清和源氏 一色党歴史年表
                  一色氏の出自
1263 弘長3
 一色氏の初祖として一色公深生まれる。
 足利泰氏の七男。
 宮内卿律師と呼ばれる、
 公深は法名
 一色氏は足利源氏の出で、足利氏は下野国足利庄(現在の栃木県足利市)が本城である。
 一色公深の父足利泰氏は足利義氏の三男で母は北條武蔵守年泰の女である
丹後の守護となって、建部山(舞鶴市)に城を築いた足利泰氏。この4男公深(きんぶか)が一色の姓を名のった。 足利泰氏−公深(一色氏)−範氏−範光−詮範 範光は父範氏、子詮範とともに足利尊氏に従い、九州に下って諸処で勤王の軍を破り、尊氏再挙の基を開いた。尊氏はその恩賞として、範光父子に丹後一円を与え北の守りに当らせた。丹波は尊氏ゆかりの地である。京都の幕府を開こうとする尊氏にとって、丹波、丹後は重要な基地であった。
西 暦 和 暦 一色党の歴史年表 解説








1333 ,元弘元年 ・4月一色範氏弟頼行・長男直氏・二男範光らを従えて丹波国氏篠村(現亀岡市)八幡宮へ足利高氏の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し、5月には今日の六波羅を改め陥した。 これ以後足利家と室町幕府が滅びるまで共に歩むことになる
1336 建武3 ・後醍醐天皇が延暦寺に移り足利尊氏が京都に入るが、新田義貞らに攻められて九州に逃げる。

・2月一色頼行九州へ下っる。

・一色範氏、多々良浜の戦いにおいて宮方に属した菊池氏らを撃破する。


・足利尊氏を迎え撃ち楠木正成は湊川で戦死。


一色範氏は早くから足利尊氏に仕え、建武の親政に際し尊氏が後醍醐帝に対して反乱を起こした楠正成、新田義貞らに追われて九州に逃げたときにも尊氏に従った。やがて、尊氏が九州から上洛の途につくと、範氏は九州に残留して鎮西大将軍、鎮西管領となり肥前守護を兼ねたといわれている。
範氏の使命は、九州の幕府軍の指揮と九州各地の統治にあったが、鎌倉時代から九州各地の守護であった少弐氏、大友氏、島津氏などの反発に加え、経済基盤の弱いこともあって、その統治は困難を極めた。範氏は鎮西管領の権限の確立と、管領と守護との権限の明確化、経済基盤強化などを再三にわたり幕府に訴える一方で、辞任を再々申し出ていたが許されず、逆に範氏の嫡子直氏を九州に下向させて父子による支配体制の強化が図られた

・一色範氏の子、範光は加佐郡八田(舞鶴市)に館を構え、子の詮範とともに守護の職につく。 範光に従う諸将3000騎、その持城282ヶ城。丹後5郡のほとんどすべての部落に一色の城があった
1337 建武4 4月一色頼行肥後犬塚原で菊池武重に敗れ討死
1338 延元3 足利尊氏が征夷大将軍となる。
1346 貞和2 ・一色直氏、足利尊氏の命で九州に入り、父範氏とともに九州の統治にあたる。
・12月範氏は鎮西管領を子の直氏に譲り、出家して道猷(どうゆう)と号す。

範氏は佐田文書、深堀文書など多くの文書を発給しており、父子協同しての統治体制が敷かれたと推察される。
 直氏は一時肥前、筑前、肥後、日向の守護にも任ぜられたがまったく実体は伴っていなかった
1349 貞和5 足利尊氏の庶子直冬が南朝に帰順し肥前の少弐頼尚と結び、尊氏に反旗を翻し、長門から九州にかけては宮方、直冬方、尊氏方の三勢力が鼎立して、離合集散する複雑な情勢となる。
 尊氏方は、すなわち鎮西管領方であり、一色方にほかならない。範氏父子は、終始一貫して尊氏方の立場であったが、中央での尊氏と弟直義が対立する観応の擾乱と絡み合って、苦戦は避けられなかった。尊氏と直義の妥協により一時的に乱が収まると、直冬は九州を去ったが、少弐氏と南朝方が結んで一色父子に対抗した
1350 観応元年 足利尊氏の子足利直冬が九州で挙兵、尊氏は追討のため出京。足利直義が南朝に降る。
・但馬の守護山名伊豆守時氏が尊氏に反し南朝に味方して丹後に乱入。  一色勢よく防戦したがついに破れ、丹後の国は山名時氏に奪い取られた。時氏は更に京都に攻め入り、足利義詮は一時、美濃の国にのがれ、尊氏は時氏を追って入京した。しかし戦に破れ、北朝後光厳院をいただいて近江の国に敗走した。尊氏はようやく態勢を挽回して南朝方を破って京都を回復した
1351 正平6 尊氏・義詮が南朝方に降伏。
1352 文和元年 直冬を九州から駆逐。しかし、その後懐良親王を擁して菊池氏や少弐氏が宮方として立ち、これと戦う。
1353 文和2 筑前針摺原の合戦で一色父子はこれと戦って大敗し、以後在地勢力の支持を失う。
1357 延文2 11月筑前の麻生山の合戦で菊池に大敗し範氏・直氏・範光親子は長門に逃れる。  一色氏の鎮西管領時代は約20年に及んだが、統治権を発揮し得るような状況ではなく、そのために九州一円に広域な支配力を形成することなく終った
1358 延文3 ・範氏・直氏・範光親子上洛。

