犬ぞりの神様と呼ばれたアラスカ開拓のヒーロ−
The hero of the Alaska exploitation called God of the dogsled?

和田 重次郎
Jujiro Wada


アラスカとユーコンを犬ぞりで駆け回った距離、合計4万4千キロ

和田重次郎

Jujiro Wada



愛媛の海偉人、和田重次郎は今から120年以程前アラスカのゴールドラッシュ時代に活躍した人で、金鉱探索、エスキモーのキング、名ハンター、名マラソンランナーとしてアラスカ全土にまたがって名声を馳せた伝説の名マッシャー(犬ぞり使い)。


プロフィール
重次郎の足跡を、谷 有ニ著「オーロラに駆けるサムライ」、『和田重次郎顕彰会』様の研究成果、Webから引用



1876年(明治8年)サムライの子として愛媛県小松町で生まれた重次郎、早くに父を亡くし(明治12年)母セツに手を引かれ40km離れた素鵞村(現、松山市日の出町)の母の実家清川家を頼って移住して来る。




◎戸田金兵衛覚書


1879年(明治12年)、四歳のときに父、源八が死去し母セツと二人で、セツの実家のある愛媛県温泉郡素鵞村(現 松山市日の出町)に移住してくる。

12、3才の時、素鵞村の戸田金兵衛の父が経営する製紙原料商戸田製紙へ丁稚奉公するも16才で突然無断で家出し松山市三津浜の山谷運送で客引きとして入り込みそのうち阪神航路のボーイと親密になり頼み込んで神戸に渡り、ある貿易商にはいり居るうち平素から希望のアメリカ行きを決意し仲間に頼みこんで茶の荷造り中に茶と一緒に茶箱に入れてもらって密航。

素鵞村に居た時から友人に製紙等の手伝いはいやだ!俺はアメリカへ行くと申していたそうでこの時、年は17才で1892明治25年の事でした、到着ま何日間はボーイの好意により食事万端世話に成った由です。
   
母セツ

サンフランシスコに到着したが昼の上陸不可能なゆえ夜間ボートで上陸し無我夢中で歩き通し夜が明けて日本人住宅を尋ねました。

最初食堂に入り辛抱しているうちに人の進言により捕鯨船に乗り込み一生懸命働き蓄積して、1896明治29年 5年ぶり22才で故郷の日の出町に錦を飾って帰国してきました。
すぐに親子2人で東京並びに6大都市見物にまいりました。3ヶ月位滞在して再度渡米して捕鯨船の生活をしていたよです。

ここまでが戸田金兵衛氏が青年時代に長く見聞せし事柄です。


◎補給艦「パナエナ号」と越冬地ハーシェル島で・・

1892年(明治25年)17才、苦労してアメリカに渡った重次郎ですが見知らぬ男に3年で80ドルのキャビンボーイとして太平洋蒸気捕鯨組合に所属する補給艦「パナエナ号」に売られました。

この時「パナエナ号」は太平洋蒸気捕鯨組合が1889年に発見したハーシェル島沖漁場で操業中の捕鯨船団に燃料、薬、食料等を初めての越冬しながら補給することが任務の厳しいものでした。

3年間の越冬中重次郎は、気さくな船長から英語や航海測量技術を学び「バラエナ号」の充実した図書館にあった本はすべて読んで3年後には十分な英語能力をもつことができました。

ハーシェル島で交流を深めた原住民ののイヌイット達からは犬ぞりの扱いや極地での自給自足の生活方法などを教わり、、誰もが認めるマッシャー(犬ぞり使い)になっていたのです、それらが後の彼の生活に役だったのです。

バラエナ号
524トン、245馬力、3本マスト

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アラスカの地で

1894(明治27年)バラエナ号は3年ぶりにサンフランシスコに帰港するも重次郎はエスキー達と犬ぞりを走らせて暮らす道を選び再びパーシャル島へと戻ってくる。

重次郎すでにこの頃には「グレートつまり偉大なる」の称号を与えられた犬ぞり使いの技は群を抜いていたらしく三匹の犬が引張る犬ぞりと、テント一つに命を託して狩猟をしながら溜め込んだ毛皮を遠くの交易所まで運び30ドル、50ドルと稼ぐ生活をおくっていた。

1896(明治29年)I21才の時かなりまとまった金をにぎり日本に一時帰国する、「母が恋しく、母に会って自分の気持ちを語らなければ死んでも死に切れない」という思いからだった。

3ヶ月後に再びアメリカに戻った重次郎は太平洋蒸気捕鯨組合所属の補給船ジェニー号の乗組員として北氷洋に点在するポイントに医薬、食料などを補給していく途中ポイントバローに寄港。
流氷に閉じ込められ遭難していた捕鯨船ナパック号の救助にあたるが乗船していたジェニー号もスミス湾上で氷に閉じ込められ、食料も尽きる頃、重次郎が犬ぞり隊を先導し、カリブー猟を行い、ジェニー号と補助船ニューポート号の食料を確保、乗組員の命を救う、この事はは地元新聞に大々的に取り上げられた。




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ポイントバロー


1900(明治33年)25才、ユーコン河支流で砂金採取等に 一攫千金を夢見る人たちが、極北の地へと集まってきた。

重次郎も、狩猟と砂金を探しながら北方の大地を駆け廻り
ノームに戻た重次郎は鉱山の権利を取得する為市民権の申請をしたが拒否される


翌年の秋、重次郎は砂金採取も思わしくなかったので、オハイオ生まれのアメリカ人パーネットの蒸気船ラベルヤング号(交易船)のコック兼商売見習いとして乗船しユーコン河流域で毛皮の売買等を手がける。


