予州一色党と大坂冬・夏の陣
   三津屋・周布・明理川・壬生川大庄屋の始祖達
  ◎●大坂冬の陣、夏の陣では代官一色重次の長男重政率いる予州一色党二百余人が参戦し尼ケ崎で重政・重光が戦死したと伝承されている。

※これより麻田藩図譜より転写)

◎大坂城 冬・夏の陣での状況 
 
慶長19年(1614)、徳川家康は豊臣家攻略に王手をかけた。10月には、方広寺鐘銘事件を契機として大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は籠城戦と決したが青木一重ら七手組頭は開戦にも反対したといわれる。11月には大坂城下と周辺で戦闘が行われ、同月26日の鴫野(しぎの)・今福の合戦(大阪市城東区)は再激戦となった。
 

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◎大坂の冬の陣図屏風 (部分、課鴫野(しぎの)・今福の合戦

 慶長19年(1614)11月26日早朝、大坂城北東の大和川南岸鴫野(しぎの)に徳川勢佐竹義宣・上杉景勝(右上)勢力が来襲し、北岸今福に砦を構えた豊臣方との間で攻防がなされた。  一重も北岸から川を渡り徳川勢と戦っているはずである。 この絵から激闘の雰囲気をつかんでほしい。


 青木一重と養子の青木正重は最初初天満口に陣をおき、北の長柄(大阪市北区)方面からの敵襲に備えていた。ところが徳川方の佐竹勢などが大阪城の東北にあたる大和川南岸の鴨野村に進軍してきたので、北岸の今福村から大和川を渡り、川を背に着陣して敵を迎え撃った。
 
 川を渡るべきでいないという味方の意見もあったが、一重は川を前にして敵と対峙するのはよい軍略ではないと押し切ったと、軍記「宗忠家之記青宝遠録」に記されている。 「駿府記」によれば、その後一重は大坂城内から家康に密書を送り、直後家康は一重の弟で家康に仕えていた青木可直(よしなお)らに命じて、大坂城天守に向けて鬨(とき)の声をあげさせ威嚇の砲撃をした。 これは豊臣方の戦意をそぎ、和平への流を作った。
 同年12月に豊臣・徳川間で講和が成立すると、一重は豊臣秀頼の和議礼謝の使者として、淀殿の使者大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)らと共に駿府(静岡)の家康のもとに派遣された。 豊臣領の年貢収納に家康の助けを求めるも、使の目的の一つだった。 ところが家康は最初名古屋、ついで京でと返答を引き延ばししつつ、軍勢を率いて西へと向かった。 一重も京まで引き返したところで京都所司代板倉勝重に捕まり拘禁された。
 慶長20年4月には豊臣・徳川の最後の戦い、大坂夏の陣が始まった。 京では動けない一重のかわりに、正重が七手組頭として出陣した。
 5月7日の天王寺・岡山合戦において、正重など七手組勢は天王寺に陣を置いて奮闘した。 その様子は「大坂夏の陣図屏風」(写真1)に描かれている。
 同日深夜、大坂城天守閣が炎上し、豊臣氏は滅びた。 それを見た正重は、「軍(いくさ)はこれまでだ、生きのびて時節を待て」と言って、組を解散した。  自らは淀川を渡ったところで豊島領の庄屋岩田藤右衛門に助けられて戦線を離脱し、伊予領の一色氏のもとに潜伏した。
 しかし家来のなかには淀川で溺死した者もおり、伊予の一色重光は敗走中に尼ケ崎で戦死している。

◎青木一重 徳川大名となる
 大坂落城後青木一重は頭をまるめて恭順の意を示していたが、元和元年(1615)7月に伏見城にあった徳川家康に召しだされて再出仕を命じられた。  一重には旧領一万石余りに加え、父重直の遺領牧之庄平尾・西小路・牧落・桜村(箕面市)の4か村、兎原(うはら)郡(神戸市中央区)も安堵された。 ここに一万二千石を領する徳川大名青木一重が誕生する。
 一重と青木可直の嘆願により、青木正重も徳川家に敵対していたことを許されたが、出家して小寺宮内右衛門道伯と名乗り、牧之庄に隠棲した。  彼は84歳まで長生きして、検地や年貢収納など初期の藩政に重要な役割を果たした。
※ここまで麻田藩図譜より転写)


◎伊予国からの大坂の陣に出陣した大名
 
  豊臣家最後の戦となった大坂の役が勃発した慶長19年(1614)の伊予国の状況は慶長5年の関ヶ原の戦いにおいて豊臣方に味方した来島通総や安国寺恵瓊等の豊臣大名は領地を没収され、豊臣大名であったが関ヶ原の戦いにおいては徳川方に味方した加藤嘉明、藤堂高虎が実質支配していた。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、伊予国からは嘉明が豊臣恩顧の大名であったため江戸城留守居となり、嫡男・加藤明成が代っての出陣した。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では嘉明が出陣し、二代将軍・徳川秀忠の軍に従い、黒田長政と共に秀忠軍左翼に陣をしいて戦い武功を挙げた。

 
◎豊臣方として出陣した一色党 
 三津屋・周敷村周辺は嘉明の領地であったがそこから一色党が豊臣方で参戦したこれは豊臣家家臣である青木一重の支配下にいたからに他ならない、青木一重は天文20年美濃国に生まれ、徳川家康の家臣となり姉川の戦いで越前随一の猛将と知られた真柄十郎左衛門を討ち取って織田・徳川連合軍の逆転勝利の突破口を作り、その勇名を天下に馳せた人物である。
 
