丹後守護
◆五代 義春(よしはる)

 文正元年(1466)生まれ、義直の長男

  
文明6年(1474)閏5月9才で幕府へ出仕する。 同年准后義政公、五郎義春を引見し、丹後の旧領を還付する。義春四職の内也。

 ●五郎・修理大夫・左京大夫・相伴衆・丹後・北伊勢守護、夫人は山名宗全の長男教豐の娘
 
 
文明6年(1474)閏5月7日今出川殿(足利義視)一色知行の分国各忠によって拝領の沙汰出来す。三河は讃州(細川持常)拝領、伊勢と丹後は一色五郎義春に給う、次に若狭は武田(国信)に拝領と云々。
 
 
文明6年(1474)足利義政は伊勢半国を義春に返付するように国司北畠政郷に命じたが容易に渡さず、ようやく同11年(1479)8月になってから政郷が罷免されて義春の手に戻った。
 
 文明8年(1476)将軍義政は三河の手に一色の旧領を改めて義春に与えたが、細川成之(将軍の甥で養子)はこれを拒んで渡さなっかた。
 同年9月義春は三河へ出兵して守護代東条近江守国氏を討った。
 
 文明9年(1477)義春は北伊勢を攻めて奪還を図ったが北畠政郷に敗退した。

 
 ※この年応仁の乱が鎮静したが幕府のお膝元である京都が戦場となったことで室町幕府の権威は失墜し以後日本は戦乱の時代を迎えることとなる。
 
 文明10年(1478)一色義遠・政具ら一色勢は三河を放棄して京都へ引き上げ、久世郡の槇島城へ入った。
 
 ●文明16年(1484)9月4日義春19才で急逝した。