・足利尊氏没して足利義詮が征夷大将軍、すなわち足利二代将軍となる。  一色直氏、二代将軍義詮の将軍宣下の際の供奉の列に加る。
1364 貞治3 伊勢の守護に任じられた。守護代は石川佐渡守長貞であった。
1366 貞治5 ◎一色範光、若狭の守護となり、10月幕命により、山名師氏を討つ。

直氏の弟でもある範氏の子範光が、斯波高経失脚後の若狭守護に任ぜられる。、同時に修理大夫に就任させた。
斯波氏は足利一族の名門でもあり、幕府創設の功臣でもあったが、尊氏没後二代将軍義詮は斯波氏の勢力伸張を警戒し、これを失脚させ、斯波氏が守護を勤める越前・若狭・越中を没収し、一色範光を若狭守護とし、同時に修理大夫に就任させた。
1368 正平23 足利義満が十一歳で征夷大将軍になる。
1379 康暦元年 一色範光、三河国守護職を得る。
1381 永徳元年 範光の子詮範、侍所頭人に任じられ、いわゆる四職家に列する端緒を開く。
1386 至徳3 10月21日将軍義満が範氏の案内で九世戸(文殊)へ参詣し、若狭を巡遊して京に帰る。 義満29才、未だ山名の治世が残っている時分であった。天の橋立を眼下に望む丘に登って「ああ是まさに宇宙の玄妙なるかな」と嘆じたので玄妙と名付けられたという話はこの時のことである。
1387 嘉慶元 一色詮範 正月父範光より三河の守護職を移譲される。
1388 嘉慶2 ・一色範光、正月24日没

・範光の子、詮範(あきのり)若狭と三河の守護を継ぐ。
・一色範光卒、64歳

一色氏は建武3年八田に入国して以来、52年にして丹後の国全部を失う。
 丹後の守護山名満幸(みつたか)は、再三建部山城を襲ったが、一色範光、詮範、詮範の子満範は、孤城を守って敵を追いかえした。 亀山天皇の北朝嘉慶2年、南朝元中5年(1388)正月、範光(慈雲寺殿)が世を去ったので、詮範父子は建部山城を守り通すことの困難を知り、330騎(一説には220騎)を従え、吉原左京と名のって丹波郡(中郡峰山町)吉原山(山祇山:やまずみやま)に立てこもった。詮範父子が建部山城を捨てて吉原山に引き退いたことを知った山名満幸は早速大軍をひきいて追討ちをかけた。詮範はついにささえきれず、山名方に降参した。一色氏は建武3年八田に入国して以来、52年にして丹後の国全部を失ったのであるが、与謝、加佐、中、竹野、熊野郡の豪族(地頭)の中には一色氏にひそかに好意をもつものがあり、奥丹後(中、竹野、熊野郡)における一色氏にひそかに味方する諸将は尚健在であったので、詮範は他日を期して自重していた。山名満幸は、一色詮範が足利将軍と同じ家柄でありながら、吉原左京と姓名をあらためて謹慎している心情に同情して山名の陣代(代理、代官)として吉原山にとどめ、奥三郡の支配を代理させた。これは、奥三郡の事情に明るく、しかも人望のある詮範を利用することが好都合であったからであろうが、一色氏にとっては、再起の糸口を与えられたことになった
1389 康応元年 詮範、3月将軍義満の命で、北伊勢における北畠顕泰の乱へ仁木満長とともに出陣してこれを鎮定。
1391 明徳2
・詮範 尾張知多郡の守護に任じられる。

・詮範、山名氏清の起こした明徳の乱で軍奉行


・一色満範、山名氏清の起こした明徳の乱では、父詮範とともに活躍し氏清を討ち取る。
●明徳の乱
 北朝の明徳2年(詮範父子が吉原城にこもってから3年目)丹後の守護山名満幸が北朝の天子後円融の御料地を掠めとった。将軍義満は怒って、満幸の丹後守護を罷めさせ、都から追放した。危機を感じた満幸は叔父の山名陸奥守氏高をそそのかし、和泉、丹波、丹後、但馬の軍勢を集めて、淀と梅津から京都を襲う計画をたてた。 この陰謀を知った詮範、満範父子は急を将軍に知らせるとともに、敵を都に誘いこんで討ちとる計画を立て、12月31日、赤松、佐々木、畠山、細川ら諸将と相はかって、まず氏清を迎え討ち、その首を斬った。詮範父子が山名氏清の首を将軍義満に御覧に入れたのは、翌日、すなわち明徳3年正月元旦の朝であった。将軍は、山名満幸の所領を取り上げ、手柄のあった諸将に分け与えた。一色満範を再び丹後の守護に任じ、父詮範には若狭の今富をさずけた。
・詮範、若狭・三河に加え尾張国の伊勢湾に臨む知多・海東二郡の分郡守護に補せられる。
1392 明徳3 ・一色満範、明徳の乱での功績で丹後守護に補せられる。

