成相山展望所より天の橋立・宮津市内風景 パノラマ
 
 一色氏が190有余年守護として統治した丹後・丹波国の末期をタイムハンターしてみると其処にいたのは織田信長の家来達であった、戦国一の知将であり主君信長を本能寺で討った明智光秀。
 
足利家・信長・秀吉・家康とめまぐるしく移り変わる戦国の世を類い希なる才知でくぐり抜けた近世細川家の祖、細川藤孝(幽斎)。
 
武将、大名として活躍し、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた、細川忠興、妻ガラシャ。
 
そして最後まで足利将軍家に忠誠を尽くした丹後守護一色義員と藤長。
 
彼らは元々足利将軍家の家来であって義昭を次の将軍に擁立するべく奔走した仲間であり親戚関係でもあった。
 
ガラシャは明智光秀の娘であり 細川忠興妻となった 仲人は織田信長であった。
 
細川藤孝の娘、伊也は一色五郎の妻で仲人は明智光秀である。
 
このように姻戚関係であるにもかかわらず義昭と信長の対立等により彼らの立場は微妙になり足利家への恩義と一方では織田信長に気に入られなかったら生き残れないという現実のジレンマで苦労したであろうと想像できる。
 
「天下布武」の名のもとに天皇家から権威を奪おうとした信長を本能寺で討った明智光秀は天皇家を危機から救い国体を存続させたヒーローといっても過言ではない人物ではあるが・・・・
  
 もし「天下分け目の合戦」に細川家が明智に加担いしていれば、もし毛利家が明智に付いていたら秀吉の天下は無く丹後一色家も断絶しなくてすんだのだろうと考えると一色ファンとしては残念でならない。
 
京の都に近い丹後国・丹波国は色々な意味でも大きな役割を果たしたのであろう。