源 義国(みなもとの よしくに) 
寛治五年(1091年)? - 久寿二年(1155年))


 平安時代後期の武将。河内国(大阪府)を本拠地とした河内源氏の源義家の三男(異説あり)。母親は藤原有綱の息女。通称は「足利式部大夫」「荒加賀入道」。これらは官職の式部丞、加賀介に由来する。最高官位:従五位下。官職:帯刀長、式部丞、加賀介。幼名は普賢丸。

源義家の三男義国は、父義家から伝領したとされる下野国足利郡(現栃木県足利市)を安楽寿院・伊勢神宮にそれぞれ寄進して足利庄・梁田御厨を立券し、経済的基盤とした。

 義国二男義康は父義国の地位を引き継いで鳥羽院に仕え、保元の乱では後白河天皇側として源義朝・平清盛と並ぶ武将として崇徳院側に襲撃をかけて武功を挙げた。


源 義国と足利荘の起こり


 
足利と源氏の係わりは、その子(三男あるいは四男)義国〔1091〜1155.65歳〕に始まる。義国は、

父義家がおそらく下野守であったときに拓いたと考えられる足利の地を譲り受け、康治元年(1137)、

彼はこの地を北面の武士として仕えた鳥羽法皇〔1103〜56.54歳〕の御願寺である安楽寿院に寄

進して「足利荘」として立券した。又、隣接する簗田の地も伊勢神宮の御厨(みくりや)として寄進したが、

既にこの地帯に足利郡司として勢力を張っていた藤原秀郷流の足利家綱(藤姓足利氏という)と、その

領有権をめぐって争った結果勝訴し、ここに足利荘と簗田御厨を併せた地域に地盤を築くことになった

。 こうして義国と足利の関係が始まるが、しかし義国は元来中央貴族日野家の一門の中宮亮藤原有

綱の娘を母とし、京都で生まれ育ったいわば都の武士であり、足利で居住することはなかったのである

が、久安六年(1150)宮中参内の途中でのトラブルが基で天皇の勅勘を蒙り、以来下野足利の「別業

(べつごう)」(居宅のある私領)に引きこもったという。 義国は従五位下式部丞になっていたので、足

利式部大夫と呼ばれ、久寿二年〔1155〕六月二六日に卒去した。