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1903(明治36年)28才、バーネットと共に行動していた重次郎はタナナ平原のチェナーで金鉱発見をいち早く犬ぞりを駆け、ドーソン・シティの新聞に伝え、アラスカ史上に名高いタナナ・スタンピート(ゴールドラッシュ)を引き起こす。

1904年から翌年にかけてもマッケンジー河口からファース川にかけてほとんど一人で金鉱探索を行っていたようである。

重次郎

重次郎と犬ぞり


◎キング・ワダ

1906
(明治39年)31才、重次郎は女、子供迄含んだエスキモーの一団と共にノームに現れた。彼らはアイシー岬から毛皮を売りにきたのである。

重次郎はすばらしいマッシャー(犬ぞり使い)で、銃も持たずにアザラシを捕まえ、毛皮を買い叩く白人商人には口をはさみ原住民達にとっては頼りになる男だったのでアイシー岬にある三つの原住民キャンプが相談してキングになることを要請した。

キングになった重次郎は指導力があって良いリーダだったので、夏には鯨がたくさん獲れ、キャンプには色々な獲物に恵まれ、彼自身もここで原住民の妻を娶った。


◎マラソンで優勝

1907(明治40年)32才、ハーシェル島から厳冬期の北極海沿岸700マイルを走りノームに戻ってきた重次郎はイーグルス・ホール竣工記念50マイルマラソンに出場し優勝し500ドルの賞金を手に入れる。
翌月もマイルレースに出場し優勝、賞金2800ドル(当時の日本円で4000円位)を得た。
(ちなみにその時代の日本の大工の日当は一日1円だった)

アラスカの新聞は熱狂的に重次郎の勝利を書き立てた。


◎アラスカ⇔ユーコン準州5000マイル走破

1907
(明治40年)32才、ユーコン河がやっと凍結した11月重次郎は6匹の犬とドウソンの町を発ってハーシェル島へと旅だった

ユーコン川の氷上を8日かけてアラスカ側のフォートユーコンに到着 → 

再び犬ぞりで7日かけてカナダ領ランバートに到着→ 

北極海に向かって木の全く生えてない数百マイルの荒野をガイドの示した方向を見失いながらもさんざん苦労して12月中旬頃には柳の生えている北極スロープを越えた → 

重次郎は金の匂いを求めハーシェル島の反対側のマッケンジー川河口迄行く北極スロープのファースト川の支流で金鉱発見し3月3日杭打ちを済ませる。そしてマッケンジー川河口に停泊している捕鯨船カルーク号を訪問 → その後ハーシェル島へ(ドウソンを出発してからほぼ4ヶ月経過 → 

(帰路)3月21日ハーシェル島を出発 → フースト川から内陸部の幾つかの川とを通ってランバートハウスに到着、途中雪の照り返しが強く目をやられ雪盲にやられ猟ができず犬たちの食料が調達できず重次郎のアザラシの油がしみ込んだ衣服を全部犬に与える。しまいにはハーシェル島で貰った鯨油をズボンに浸み込ませそれを犬達に噛ませながら走った。

4月27日ドウソンの町に帰ってくる。ドウソンの町は大騒ぎになった、「ドウソン・デイリー・ニューズ」は「恐れを知らぬ日本人、北極圏からの完璧な旅」と。

1908(明治41年)33才の冬、重次郎はこの記事が掲載された後、ドウソンを主発してユーコン河を蒸気船で下り、ベーリング海に面するセント・マイケルでマラソン・レースに出場しそれからノームに出て捕鯨船に乗りハーシェル島を一巡する5000マイルのサーキットの旅を達成した後ノームに戻った。

この後も厳冬のノームからフェアバンクス迄をブリザードに悩まされながら犬ぞりで21日で走破する新記録を出すなど19年にも及ぶアラスカ・カナダ北部の体験、エスキモーをも超える2万6000マイルの犬ぞり旅行、さらに金鉱捜し、狩猟と冒険生活で名声を高め1909年9月18日付けの「ザ・シアトル・ディリー・タイムズ」の一面トップを華々しく飾った。

愛媛の海偉人「和田重次郎」はアラスカ・カナダ北部の誰もが認める「偉人」であった。


未踏極北の500マイルサークル冒険旅行

重次郎の故郷 (松山)
Wada Jujiro's hometown (Matsuyama)


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2013/08/27日松山市日の出町にて撮影
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重次郎の故郷松山日の出町近辺

松山城と犬橇犬になれなかったが自転車を先導して引張る自転車犬 御宝町の「エル」
日の出町からは直線で2km位のところにお城はあります
新立橋(当時も今も松山市街と日の出町をつなぐ橋
重次郎が4才から15才位まで母セツと一緒に住んでいた松山市日の出町に最近出来た句碑公園

此処には松山が生んだ俳人正岡子規の石碑もある。

昔から紙の町として有名で現在も古紙を扱っている会社が句碑の前にある。

4−50年前迄前の石手川で紙の原料である三叉の木をさらしていたのを思い出す。
重次郎と同時代に生きた、松山が誇る俳人正岡子規と五百木瓢亭が紙の句を詠んだ句碑

「新場所や 紙つきやめば なく水鶏(くいな)」
 正岡子規が詠んだこの辺りの風情です。

重次郎の銅像の横にある。
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日の出町沿いに流れる石手川上流方向、向い岸から旧松山市内に入る。
川岸(新立橋)にある松山の金毘羅さん、ご存知のこんぴらさんは航海の守り神です。

アメリカを目指した重次郎も無事を願って参拝したかも?

幼い重次郎が母に手を引かれて、石手川の新立橋を渡って

素鵞村に移住してきたという目撃者の証言がある。

アラスカから一時帰国した時もこのこんぴらさんの前を通り新立橋を渡り我が家に辿りついた。
石手川河口方向、7km程下れば瀬戸内海に流れ込みます。