丹後守護
◆七代 義有(よしあり)

 長享元年(1487)生まれ。 父は一色義秀を思われる。 

 
五郎・左京大夫・丹後守護(守護代は延永晴信)

 文亀3年(1502)一色義直が卒した72才であった。 

 義直の死によって守護代延永と加悦の石川(石河)の抗争が激しくなり、守護の相続をめぐり石川を助けて若狭の武田の介入が露骨になってくる。

 義有が守護につくと武田の要請で将軍義澄は義有の守護の罷免して武田元信に兼任させることを命じたが、義有方にはこれを拒否している。

 永正3年(1506)武田元信は管領細川政元の援を受けて丹後を占領しようとしたが、一色勢は義有を守ってよくこれを阻んだ。

 元信の要請によって政元は更に丹波・山城・和泉・摂津等の勢力を動員して丹後へ下し、ここに幕府総がかりの大乱となった。 これが「永正の変」である。

 4月7日細川政元は養子の澄之を丹後に出勢させる。

 5月丹波の守護代内藤貞正・波多野元清らの丹波勢・賀屋城(加悦)を攻める。

 6月16日栗屋左衛門親栄・逸見昌清らの若狭勢奥丹後へ攻め入る。

 8月3日普甲山の合戦。栗屋親栄討死する。

 8月26日白井石見守清胤(小浜加茂城主)らの若狭勢奥丹後へ入り、丹波郷土居地(寺カ)の合戦。

 9月22日宮津城・府中城の合戦。 小倉の臣大木新兵衛討死。
 この日賀屋城・府中城の合戦。武田勢成相寺へ入って対陣する。

 10月11日竹野郡吉沢城の合戦。郷士坪倉家の奮戦により敗退。これ以後の奥丹後攻めはあきらめる。

 永正4年(1507)2月 赤沢宗益(山城三郡守護代で比叡山・大和の多武峰・法華寺の焼討の猛将)を丹後に下向させる。

 3月16日若狭の白井清胤、府中今熊野城と阿弥陀峰城を攻める。

 6月23日細川澄之と薬師寺長忠・香西之長・同6兄弟ら、京において父細川政元を暗殺する。政元42才。
 澄元近江へ逃亡する。

 6月26日元信ら若狭勢は成相寺を脱し、日置浜より海路若狭へ逃げ帰った。殿(しんがり)を承った赤沢宗は宮津城より普甲山を越えて京へ脱出図るも、さきに降伏した石川直常に阻まれ古市丹波・和久掃部ら数百人と共に討死(文殊堂へ返して切腹説有り)した。

 8月細川澄之は丹波より上京して管領家を継いだ。


 永正5年(1508)4月前の将軍義植(よしたね)が上洛し、現将軍義澄は近江へ走った。

 同年7月義稙が再度将軍となった。

 永正6年5月義稙は、義澄党の討伐のため、一色義有に上洛を即したが義有は丹後の義澄党に支えられていたので
上京をしぶっていた。

 永正8年(1511)7月、幕府よりの重なる上洛の命に義有はついに上京、摂津と河内へ出陣した。

 ●永正9年(1512)7月9日 一色義有府中の守護所で病死。26才であった。 かねてから病弱であったらしい