・一色詮範は「明徳の乱」の恩賞で正月4日に旧領の三河・若狭に加え若狭の税所(国の租税を「司る役所)今富庄五十五町歩をあたえられた。
ここに一色氏は初めて若狭の一元的支配権を手にした。

・子の満範には丹後一国が与えられました。

 詮範はさっそく守護代小笠原長房を今富名代官に、小守護代武田重信を同又代官にそれぞれ任じたが、税所代は前代からの海部泰忠を起用して、とりあえず税所の機能を旧態のまま継承した。しかし、応永五年(一三九八)の段銭配符は依然として武田(ただし重信の子長盛)・浄玖の連署となっており(ア函一一一)、段銭徴収方式に変化はみられない。ところが、同十四年(ツ函九七)以降の段銭配符はすべて国衙機構たる留守所の下文となる。すなわち、ここにようやく税所を含む国衙機構全体を守護権力の一機関として機能させるにいたったのである。応永十年、海部泰忠の税所代職が没収されて田所忠俊に替えられたのは、一色氏による国衙機構の吸収という事態を象徴するものといえよう
1393 明徳2 ・一色詮範、将軍義満、義持、西御所高橋殿、愛娘喝食御所、御僧同伴で丹後久世戸参拝。
 将軍義満が文珠堂に参詣した。一色満範は文殊の竜穴(りゅうげつ)の山上に小さな亭舎(休憩所)をつくり、京都から将軍をお伴をしてこの亭舎に案内した。将軍はそこから見おろす天橋立と与謝の海の絶景に感激し、この亭舎に「玄妙」の名を贈った。これが「玄妙庵」の起源である。将軍は全く上機嫌で、丹後と若狭の一色領を巡視して京都へ帰った
1394 応永元年 ・将軍義満久世戸参拝、若狭巡遊。
・詮範、大和国小夫宗清の乱の平定などで活躍。

・足利義勝(義持)が4代将軍となる。
1395 応永2 詮範、将軍義勝が文珠堂に参詣した。

 一色満範は将軍を例の「玄妙亭」に迎え、再び将軍を案内して丹後、若狭を巡回した
1397 応永4 足利義満が京都北山に金閣寺を建てた。
1398 応永5 :幕府、三管領(細川・斯波・畠山)・四職(山名・一色・京極・赤松)の制を整備。
1399 応永6 満範、大内氏の起こした応永の乱にも父詮範とともに出陣、満範父子大内義弘を討つ。
1402 応永9 将軍義勝と義満が一緒に文珠堂に参詣した。
 満範は父詮範夫妻とともに将軍の案内をして大変喜ばれた。この頃が丹後一色党の全盛時代、黄金時代であったといえるであろう
1405 応永12 一色詮範が再度侍所頭人になる。
・義満、醍醐寺三宝院満済を従えて久世戸参詣
若狭巡遊
1406 応永13 ・詮範、6月7日没
満範、詮範が死去すると遺領の若狭、三河、尾張二郡の守護を引継ぎ、丹後と合わせ3ヶ国2郡の守護となる。
満範、侍所頭人になる。
・三河の一色領をあずかっていた小笠原明鎮(みょうちん)父子が叛いたので、満範は二人を京都の邸につれかえり、さらに与謝郡石川山城(野田川町)におしこめる。
1407 応永14 ・将軍義持、北山殿(義満)、女院(日野康子)、喝食御所慶御丸、日野重光等久世戸参詣、若狭巡遊。
 義満にとって最後の丹後・若狭旅行で、九世戸から高浜を経て小浜にいたる恒例のコースであった。このとき一色満範は義満を栖雲寺に、義満の妻北山院(日野康子)を玉花院にそれぞれ宿泊させ、両寺の間に廊下を造営した。また小浜湾には二艘の飾り船を浮かべ、道路もさまざまに飾り立てたという。こうした満範の懸命の歓待ぶりのなかに、彼にとって義満一行を小浜に迎えることがこのうえもなく晴れがましく、得意絶頂の心持ちであったことがよく表われている。 この将軍歓待によって一色氏は、若狭の人びとに守護としての権威を効果的に知らしめるとともに、将軍家との関係もより親密なものとし、幕府内における政治的地位を固めることができたと思われる
1408 応永15 満範、長年にわたり若狭守護代などを勤めた小笠原一族が三河で反乱を起こしたが、これを平定した。
1409 応永16 ・満範、正月6日没51歳。後、満範が死去すると家督争いがある。
小笠原明鎭父子を石川城に於いて切腹させる。

