天正の陣
  愛媛県西条市

◎長宗我部元親の四国制覇
 天正年間、土佐の長宗我部元親は四国制覇を志して阿波、讃岐を手中に収め我、伊予の国にもその手を伸ばしつつありました。
 天正七年(1579)には西條の高峠城主石川備中守通清は宇摩・新居郡二郡の豪族を掌握していました。
 道清は長宗我部と手を結び、自ら長子の勝重を土佐に人質として送り込み元親の弟泰氏の娘と結婚させました。
 さらに婿、西条船形の横山城主近藤長門守の子、彦太郎を人質とし次女の婿、金子備後守元宅の長男、専太郎をも土佐に人質として送りました。
このように宇摩・新居二郡の諸豪族は戦わずして長宗我部の軍門に降り攻守同盟を結んだ。
 一方南予でも天正十二年(1584)にその盟主西園寺公広も元親に降伏し続いて天正十三年(1585)春には河野氏も長宗我部と和を結び概に勢力下に入っていた阿波、讃岐と併せて四国全土を制覇した。

◎羽柴秀吉の四国征伐
羽柴秀吉は全国統一事業が順調に進むなかで、毛利氏との和睦が成功すると四国平定に着手しました。
天正十三年(1585)、前年からこの春にかけて四国統一を成就した土佐の長宗我部元親は実子を人質として大阪へ送り、伊予と土佐の二国の領地について秀吉と約定を交わしていたが、一方小早川隆景も伊予を所望したので、秀吉はこれを承認し、長宗我部との約束を破棄して人質を土佐に帰しました。
元親はこれに激怒し、秀吉の意に従わなかったので、秀吉は弟秀長を総大将として約10万の征討軍をおくりこむことになり、毛利氏に対しては伊予国出兵を要請した。

◎天正の陣
毛利勢の大将小早川隆景は、天正十三年二月能島家に協力を求めた。安芸の国の三原や忠海の湊は、同年六月下旬には毛利の将兵であふれた。下記図のように伊予方面に進撃した約3万の軍勢は、河野しと因縁浅か展開らぬ小早川隆景に率いられて、六月末から七月にかけて新居浜宇高などに上陸し、以後新居・宇摩の諸城を次々に撃破した。かくて西条市を中心とする地域において、後々までも語りつがれる「天正の陣」の壮絶な高尾城の攻防が展開された。

◎天正の陣実記(抜粋)
毛利の大軍が来攻すると聞いて、新居・宇摩の諸城主は主城高峠城(高外木城ともいう)に会して、去就を協議した。「天正の陣実記」には大略次ぎのように記されている。
一座のうち降参説がおおかったにもかかわらず、金子備後守元宅独り衆議を排して
『小身の武士ほど浅間しきはなし。昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を折り、土佐の人質を振り捨てて、他人に後ろ指をさされんことは心苦しきなり。所詮眉をひそめて討死し、名を後世に顕さんには如かじ』と力説したので、座中一同感激して同意の誓約をし、各個に敵の大軍を迎えることの不利を考え、各自の城砦を撤して高尾城に集結し戦うことになった。これに参加した諸将は、宇摩・新居郡の旗頭であった高峠城主石川備中守をはじめ金子・高橋・松木・藤田・菰田・野田・近藤・塩出・徳永・真鍋・丹・久門・難波江などが西条市氷見の高尾城に拠って抵抗した。全軍を指揮をとったのは、新居郡金子備後守元宅であった。
隆景は、主力をもって高尾城を包囲、別動隊をもって、元宅の弟対馬守元春の守る金子城以下の諸城を攻め落し、七月十二日、高尾城攻防戦の火蓋が切られた。
連日にわたる激戦の末、十四日には支城の丸山が落ち、勢いを得た毛利軍は本丸をめざして鉄砲をつるべ撃ちし、このため城兵の多くが失われた。それでも元宅は頑強に抵抗したが、衆寡敵せず、城に火を放ち残存将兵とともに麓の野々市原に討っていで、元宅以下将兵六〇〇余りが夏草を朱に染めて壮烈な最期をとげた。
高尾城落城後攻撃軍の総大将小早川隆景は、野々市ヶ原において首実験を行い、香花の枝をとって唱えた偈の一句、
「打つも夢、打たるるもまた夢なり、早くも覚めたり汝らが夢」を手向け、数百の屍を集めて葬ったと言う。時に天正十三年(1585)七月一八日であった。
  一方、吉川元春の率いる別軍は川之江の仏殿を攻めた。更に軍勢は西進して周桑郡の剣山・鷺の森・象ヶ森などの諸城を攻め、更に越智郡の霊仙山城・国分・竜門・幸門などの諸城を抜き、つづいて、野間郡に入り、人遠、重門、怪島などの諸城を攻略、更に南進して風早郡に進撃し、高穴、横山の諸城を陥れたので、和気、温泉、久米、浮穴、伊予の豪族はこの情勢を見て城を開け渡した。
 河野氏の本城である湯月城も、小早川の大軍に包囲されるところとなったが、河野道直は隆景の降伏勧告をいれて開城した。伊予の国きっての旧家であり、東中予を支配していた河野氏の降伏はのこる南予の大名西園寺公広(宇和郡黒瀬城)・大野直昌(浮穴郡大除城)両氏の帰順を促すこととなり、この年九月には、伊予全土をあげて豊臣政権下におかれることとなった。

