天領から再び関が原の戦いの功により領主となった藤堂高虎の領地になる。
1598 慶長 3 ・秀吉、伏見で病没
池田伊豫守伊豫大洲へ移封、小川土佐守祐忠七万石就封、国分城に入る。
1600 慶長 5 ・加藤嘉明、居城を松前から松山に移す。
・藤堂高虎
宇和島から今治に移封。
(加藤・藤堂の所領区域の協定があった、加藤は久米・伊豫・和気・野間・浮穴五郡内で14万5千石、風早・桑村・周布三郡はその高の半分、越智・新居二郡も取得分があり両家の所領は錯綜状態だった。尚、西條地方は加藤領であった)
1603 慶長 8 徳川家康征夷大将軍になる。
1608 慶長 13 ・北条は再び藤堂高虎が去って天領となる。
1614 慶長 19 ・大阪城冬の陣へ民部の養子駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地から代官一色重次長男重政が率いる一色党200人が参戦。
1615 慶長
元和
20
1
・大阪城の夏陣へ代官一色重次の長男一色重政、大阪方として一色党を率い参戦、重政、重光は尼崎で戦死。
1619 元和 5 ・青木民部守養子の青木重兼が周布郡領地を継ぐ。(重兼は民部の弟次郎左衛門可直の子)
1627 寛永 4 ・周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村は蒲生忠知松山藩領になる。青木民部の養子重兼が摂津国豊島、川辺二郡の内へ移され麻田藩としてまとまり四十年に及んだ当地の支配を終える
・加藤嘉明、合津若松城に移封
(松山在城25年松前を通じて松山にあること33年)
・蒲生忠知、24万石で伊豫に封ぜられる。
(西條地方も蒲生領であったらしい)
1634 寛永 11 ・蒲生忠知、京都で死亡、その家は断絶するこれより、松平出雲守勝隆が幕命で松山にきて国政を執った。
1635 寛永 12 久松定行、松山入城15万石
1637 寛永 13 ・一柳監物直盛、西條に封ぜられる。
・北条は小松藩一柳家の領地になる。


元のページヘ



一色右馬三郎重之へ