 父満範が死ぬると、兄の持範は吉原城にこもって、八田(もと加佐郡、現舞鶴市)にいた弟の義範と父の遺領を争った。丹後の諸将や領民はどちらに味方すべきかに迷った。その3月、後難をおそれた義範は、石川山城(与謝郡野田川町)にとじこめていた三河の陣代小笠原父子に切腹を命じる
1411 応永18 持範・義範(義貫)兄弟は仲直りし、11月義貫丹後若狭守護となる。
 兄持範は京都の北野に第(だい、邸宅)をつくって住み、名を義清と改めた。これを北野一色といった。弟義範も、この年、幕府の侍所の別当(長官)となって八田から室町の邸に移り、名を義貫と改めた。兄持範が三河、伊勢の守護となり、丹後を義範が領したとも、また丹後、三河、若狭を二人で分けあったともいい、或は丹後の東半分を義範がとって八田に陣代(代理)を置き、持範が相変わらず吉原山城(峰山町)に近藤、遠藤の二臣を陣代にとどめて奥三郡(中、竹野、熊野郡)を支配させたとも伝えられている
1414 応永21 一色義範(義貫)、応永28年(1421年)まで侍所頭人を勤める。
1417 応永24 一色満範の子、義範(義貫)、16才で伊勢北畠満雅討伐軍の総大将に指名され、将軍義持から旗・鎧・太刀を授けられ伊勢に発向して満雅を討。。
1418 応永25 義範(義貫)、十月には山城国守護に補任された  (『看聞日記』同年十月二十四日条)。このとき山城国守護代となって淀に入部した三方範忠の勢は三〇〇余騎であったとされ(同 同年十一月一日条)、京都における一色軍のおよその規模を知ることができる。
1421 応永28 義範(義貫)、将軍義持の命により山名時煕とともに赤松満祐の乱の討伐に活躍し、幕府内での地位を高める。
1423 応永30 義範(義貫)、持信兄弟、三河守護代氏家等、幕命により関東へ出陣する、鎌倉公方足利持氏討伐で将軍から旗を授かる。
1427 応永34 義範(義貫)、十一月の赤松満祐退治にさいしても将軍から旗を授かる。
1429 正長2 義範(義貫)、関東公方足利持氏への対処方について義教と対立する。
1430 永享3 義範義貫、義教右大将拝賀の式典に際して、供奉の行列の序列を巡ってトラブルとなり、供奉の責を果たさなかった。
 六代将軍義教の代になると、当初は御相伴衆として重きをなしたが、関東公方足利持氏への対処方について義教と対立し、永享2年(1430年)の義教右大将拝賀の式典に際して、供奉の行列の序列を巡ってトラブルとなり、供奉の責を果たさなかった。義教は義貫処分を断行しようとしたが、義貫に合戦の覚悟があると知れると幕府重臣が義教を諌め、処分は保留された
1431 永享
1432 永享4 義範(義貫)、永享4年(1432年)〜永享8年(1436年)にかけ侍所頭人に再任される。
1433 永享
1434 永享6 義範(義貫)、8月からは山城守護を兼ねる。
1436 永享8 義範(義貫)、大和の反乱鎮定にあたる。
 鎮定は長引き、その陣中にあった永享12年(1440年)5月15日早朝、義教の命を受けた武田信栄らにより討たれた
1438 永享10 義範(義貫)は幕府の命によって大和の三河の大僧正大覚寺義昭と南党越智惟道を討伐。
1440 永享12 ・5月15日将軍義敦は武田信宗、信賢兄弟に命じ、一色義貫、伊勢守護土岐世保持頼を大和陣中に於いて謀殺する。 義貫41歳。
 5月16日、一色敦親(義貫弟持信の子)、幕命により京都堀川の義貫の留守館を襲う。 守護代延永益信、国富兵庫助ら家臣20人余り討死。