◎河野家の滅亡
 河野氏は小早川隆景のとりなしで大名として存続することを願っていたが許されなかった。天正十五年(1587)小早川隆景転封のあと、福島正則が就封したので、毛利輝元の好意により、安芸の竹原に移り住むことになったが、この年七月十四日竹原で生涯を閉じた。時に二十四歳と伝えられ、ここに伊予の名族河野家は断絶した。竹原の長生寺には河野家の紋章が残されている。伊予における近世的体制は、豊臣秀吉の、四国平定によって開始された。


秀吉の四国征伐組織図

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
総司令官
大納言秀長
(岸和田)
(3万)
第三軍
毛利輝元
(3万)
第二軍
浮田秀家
2.3万)
第一軍
羽柴秀次
(3万)
吉川元春
(1万)
小早川隆景
(1.5万)
高松 淡路島
7月5日
今治
7月2日
(本隊)
中山川尻
7月2日
新居浜市
垣生
7月2日
宇摩郡
蕪崎
6月26日
新居浜市
御代島
鳴門
東予 徳島平野
元親本陣

宇摩・新居・周布郡 戦国時代(城・砦)配置図
豫州宇摩・新居・周布軍 総勢2600兵力

豫州戦国時代の旗頭と地侍

宇摩・新居郡旗頭 高峠城主 石川備中守道清
新居郡
金子城主 金子備後守元宅・同対馬守下春 古土居城主 高橋美濃守
岡崎城主 藤田大隈守、同山城守 生子山城主 松木三河守安村
麓城主 一本塩見三郎兵衛 黒岩城主 越智信濃守
小野城主 小野上野介 新須賀城主 岡田喜三通孝
真鍋城主 真鍋近江守 黒瀬砦 黒瀬飛弾守通信
奥の城主 光増飛弾守 大保木城主 寺川丹後守通保
中山城主 一色但馬守 天神山城主 石川美濃守
西後城主 伊藤近江守祐晴 八ノ川城主 今井飛弾正左衛門
野津子城主 工藤兵部光信 明日城主 明日丹後守
八堂山城主 石川越前守 ?上助手 難波江内蔵助祐勝
狭間城主 徳永修理亮 江渕城主 塩出紀伊守忠重

宇摩郡
澁柿城主 薦田治郎進義清 中尾山城主 薦田備中守義定、同四郎兵衛成道
松尾城主 真鍋大炊介通近、同左衛門佐 轟城主 大西備中守元武
仏殿城主 妻鳥妥女正 横尾城主 横尾山城守国信
野田城主 野田右京亮透之

周布郡
旗頭 剣山城主 黒川美濃守通博
桑村郡 
 旗頭 鷺森城主 桑原三郎兵衛泰国
象ヶ森城主 櫛部肥後守兼久