 その後一重は、豊臣秀吉の旗本の黄母衣衆で使番を勤め七手組と呼ばれていた豊臣親衛隊の大将の一人となり秀吉亡き後秀に仕えたが七手組親衛隊は秀頼の身辺を護ることが任務である為関ヶ原の戦には彼らは出陣することは無かった為徳川家康からの領地没収は免れていたようである。
 
大坂の陣図屏風(一部)・・・クリックで拡大・・・
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  ◆青木軍団の旗印と一色党と思われる武将(よろいや陣笠に二引き紋を付けた兵)の姿がある
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 三津屋龍敬神社にて一色党三津屋出航の日である5月8日(新暦)を毎年の祭日として集う一色家子孫  

 
◎三津屋龍敬神社
 慶長19年5月8日大坂の夏の陣に一色右馬三郎の孫、重光、重政らが軍平200名を率いて向かった船溜まり跡が見つかった、場所は 三津屋大曲川河口(東側)付近で東西15間、南北33間の船溜である。
 船溜の北側(一色家所有)に龍敬神社がある、明治38年、三津屋の一色喜作が日露戦争の凱旋記念を祝した後「龍毛神社」を「龍敬神社」に改た、現在も一色家の守り神として喜作の子孫一同がお祀りをし一色党三津屋出航の日である5月8日(新暦)を毎年の祭日にしている。
 龍毛神社として当時から御鎮座地されていたのであるから一色党の軍平達も戦勝祈願をしたのではなかろうか?

 
◎一色党の大坂冬・夏の陣参戦番外編 一色又三書状 (二神系譜研究会の調査より)
  ◆天明時代の初期に壬生川庄屋一色又三が友人の中川権平に宛てた書状で風早地区の片山二神家文書に収録されているもので二神系譜研究会で発見し現代語訳されたものです。
 一色又三は壬生川大庄屋一色範江の後を明和12年(1765)に継いで壬生川村大庄屋となった又三は始祖の歴史を残したく仲の良い友人を介し。風早(現松山市北条)の二神家に大坂の陣へ出陣の事を尋ねる手紙である。  文面から見ると当時二神家とは深い縁があったようで二神善右衛門が家臣2名を連れ一色党として参戦したことがわかる。
 河野家が滅亡するまで風早二神家は来島村上氏(通康・通総)の城代を務める等島方衆の一大勢力を有していた。

 
◎三津屋一色氏系図伝書略記によれば 
 木屋一色元祖重元、 二神善右衛門重元 慶長19年(1614)冬、重元もまた一色党に伴い大坂に入城せんと欲す。 すなわち風早郡を発して三津屋に来たれば、すなわち一色党すでに出帆す。 重次(一色右馬三郎の次男)其の頃、重政・重明のほかに子なし。 よりて強いて善右衛門をとどめて養子となす。
 舎兄重直の女を請うて配す。 元和元年(1615)夏の陣に重明は傷寒を病み出陣せず。 幸いに命を全うするを得る。 のち重明は当家を嗣ぐ。 善右衛門重元は本姓に復し、三津屋に住す、善右衛門重元は孫兵衛ともいう。 寛文3年(1663)1月3日卒92才。墓は水取(墓地移転の為、現在は一色右馬三郎と同じく新開墓地に眠る。


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二神文書に残る又三書状
◆天明時代の初期に壬生川庄屋一色又三が友人の中川権平に宛てた書状で風早地区の片山二神家文書に収録されているものです二神系譜研究会で発見し現代語訳されたものです。
一色家累世勤仕緑
◆明和二年(1765)に庄屋、安永三年(1774)大庄屋格、安永九年(1780)大庄屋格のままで、庄屋役は喜多台村庄屋、長井源之衛門の預かりとなる。「天明八年まで」

 


予州壬生川の一色祖

 一色右馬三郎範之(重之)
天正八年(1580)当地に来る

三男 次男 長男
 重虎 
弥五郎
周布村庄屋
青木民部より刀一振と茶入れ
拝領

慶長2年8月15日病死
(1597)
 重次 
弥兵衛

初代
 三津屋大庄屋


寛永4年四月23日病死
(1627)
 重直 
右馬助・喜兵衛

(周布村)
村長(郡代官)


寛永16年9月七日歿

(1639)

長男
重広

新居郡
萩尾村居住
重信

周布郡
周布村居住
重政
(郡代官)
享年25歳
慶長19年
(1614)

大阪の役戦死


 重明
(郡代官)
●二代目
三津屋
大庄屋
万治元年
(1658)歿

重明 五男
(新兵衛)
範好

(重好)
●明理川 庄屋祖
1684より
●壬生川大庄屋祖

宝永4年(1707)歿


新兵衛は明理川
一色本家に鎮座する
若宮神社に
祀られている

 重昌
(市兵衛)
周布村
大庄屋祖



寛文5年
(1665)歿
重勝
(周布村)
佐左エ門
村長(郡代官)

北条の庄屋
延宝3年
(1675)
 重光
吉次郎

慶長19年
(1614)
大阪の役戦死

享年25歳