・6月2日一色敦親丹後守護となる。

・この事件は将軍義敦が一色義貫の勢力が大きくなることを恐れて行ったものである。 義親は伯父を襲った訳である。  

・若狭は武田信賢に与えられ、一色氏の若狭政治は48年で終わった。
 (五月十五日、大和の国人越智氏らを討伐するため出陣していた義貫は、義教の密命を受けた武田信栄から朝食に招かれ、鴟(奈良県桜井市外山)の武田の陣所で襲われて自害したのである。このとき義貫に従っていた三方若狭守・同弾正の二人は最後まで奮戦して討死したという(『師郷記』同日条)。翌日京都では勘解由小路猪熊にある一色邸を接収するため義貫の甥教親が押し寄せ、留守を預かっていた家臣らとの間で激戦となり、義貫の家臣二〇数名が討死した(「東寺執行日記」)。一色氏の分国のうち、若狭と尾張知多郡は武田信栄、三河は細川持常にそれぞれ与えられたが、丹後および義貫と同時に謀殺された土岐持頼の遺領伊勢が一色教親に認められて(尾張国海東郡はこれ以前に失っていた)、一色家の断絶は免れた。教親は持信の子である。義教の持信重用の行き着く先が、ここにきて明確な形となって現われたといえよう。ともあれこうして「万人恐怖」といわれた専制将軍義教によって、若狭の守護は突然一色氏から武田氏へと替えられたのである。)
(武田信栄は余勢に乗じて、若狭の一色領を奪い、更に丹後に押し寄せて来たが、吉原城にいた持範の子、八郎持長は、陣代の近藤、遠藤を激励してよく防戦した。八田に立てこもっていた義範の家臣、領民また心を合せて持長の指図に従って戦い、武田勢はついに丹後に入ることを得ずして退却した)
1443 嘉吉3 丹後は大水にみまわれた。これを「嘉吉の洪水」といい各所に大きな被害が出る。

 加佐郡八田(舞鶴市)一帯は泥水に没する惨状で、時の守護一色義範は農民の難儀をみかね、丹後の一国の年貢を免じて領民を救った。しかし、義範は3年前、幕府の命を受けて討伐に向った武田信賢のために大和で討死しているので話があわない。これは義範のやったことでなく、或いは吉原山城にいた一色持長の計らいであったかも知れない
1445 文安2 義範の弟持範の子教親が丹後の守護になる。
1449 宝徳元年 義範(義貫)の子義直に丹後の国十万三千四百余石が与えられた。
1450 宝徳2 一色義直が丹後の守護となって、八田にその府(役所)を設ける。
 八田にその府(役所)を設けたが、彼はほとんど京都の室町の邸に住んでいた。義直の代官が宮津の館に駐屯して与謝郡一帯を支配していたものであろう。吉原山城(中郡峰山町)には義直の弟義遠が、従兄の一色八郎持長の後を継いで吉原四郎義清と名のり、奥丹三郡を治めていた
1451 宝徳3 ・義貫弟持信の子。一色教親33歳で急死
・一色義直、教親が急死したのち、その遺領である丹後と北伊勢の守護職を継ぐ。
1467 応仁元年 「応仁の乱」起こる。
・一色氏は丹後府中館に住むようになる。
 将軍義政には子がなかったので浄土門跡になっていた弟を還俗させて養子とし、義視(よしみ)と名のらせ、将軍の職をゆずることを約束した。義視の後見役(執事)を細川勝元に申しつけた。人々は義視のことを今出川殿と呼んでいたがその後間もなく将軍の奥方富子に義尚が産まれた。富子は実子義尚を将軍にするために山名宗全に後見を依頼した。細川、山名の両家は養子問題で不和となっていたが、畠山、斯波の両家の間も将軍家と同様、養子と実子の問題で紛糾(ふんきゅう)していた。これが細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両陣営に諸将が加担して三十万の大軍が都中で戦う原因となった。後土御門天皇の応仁元年(1467)早春から始ったので世に「応仁の乱」といわれている。 一色義直の妻は山名宗全持豊の孫娘であった。義直は早速、丹後、伊勢の兵を引きつれて山名の西軍に味方しその5月から戦闘に参加した。応仁元年9月、西軍が破れ、一色義直勢は総くずれとなって丹後に逃げようとしたが、敵に退路をふさがれて帰ることができなかった。しかしその翌10月にはかえって細川勢を鳥羽に破った
1469 文明元年 将軍義政は一色義直の領地を取り上げて、細川に味方する若州(じゃくしゅう)の武田信賢に与え、大和の陣の後、一色義範から奪った若州の一色領も、正式に彼の所領として認めた。
 武田信賢は直ちに丹後に攻め入り、八田の館をおとしいれ、余勢をかって奥丹後へ進もうとしたが、但馬から来た山名の援軍と合した一色義直は、武田方を普甲峠でうち破った
1471 文明3 武田信賢が病死し、丹後の守護は一時なくなる。
 一色義直は、丹後の守護の位を取り上げられたけれども、なお85ヶ城に将兵を配し、依然として丹後にゆるぎない勢力をもっていた。丹後一色党は八田に拠って口丹後を固めていたけれども、党主義直自身は殆んど京都の戦場にいた
1473 文明5 ・武田信賢の遺臣で、高浜の城主逸見(へんみ)駿河守はその隙に乗じて丹後に侵入し、加佐郡市場城の香川馬之助をたおして八田にながれ込んできた。  義直の弟、吉原四郎義清(義遠)は遠く吉原城(中郡峰山町)から駆けつけ、逸見勢をうち破った。逸見はついに一色に降り、かえって設楽(しらく)の城主としてとどまったといわれている
・将軍義政の後を承けて足利義尚が九代将軍となる。
1474 文明6 一色義直丹後守護に復帰。
1477 文明9 ・5月、幕府は北畠政郷に与えていた伊勢北半国守護職を義春に与えたため、伊勢において北畠軍と一色軍の間で合戦が起こり、北畠軍が勝利する。
・一色義直の三河領の守護代東条国氏(くにうじ)が反したので、吉原四郎義清は子の左京太夫義有(よしあり)を伴って出陣し、国氏を追い出し、義有を三河にとどめて引き返した。
・「応仁の乱」終わる。
(応仁元年以来11ヶ年にわたった「応仁の乱」も1勝1敗の中に、細川勝元、山名宗全の東西の両将が相ついで病死し、その他の諸将も戦いに飽いて故郷に帰る者多く、自然消滅の形で終った。一色氏にとっては、将軍家と仲直りができたばかりでなく、文明11年8月(1479)には再び丹後の守護に任じられ、伊勢の国さえ与えられ、同15年(1483)5月には四位の下に任官している)
1479 文明9 一色義春、北伊勢の守護に補せられる。ここに一色氏は旧領を回復した。
1483 文明15 一色義直、四位の下に任官
1484 文明16 ・義春、父義直に先立って病死し、義直を嘆かせ、また将軍義尚もその死を深く悲しんだという。
・義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。ただし若年であったせいか、この時は丹後守護職には父義直が就いている
1486 文明18 父義直は禁裏の意向により、知行地若狭国小浜を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。激怒した義直は直ちに丹後へ下向。
1487 長享元年 将軍義尚が近江の六角高瀬を討伐したとき、義秀、弟義遠(吉原四郎)と共に参加して軍功を立てる。
1489 延徳元年 ・将軍義尚没。
・同2年足利義稙が十代将軍となる。
1492 明応2 将軍義稙は越中の国に追われる。
1493 明応3 ・一色義直丹後の国人伊賀次郎左衛門の反乱の際に丹後に下向し、普甲山において国人衆に攻められて切腹したとされる
・細川政元は翌3年、足利義澄をたてて十一代将軍とした。
1497 明応7 細川政元、若州武田一族をそそのかせて丹後を犯させた。

