丹後守護 (一色氏と田辺城の終焉)
◆九代 義員(よしかず)

 一色議員は丹後一色氏の中では全く埋没していて戦記物等で義幸・義道など架空の人物が登場、史実もまた捏造されたものが多い。 

 義員は三河一色系の出とみられ、永正14年の変で義清と戦った一色九郎説あるいわ血筋を引く縁者と思われる。
 愛知県知多市西屋敷の臨済宗法音山 慈光寺の系図に 義範 → 義遠 → 義長 → 義員 → 義定 とあり、知多市の龍雲山の大興寺の系図にも義遠四代孫左京大夫義員其の子義定とある。

 義遠については眞木島系図に 一色義遠 城州住槇島 後年性改槇島とあり(文明10年(1478)三河より上洛したことがのせられている。義員はここで生まれたと想定される。 員の名はかつて義遠がいた北伊勢の員弁郡(いなべ)よりとったものと思われる。

 義有が病死した際に継子がなかったので、伊賀らが謀って丹後に移し庇護し、その成長を待ったものと思われる。

 
永禄6年 諸役人付  光源院殿(将軍足利義輝)御代
  御供衆 一色式部少輔  藤長
  外様衆 大名国衆号国人 
      丹州 一色左京大夫(義員)
       
 永禄6年 ここにはじめて藤長の名前がでてくる。 一色藤長はこの頃義員の補佐役であった。

 永禄8年(1565)5月将軍義輝が松永久道・三好吉継に攻められて、二条御所で討死した。30才

  同年7月義輝の弟覚慶(後の足利義昭)は奈良興福寺一乗院より近江の矢島郷へ逃れた。一色藤長らがお供をした。

 永禄9年(1556)8月義昭は越前金ヶ崎城へ動座した。 一色藤長と一色昭光(宇治槇島城主))らがお供した。
 その後義昭は金ヶ崎より越前の朝倉義景を頼り、一乗谷の安養寺は入った。藤長らがずっとお供している。

 同年11月加悦の石川氏が一色を離れて丹波の波多野らと通じ、毛利に味方することを申し入れている。

 一色氏は既に織田信長に味方する構えを見せていた。

 永禄11年(1568)9月足利水軍義昭は織田信長の援をうけて上洛し10月十五代将軍に任じられた。

 同年4月、織田信長が丹後の一色義員に、信長に組みしてして国衆を率いて上洛するよう促した。

 永禄12年(1569)正月17日 織田信長より正月の祝賀に義員が信長に贈った献上品に対する礼状が届く。

 同年、丹後勢は信長の命で、先に焼かれた室町御所の替りに、二条勘解由小路室町館の新築工事に出役した。

 永禄13年(1570)4月20日信長は越前朝倉義景討伐の兵を起こした。 一色藤長が丹後へ帰って出陣の指揮を取ったが、義昭の側近である為自らは出陣を取り止めた。

 同年4月25日、一色義員は藤長に替わり丹後水軍数十艘を率いて越前金ヶ崎を攻めたて所々浦々に放火した。しかしこの時信長は長勢は後詰めの羽柴秀吉に護らせて敗退した。

 天正3年4月丹後勢は河内へ出勢して高島城・新堀城・誉田城に三好党を攻めた。

 5月丹後勢長篠の合戦に出勢する。

 8月義員は矢野藤一郎光長(田辺城代)櫻井豊前守左吉郎(佐波賀城主)大島但馬守長光(田中高屋城主)らが加佐水軍を率いて田辺を出帆し、10月下間和泉守・筑前守頼照・松浦法橋ら越前一揆勢を攻めた。
 これらの功績により義員は信長より改めて丹後を与えられた。
 
 9月28日吉川元春の勢、尼子勝久の居城丹後由良城を攻め落とす。
 
 同年9月信長は萩野・波多野の勢力を排除する為に細川藤孝に丹後・丹波の経略を命じた命じた。

 天正4年(1576)2月足利義昭は紀州興国寺より備後鞆は動座し、毛利の援を受けて上洛を図った。お供の一色昭光や藤長がこれがため奔走した。

 5月加悦の石川弥七郎繁俊は吉川元春に書を送り、毛利に加勢する事を約して毛利の乞いにより出陣した。

 8月丹後の一色義辰(竹野郡代)が吉川元春に対し、義昭が丹後をへて上洛する場合にはその通路を確保する旨一色昭辰に申し出ている。

 10月丹後・但馬の国人が波多野に叛して一揆を起こした。 同時に明智光秀と細川藤孝が丹後へ攻め入ったが本願寺光佐が挙兵したので引き返した。

 11月義昭は毛利・萩野らの援を受け、但馬・丹後・丹波より上京して室町幕府の再建を図ろうとしたが「時期尚早」と藤長が同意しなかった為、結局実現しなかった。

5月丹後勢長篠の合戦に出勢する。

 天正5年10月光秀と藤孝は再び丹後へ入り、賀屋城を攻めた。

 天正6年3月丹波黒井城の萩野直正が病死した。50才

 4月この機を失せず光秀と藤孝は丹後へ攻め入って萱城を攻めこれを陥した。この後両人は引き返して上月城を攻めた。

 7月上月城が陥ちて尼子勝久・は自刃し山中幸盛も暗殺されて尼子氏は滅んだ。 勝久26才、幸盛39才であった。

 10月光秀と藤孝は三たび丹後へ攻め入った。11月宮津の小倉一族はこれを阻止して敗死した。

 天正7年(1579)5月波多野宗長の守る丹波の冰上城が陥ちた。

 6月光秀と藤孝は丹波八上城と攻めた。城主波多野秀治は降伏の後磔刑に処せられた。

 7月光秀と藤孝は丹後へ入り嶺山城と弓木城を陥し、沼田氏(若狭熊川城主)をして田辺城を攻めた。義員は田辺城に籠城した。

 8月16日義昭は田辺籠城軍に対してその功を称え褒状を与えた。 義員は義昭の上洛に呼応してその通路を確保したものである。 結局上洛は中止となった。

 8月丹波の黒井城が落城して赤井忠家と幸家が降伏した。

一色義員らが上洛の通路を確保してこれを助けようとしたが、ついに果たせなかった。

 10月信長が明智光秀と細川藤孝に命じた両丹の計略は完了した。信長は丹波を光秀に丹後を藤孝に与える事を約した。

 この両丹の計略は一色義員にとっては、全く心外なものであった。天正3年(1575)信長への協力して度重なる戦功によって、丹後は再度一色領と認められているのに、攻めこまれたのでは面目が立たない。抵抗した加悦の石川氏と宮津の小倉氏は天正6年(1578)攻められ自滅してしまった。 吉原氏は藤孝入国直後の天正8年(1580)8月城を攻められ切腹している。
 田辺城でも、矢野藤一郎ら加佐勢が義員を擁して立て籠もった事が考えられる。 結局時勢には勝てなかった為か、7年9月の頃に開城し、義員が一切の責を負うて切腹し、部下を助けたものと思われる。