一色大庄屋
   三津屋・周布・明理川・壬生川

◎一色庄屋のはじまり
 一色庄屋は、清和源氏の一族で、子孫の丹後国大名一色義定三男、右馬三郎重之が、天正八年丹後国舞鶴建部山城の落城により天正十年伊予国新居浜に来て当時新居郡の旗頭で合った石川氏の食客となったのが初まりです。
 当地は天正の陣の後、豊臣秀吉の家来小早川隆景の領地となりましたが、天正十五年秀吉の九州征伐にともない小早川隆景は筑前名島に移封されました。
 その後伊予国の領主は秀吉子飼の家来が来きて東予五郡を福島正則が領しましたがこの時、周敷村は正則の領地にならず摂津麻田藩青木駿河守一重の飛び領地となり一色右馬三郎重之が郡代官を勤めました。

◎一色庄屋の系譜
○郡代官一色右馬三郎重之の子、重勝は文禄二年(1593)周布村の長となりその長男重次は周布三谷の庄屋になりました。
○次男重直は三津屋の庄屋なりました。
○重直の次男重昌(市兵衛)が周布村の庄屋を継いで、周布村一色大庄屋の祖となりました。
○三津屋)村庄屋は、重直三男の重行(次兵衛)か五男重明(2説あり)が継いで大庄屋になりました。
○重行の五男重好(新兵衛範好)は、明理川村の入り庄屋になり、貞享元年(1684)には高橋氏に代わって壬生川村の入庄屋になり、貞享三年から大庄屋になりました。
○明理川の方は彼の二男が継ぎ一色家は四ヶ村の庄屋を勤めました。


一色庄屋の系譜

予州(愛媛県西条市)一色庄屋の系譜
☆☆ ☆☆
三津屋大庄屋 右馬三郎重之
周布村大庄屋 予州・一色祖
明理川村庄屋
 壬生川大庄屋 重勝
(周布村)
村長(郡代官)
---------
次男 重直
---------
長男 重次
三津屋大庄屋
三谷の庄屋
(周布村)
--------- ---代官---
長男 重政
---------
四男 
重光
---------
次兵衛
三男 重行
五男 重明
---------
市兵衛
次男 重昌

大阪の役で戦死 大阪の役で戦死 村長(郡代官)
三津屋大庄屋
周布村大庄屋祖
新兵衛
範好(重好)
明理川庄屋祖
1684より
壬生川大庄屋祖

---------
与五左衛門
重之
---------
新兵衛
重持
---------

久助の父
明理川庄屋
より
壬生川大庄屋
明理川庄屋
範江 久助
壬生川大庄屋 明理川庄屋
与左衛門
明理川庄屋

青木民部一重と一色庄屋の関係

慶長十九年(1614)大阪城冬の陣
そのころ当地は青木民部一重の領地でした。民部は豊臣秀吉の死後も大阪城で秀頼を守り慶長十九年(1614)大阪城冬の陣では豊臣方の武将として大阪城を守備し戦ています。伊予国の領地からも一色重直の子で一色重政の率いる一色党が参戦しました。
徳川方と和議が成立した元和元年(1615)正月、青木民部は和議謝礼使として駿河に下向駿府城で徳川家康に謁見しました。家康は民部を徳川に従わせたく思っていたので、板倉伊賀守勝重に命じて、京都に止め置き、近侍として家康に仕えている民部の弟青木次郎右衛門可直を民部が大阪に帰れば誅と言わせて民部を大阪城へ帰れぬようにしました。民部は夏の陣には参戦出来ませんでした。

◎元和元年(1615)大阪夏の陣
 大阪夏の陣では青木民部の養子従五位下駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地からも一色重次の長男重政ひきいる一色党二百人が参戦して重政、重光は戦死しました。又、これにより駿河守正重も青木家を廃嫡され浪人となりました。
 大阪夏の陣で大阪城落城豊臣は滅びました。

◎青木民部の伊予領地
 大阪の役の後、青木民部は剃髪して京都にとどまりました。
 家康は民部を二条城に召し出し父青木重直の領地を合わせて、摂津国豊島、兎原二郡備中国後月、小田、残口、三郡及び伊予国周布郡で合計一万二千石を与えました。
周布郡の領地は大阪合戦中もその後も家康は手を付けず民部が支配していたのか、駿河守正重が大阪城後浪人して一色重政の弟重明の家に来て逗留していたと言う記録が残っています。
 重明は兄重政が戦死したので民部の代官として周布郡の領地と支配していました。青木氏の周布郡の三津屋、北条、周敷、石田の支配は徳川時代になっても継続していて元和五年(1619)養子の重兼(摂津麻田藩主)に領地をつがしました。重兼は民部の弟次郎左衛門可直の子です。
 寛永四年(1627)蒲生忠知が松山藩二十万石に封ぜられた時、青木重兼の伊予の領地は摂津国は変え地されました。
 これにより青木氏の周敷村の支配は四十年で終わりましたが、代官として当地を支配していた一色氏は庄屋となって一柳、紀州分家西條藩松平、松山藩久松と領主は変わっても庄屋職jを明治維新まで継続しました。

記録に残る歴代一色庄屋

◎壬生川村 大庄屋(桑村郡大庄屋) 一色与五左衛門重之
 一色新兵衛範好、貞享元年壬生川村庄屋役仰付。大庄屋役相勤。(桑村郡大庄屋の始め)彼の息子一色与五左衛門重之(重好)は明理川の庄屋から元禄十二年に壬生川の庄屋になり、元禄十五年に改庄屋になる。役料米七俵。宝永三年(1706)大庄屋になり、三人扶持役料十俵。享保三年五人扶持となる。その後、享保五年(1720)十二月九日には、五代松山藩主定英の家督相続の式には、領内諸郡の庄屋惣代として、和気郡の玉井助九郎とともに出府を仰せ付けられた。「十二月二十九日に三津浜を出発し、翌年正月二十三日に江戸到着。二十六日に生鯛一折差上げ御目見仕。御料理被ニ下置一白銀五枚拝領。同日若殿様へ生鯛一折差上げ、白銀三枚被ニ下置・・・」との記録あり。