 一色義直は再び普甲峠に武田勢と対陣したが、軍破れて討死し、妻も自害してしまった。勝ちほこった武田勢は与謝郡に攻め入った。急を知った吉原四郎義清は武田勢を迎え討ち、さんざんにうち破って兄義直のかたきをうった。こうして、吉原山城(峰山)に拠る吉原四郎義清は、傾きかかった一色党の安危を双肩に荷って目覚しい活躍をしていた
1498 明応8 ・一色義直の子、一色義秀、国衆の叛乱が相次ぎ、5月29日丹後国普甲山で国衆に攻められ自害して果てた。
・一色義遠の子、義有、自刃した先代の一色義秀の跡を継いで当主となった。
(国内は守護代延永氏が台頭するなどして混乱を極めた)
1051 明応10 細川政元、澄元(政元の子)らと計り、将軍義澄を説いて、武田国信の子大膳太夫元信を従四位若狭守に任じ、更に、丹後の守護をも兼ねさせる。
 武田元信は加佐郡に攻めこんで来たが、また吉原四郎のために追いしりぞけられた
1501 文亀元年 吉原四郎義清(一色義遠)は三河の国に止まっていた長男義有を呼びもどして、本家の跡を継がせて丹後の国王とする。
1505 永正2 丹後守護に義直弟義遠の子、一色義有が補任される。
1506 永正3 丹後の守護武田元信が細川澄元の支援を得てまた加佐郡に攻め来る。
 丹後ではこの年三月ごろ武田氏出兵がささやかれ(『宣胤卿記』同年四月一日条)、四月には元信が大飯郡中山寺に戦勝を祈願し(資9 中山寺文書一九号)、六月には管領細川政元の協力で出兵容認の御内書も出された(「御内書案」)。武田軍の行動開始時期は未詳ながら、武田氏の部将粟屋親栄は七月二十八日には由良川を越えて天橋立近くの神津(所在地未詳)に着陣している(『再昌草』)。合戦は八月三日に始まり、その日の戦いで武田方は大敗し数百人が討たれたという(『宣胤卿記』同年十二月七日条)。しかし、九月二十四日には援軍として入った丹波守護細川澄之勢と協力して如願寺付近の山城に夜討ちを敢行し、一色軍を破っている(資2 白井文書五号、「諸家文書纂」)。そののち戦闘は確認されないが、武田勢は在陣費用支給も滞るなかで丹後占拠を続けていたものと思われる(資2 白井文書六号)。翌四年四月、細川氏は惣領政元をはじめ重臣赤沢宗益らが大挙して武田氏支援のため丹後に下ったが、五月十一日の合戦でまたも武田方が敗北し、同二十五日には細川政元が上洛してしまった。さらに加悦城を攻めていた細川澄之の率いる丹波勢も城将石川直経と講和して帰陣した。ただ府中(京都府宮津市)では、今熊野城の一色義有本隊および阿弥陀ケ峰城の延永勢と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態のままであった(『多聞院日記』同年四月二十七日・五月二十五・二十八日条、『宣胤卿記』同年四月二十七日・五月十一日条)。ところが、細川政元が京都で家臣に殺されたとの報が六月二十五日に丹後在陣中の細川勢にもたらされたため、赤沢は一色氏と和睦し、翌日宮津城まで退いたところ、二十七日政元の死を知った石川氏らが挙兵し、普甲谷で再び合戦となった。ここで粟屋親栄や赤沢以下数百人の戦死者を出した武田・細川軍は、若狭・丹波へ退却せざるをえなかった(『多聞院日記』同年六月二十七日条、『実隆公記』同年六月三十日条、『再昌草』)。
1508 永正5 ・将軍義澄は近江にのがれ、前将軍義稙(よしたね)が再び征夷大将軍となる。
・一色義春が病死
1514 永正11 但馬の山名祐豊(すけとよ)が熊野郡久美浜に不意に乱入し、その機に乗じ若州の武田元信がまた普甲峠を越えて宮津に攻め込んで来た。
 吉原山城(峰山町)の越前守義信は熊野郡の氏家勢に下知して、9月8日、山名を撃退し兄一色義有は、上宮津の小倉、加悦の石川、和田の諸将を指揮して武田勢をむかえたので、武田方はなすすべもなく退却した。 それから間もなく一色義有は世を去り、一子義幸(よしゆき)が後を継いだがその年月日は明らかではない
1516 永正13 翌年にかけて同族一色九郎と争う。義清は加悦城主石川直経と、九郎は守護代延永春信と結び戦いを繰り広げたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。 丹後では、八月から内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失われるなか、義清を奉じる重臣石川直経と、義清の一族一色九郎を戴く守護代延永春信の両派が衝突したのである(「東寺過去帳」)。そして翌十四年三月ごろになると、武田元信は若狭にも「雑説」(不穏な噂)があるとの情報を得ている(資2 朽木家古文書四三号)。はたして五月ごろ延永勢が若狭に侵入し、大飯郡和田まで攻め込んだ。元信はさっそく越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、幕府に運動した結果、武田への支援を命じる御内書が出された(「御内書案」)。孝景は朝倉教景(宗滴)の率いる援軍を急派して六月中には延永勢を丹後に押し返し、倉梯城に包囲した。このころ、朝倉氏一族の景職や武田氏家臣の逸見・本郷氏らが大飯郡高浜城の防備を固める一方(資2 本郷文書一四八号、「当国御陳之次第」)、丹後では白井清胤らの軍勢が余戸(京都府舞鶴市)に展開するなど、攻勢を強めていた(資2 白井文書一〇号)。八月に倉梯城が朝倉勢によって陥落したあと(「御内書案」)、丹後加佐郡の延永与党が九月初旬ごろ国境を越えて若狭に侵入したものの、それも本郷氏らに討たれた(資2 本郷文書一四九号)。こうして武田・朝倉方は次第に延永方を圧迫していき、白井清胤が九月二十二日に堤篭屋城、十月十一日に吉沢城を攻めるなど(資2 白井文書一三・一四号)、戦線は西の竹野郡にまで伸びた。
 その後の交戦記録はなく、どのような形でこの合戦が決着をみたのか未詳であるが、武田氏はこの出兵で、加佐郡については一部地域に限られるとしても一定程度の実質的支配権を獲得したとみられる。そのことは、例えば永正十七年白井清胤が武田元信から加佐郡水間村(京都府舞鶴市)を安堵されていること、その清胤が大永二年(一五二二)に「加佐郡輪番人夫」の賦課を武田氏に申し入れていることなどからうかがうことができる(同一五・一六号)。こうして武田氏としては初めて出兵の成果を得ることができたが、加佐郡の人びとにとっては隣国大名の侵略・占拠に他ならなかった。
1517 永正14 石川城の一色義遠は、災厄の因(もと)を断つため、逆に若狭の武田元信を襲ったが、朝倉孝景の為に邪魔されて目的を果すことができなかった。
1521 大永元年 丹後の守護武田元信が病死し、子元光が職を継ぎ、室町幕府では、将軍義晴が十二代将軍となった。
1527 大永7 一色義幸の軍が若狭の国小浜の西津浜を襲う。  武田元光に撃退され、加佐郡で敗れたといわれている
1546 天文15 足利義輝が十三代将軍となる。
1547 天文16 若狭の武田元光の軍が丹後に攻めて来た。
 
