今も続く、日露友好のかけ橋

松山市民のロシア兵捕虜に対する「お・も・て・な・し」
 
 勝田銀次郎の故郷松山では1904〜1905(明治37,38年)の日露戦争時の松山捕虜収容所で亡くなれたロシア兵士98人のお墓を100年以上過ぎた今でも「ロシア人墓地保存会」と地元老人会、婦人会、勝山中学校の生徒らによる月一回の墓地供養と清掃活動が行われています

 今年も(2013年3月25日)松山市主催でこのロシア兵達の第53回目の慰霊祭が行われました。


 

松山では、わずか3万四千の人口の所に戦時中および戦後も、延べ6000人のロシア兵が収容されていた。
 多い時には一度に4000人もが人道的な環境の中、十分に幅広い自由を与えられ収容されていた。

 捕虜の外出は自由で、階級が低い兵士達も、観光をしたり、仕事をすることもできた、彼らも郡中(現伊予市)や砥部焼の窯元への遠足や、自転車競技大会などを催すなど、活発に市民達と民間交流を行った。

 将校達は市内で一戸建て民家での生活が認められ監視なしに自由に散策したり、、大街道にあった芝居小屋での観劇や道後温泉に入浴、買い物など許され、さらに祖国から妻を呼び寄せることもできた。「マツヤマ」は他の収容所のロシア人捕虜にとって憧れの地となった。



郡中港での捕虜達を「お・せ・っ・た・い」
 このホーム−ページは本来「愛媛の遊漁船」なので関係がるような海南新聞記事を見付けたので紹介します。
高浜の四十四島で釣り
 
騎兵少尉タゲーエフの一行が過日高濱へ遊びに行き延齢舘で日本料理を食ふた後舟を?ふて四十島へ渡つた、見れば多くの日本人が釣して居るので物数奇の少尉は自分も遣つて見たいと釣竿調へ針を下げたがなかなか喰はぬ、けれども此臨時太公望は中々熱心で永い間糸を下げてるうちヤット一尾釣れ上つたので其の喜びと云つたらない、恰かも旅順の包囲軍を一蹴りにしたかの様に雀躍したとは左もあらん

 
捕虜達の食費は日に、将校60銭、下士卒30銭で、これは自国の兵卒の食費が一日あたり16銭前後だったのと比べて破格の厚遇だった。これは牛乳、卵、牛肉の支給がその原因であったがこの3品は、彼等の食事には不可欠メニューであった。

 松山捕虜収容所病室の記録によると、明治37年(1904)5月から39年(1906)1月までの間に滋養品として医務室で消費した牛乳は、なんと6824万8300グラム、捕虜の収容数の増大とともに品薄になった牛乳の不足分の補充に臨時に購入した粉ミルクは4836缶、卵が23万2074個、牛肉が22万1200グラムにのぼった。


 
当時の将校用のメニューは・・・

 
◎白パン半斤、砂糖、紅茶、昼食材料が白パン半斤、牛乳2勺5合、麦粉35匁、人参4匁、牛肉70匁、きゅうり、塩麻、バター、ジャガイモ、トマトソース、玉ねぎ、砂糖、紅茶、スープ、茄子、コショウ、卵など

 白パンは、当初は松山市菅町4丁目の業者に製造させていましたが彼らの口に合わなかったようで、別の白パン作りの経験のある業者に変え供給した。

 当初は日本側で調理をしていたが美食家のロシア兵達には「お気に召さなかった」ようで明治37年9月11日以降は、直接食材を渡しロシア兵の下士官が調理した。

 将校達は松山市内を自由に外出できるため市内の食料品店で自分好みの商品を買ったり、洋食店で外食しっためどこの店も満員で繁盛したと記録に残ってっている。

 その他、収容所内の売店で軍医の許可があれば嗜好品も購入することができたようで「朝日ビール」「万歳ラムネ」「シャンパン」「コニャック」「ウヰスキー」「ハム缶詰」「炭酸水」なども売っていた。

 捕虜というと、虐待され食事も少量で強制労働で痩せ衰えた兵士の印象がありますがここ松山のロシア軍捕虜達の写真史料を見ても、身なりも小綺麗で健康そうに見え健康管理が行き届いたよう、さすが招かるざる客、敵国の捕虜にまで「おもてなしをしたのにはビックリである。