◎壬生川村 大庄屋(桑村郡大庄屋) 一色与五左衛門範江
 壬生川村一色庄屋三代目の範江は、享保十五年(1730)に村庄屋並に大庄屋見習となり、二十一年には酒造も許され、元文三年(1738)に大庄屋になり、三人扶持役料拾俵あてを受け、更に明和七年(1770)には周布郡の大庄屋を兼任して、安永三年(1774)病気のため依願退職すまで実に四十四年間、当地方の行政にそのすぐれた、手腕を発揮しました。 
 その主なものを拾うと、御巡見史様のお宿を勤めること二回、栄姫様御対顔のお祝いのときに諸郡惣代として江戸への出府、明和二年(1765)一万国上知の際の差支米や借用銀等の適切な処理と「天領桑村郡十二ヶ村郡手鑑」の写しの作成等です。更に大阪に送るお登せ米の製俵の向上などがあります。
 代官所は彼の行政手腕を高く評価して、たびたび御褒美と米三俵一回、米五俵二回の御褒美を与えました。
 彼はまた信心深く元祖一色右馬三郎重之にあやかった長福寺の大門を再建しました。
『小松邑誌』の著者一色範序の祖祖父にあたります。

◎西條誌にみえる大庄屋一色太郎九郎   天保七年(1836)西條藩編纂地誌
先祖宮内少輔公深と言うもの三河国吉良庄一色村より出、子孫その村名を取りて氏とし移って丹後国宮津の城に居、右馬三郎重之と言うもの天正年間宮津を落て当国に来り、高外木城の石川氏に客たり。後に周敷郡周敷村三谷の城主荒井藤四郎を討ちてその地を領すと言う。その間色色あれども之を略す。当時の太郎九郎よく勤め文政年中御誉あり。
◇太郎九郎持伝物の内に
刀一振、無銘身長二尺一寸五歩中心四寸4分、古色蒼然として最驚くべし三条小鍛治宗近なるべしと鑑識する大刀ありと言う。しかれどもその長さを疑う奈何。元讃州網の浦漁人これを海底に穫たりと云う伝えるよし。
 この外古き茶壺、楳道人の画幅等を蔵む。太郎九郎の先祖弥兵衛と言うもの病気の時源性公(初代藩主)より何か薬を御本家様(紀州)へ乞せられ森惣兵衛を以てこれを下し給はると言う事太郎九郎の家の旧記に見えたり。

一色庄屋に伝わる 古き茶壺 父母状等画幅

その昔大庄屋一色太郎九郎時代の長屋門

◎庄屋とは?
当地方の庄屋は、鎌倉時代の地頭や、南北朝時代に脇屋義助や大館氏明に隋従して土着した者の子孫で、戦国時代に小豪族として活躍した者と、彼らに系譜をもたなくても、戦国時代に武士として活躍した者の子孫がほとんどである。征服地に入部した領主が、伝統と家柄を尊重する封権社会の風潮の中で、彼らの旧勢力の反抗を押さえるために、彼らを百姓の身分に落としながら、ある程度の優遇をするためと彼らが旧来身につけている統制力をかつようして、領地の保全と年貢の確保をねらった処置でした。
※庄屋と大庄屋
庄屋の仕事は@年貢の完全な納入 A道・河川・橋・堤防などの村普請 B藩からの命令の伝達徹底 C戸籍・宗門改 D村の公事(民事訴訟)を公平に裁く E土地売買証文や領主に対する訴願の奥印など村方に関する一切をつかさどりました。
 松山藩では庄屋の上に各郡一名の大庄屋を任命して、郡奉行直属の郡役人としました。



江戸時代の桑村郡・周布郡

◎周敷村(下記図のあたり)他領入交の場所  天保七年(1836)西條藩編纂地誌
 周敷村大庄屋 一色太郎九郎
◇周敷郡周敷村
当村小松領の周敷村と入交じり犬牙相接と言うよりも甚しく、一在所の内、あの方の民家そこの方の民家と入組軒を並べて建ち、平ら一面に身ゆる内、その家とその人は自他の差別ありl。
 只田畑の錯互せるのみにあらず。故に昔は闘争の事絶えず近世大庄屋一色熊八代より今の太郎九郎に至るまで、心を用いて論し和げ、あの方(小松領)にもしかあるにより、双方睦ましく一領の如くにはなりたり。当村高千八百石余りなり 


◇周敷村の儀は他領入交の場所に候ところ、百姓ども相互に一和致し諸事睦ましきは無論農事常常相励み、別にして去年は早の処汲水の儀抜群に骨を折り候よう具に相達す。右かねてその方共役儀に相勤。百姓どもよく帰服いたし候故と奇特なる儀に思召され候。この旨申聞誉可申候。
     
八月五日 文政十二丑歳
※周敷村
 ○村境東は小松領北条村、西は松山領田野村、南は小松領吉田村、北は、松山領三津屋村。
 ○境石二カ所。当村東小松領吉田村境、同北松山領三津屋村境とにあり。

 (下記図の通り、周敷村は領地が松山藩、西條藩、小松藩、天領と入り乱れている地域なので揉め事などが多っかた)