1548 天文17 武田元光再び丹後に攻め寄せてきたが、また義幸のために追い返す。
1551 天文20 丹後守武田元光が病死し、その子伊豆守信豊が丹後の守護職を継ぐ。
1555 天文24 武田信豊が病死して、その子大膳太夫義純が丹後の守護となったが、一色氏の丹後の地盤は依然としてゆるがなかった。
1558 永禄元年
1560 永禄3 織田信長が今川義元を桶狭間(おけはざま)の戦で破り、その名は一躍有名になった。
1568 永禄11 足利義栄(よしひで)が三好、松永らにおされて十四代将軍となったが、美濃、近江を征服した信長は、足利義昭を奉じて都に入り、同年9月足利義昭を15代将軍の位につかせた。
1570 ・一色義幸の子で丹後の国主、義道、信長より上洛を促される。
一色七郎の謀反を信長に注進するとともに黄金十両を進上する。
・将軍邸完成の祝典に招かれ、能見物の席を連ねる。
(幕臣としての行動か)
1573 天正元年 ・将軍義昭は武田信玄を誘って、信長を挟撃しようとしたが失敗し、一度は赦されたが、再び反抗したので将軍義昭は捕えられ、河内の国に押し込められた。
・細川藤孝は将軍家を相手に抜群の功により、その7月14日、山城の国の桂川の西、長岡を与えられ、姓を長岡と改める。
1575 天正3 細川藤孝、丹波の国の船井、桑田両郡を追加される。
八月の越前一揆討伐戦の時、丹後より船で出陣し、越前の浦々を攻撃する。
・信長より一色義員丹後の守護に任じられる。 同じ足利の一族である一色義員は、藤孝のような世渡りは良心が許さなかったものか、天正3年(1575)信長から丹後の守護に任じられながら意思の疎通を欠くものがあった。
比叡山の僧や、足利の残党が彼をたよって逃げてきたのは、信長と義員の対立的な関係を察していたのがその理由であったのかも知れない。義員もこれをかばって丹後八十五ヶ城に配して国の守りを固めた)信長は、義道に再三反省を促したが、義員聞き入れず、丹後にひそんでいる比叡山の僧らはひそかに信長誅滅の祈祷まで行っているといううわさがひろがっていた。
1576 天正4 信長は新しく出来上がった安土の城に移り、中国征伐の作戦を練っていたが、丹波、丹後から目をはなすことができなかった。
1577 天正5 信長は明智光秀と細川藤孝を呼んで二人が協力して、ます丹波をうち、続いて丹後を平定してくれたら、丹波を光秀に丹後を藤孝に与えようと約束する。
1578 天正6 ・義員九月、信長に隋従して堺へ赴き、九鬼嘉隆の大船を見物する。この時同道したのは、公家の近衛前久と旧管領家の細川信良であった。
・長岡(細川)藤孝は、長岡、船井、桑田の勢を集め、その子忠興、興元とともに宮津に攻め寄せる。