 過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。

 さすが「おもてなし」をスローガンに掲げている松山ならではの逸話だ、いくら日本がハーグ条約を順守し、紳士的に捕虜を扱ったといっても、これこそ松山人気質のなせることである。

 松山生まれの勝田銀次郎が博愛の精神でロシアの子供達の帰郷に力を貸したのもこの松山人気質であったように感じられてならない。

当時のスナップ
道後温泉でくつろぐ
大街道で観劇
道後公園
梅津寺海水浴場


ワシリー・ボイスマン海軍大佐
 
  捕虜は、かならずしも戦争が終わるまで収容所に抑留されていたわけではなく、日露戦争では、例えば医療従事者、あるいは兵隊としての勤務ができないほど負傷した捕虜などは、戦争中であっても帰国が許さた。

 負傷していたワシリー・ボイスマン大佐に帰国を促したが、大佐は「兵と共にいる」と辞退し、日本で病気で無くなりました。当時は「ロシア人の武士道」として賞賛された。


 平成22年1月、二の丸庭園整備工事の最中、大井戸の中から帝政ロシア時代の金貨が発見された、そのコインにはロシア人と日本人女性の名前が刻まれていることがわかった。(左のコイン)

  「コステンコ・ミハイル」=ロシア軍少尉 と 「タケバナカ」=赤十字社看護婦 竹場ナカ

 一人はロシア軍少尉「コステンコ・ミハイル」、絵画が趣味で彼の描いた水彩画が松山の人達に贈られたという美談が紹介されている。

 もう一人「タケバナカ」は宇和島出身の赤十字病院看護婦でこの収容所病院に勤務していた。


現在に換算すると30万円に相当する金貨を井戸を投げ込んだ時の気持ちを想像して下さい。
 ここからは、この名前が刻まれたコインを元にしたミュージカル「誓いのコイン」での創作が一部混ざるのですが大枠ではこのミュージカルの通りのような物語があったんでしょう。
 

 コインの持ち主は戦地の中国から連れてこられたロシア人の捕虜で、女性の方は、そこで看護婦として看護をしていた方でした。

 女性の献身的な姿に、ロシアの男性は次第に惹かれ、そして恋に落ちたようですね、二人は、お互いの名前を刻んだコインに誓いをたてます」。


 残念ながら松山市の「坊っちゃん劇場」での公演は終了していますが、ロシアでも上演され大好評だったようです。

 このミュージカルは当時の、愛媛県の中村知事が松山市長であった時に劇場側にこのコインの物語を上演できないか?と提案し実現に至ったようである。
 小生、政治にはあまり関心はないのであるが、中村知事の行動力には感銘する。 是非、しまなみサイクリングもオリンピック招致の滝川クリステルさんに負けないよう本家本元
「お・も・て・な・し」のお手本を見せてお客様達が「・・さすが愛媛・松山と・・」と言わしてくれる事を期待してます。




二人の短い恋の物語は、1904年春から少尉の足の怪我が回復し静岡に移送される同年12月迄の事だった
コインが見つかった大井戸 コステンコ・ミハイル少尉 赤十字社看護婦 竹葉ナカ

 小生もこの学校の卒業生ですが20年前迄城東中学の運動場の真ん中に井戸があったことは知らなっかった。

 (松山城二の丸公園内)

 
少尉は帰国後も兵役に就き、その後、米国に移住し1928年47歳の若さで米国で亡くなった

 宇和島市出身で、1904(明治37)年5〜10月ごろに捕虜収容所病院に勤務

 ナカさんは病院をやめさせられ、やがて日本人男性と結婚し東京に住み、最後は九州で1975年亡くなった
M37.08.06 海南新聞よりミハイル、コステンコに関する記事 
 
(松山大学、宮脇研究室資料から) 目下バラックに収容治療中なる露本国人士族歩兵少尉ミハイル、コステンコといふは●●●二十四歳の少壮少尉だが天性絵画を能くし●に余念なく揮毫して鬱憂を慰めて居る、先達て●●丸で来松した代議士某が其一葉を紀念として●ひ去りしがそれは花卉の水彩画であつたそうな又過日も医員長とやらへ贈つた画は桔梗など書いてあつて頗る美術的の画で手際なものであつたさうな

宮脇研究室資料@
宮脇研究室資料A
 ※以上、愛媛の「海偉人」 勝田 銀次郎とは、直接関係無いかも知れませんが、松山人気質というところでご紹介しました。銀次郎が神戸で活躍していた時の故郷での出来事です。