1579 天正7 信長と決裂し、田辺城でも、矢野藤一郎ら加佐勢が義員を擁して立て籠もった。 

・結局時勢には勝てなかった為か、9月の頃に開城し、義員が一切の責を負うて切腹した。


・義員の子、一色五郎義定父の自害に伴って家督を継

・9月、信長検地で丹後は十二万三千石と定めこの内 五郎義定は大名なみの扱いで、信長の臣下になった。
 10月信長が明智光秀と細川藤孝に命じた両丹の計略は完了した。信長は丹波を光秀に丹後を藤孝に与える事を約した。

 この両丹の計略は一色義員にとっては、全く心外なものであった。天正3年(1575)信長への協力して度重なる戦功によって、丹後は再度一色領と認められているのに、攻めこまれたのでは面目が立たない。抵抗した加悦の石川氏と宮津の小倉氏は天正6年(1578)攻められ自滅してしまった。 吉原氏は藤孝入国直後の天正8年(1580)8月城を攻められ切腹している。
 田辺城でも、矢野藤一郎ら加佐勢が義員を擁して立て籠もった事が考えられる。 結局時勢には勝てなかった為か、7年9月の頃に開城し、義員が一切の責を負うて切腹し、部下を助けたものと思われる。


七月、明智光秀・長岡藤孝に攻められるが、やがて藤孝の娘を娶るという約束で講和する(一色軍記)。
1581 天正9 二月二十八日義定、長岡(細川)兄弟とともに馬揃えに参加する。

一色義俊(義定)、細川藤孝の娘、名を伊也の方と結婚する。忠興、興元の妹。
 これから丹後八十五ヶ城の将士は田辺と弓木に日勤することになり、丹後はしばらく戦火の苦しみから解放された
1582 天正10 ・本能寺の変
・9月8日 丹後の一色五郎が又、武田元明同様光秀加担の疑いで秀吉より切腹を命ぜられ宮津場内三の丸の米田屋敷(現一色稲荷)の場所で自刃したものである。 
 実のところは伊也と五郎の仲人でもあり同族でもある光秀に対する近親感はあったかもしれないが加担したとは考えられない
1584 天正12 細川藤孝父子は加佐郡大内山に移り、八田に城を築く