丹後守護
 ◆四代 義直(よしただ)
 
 永享3年(1431)生まれ。 宝徳3年(1451)12月20才で家督を継ぐ。
 
 四国に配流しられた義貫の子の内ちの一人、弟に義遠、政氏らがいる。他の多くわ大和陣で討死した。
 
 三代 教親に子がなかったため丹後の守護を継いだ。 守護に任じられたのは将軍が義政に変わったことにより可能になった為である。

 左京大夫・修理大夫・相伴衆・侍所頭人・丹後・北伊勢・尾張知多郡・三河渥美郡の守護・若狭税所今富庄領主等歴任。
  武人としても歌人としても名高く、絵画や書道にも秀でていた。
  
 応仁記によると応仁元年(1467)将軍家の継子問題をめぐり細川勝元と山名宗全が対立し、東軍・西軍と称し応仁の乱が起き一色義直の娘は宗全の三男に嫁しており、長男義春の婦人は宗全の娘であった関係で山名方について西軍の大将となった、若狭の武田と丹波の細川は東軍に味方した。
 
「応仁の乱」東西両軍に参加した守護大名や豪族、主に応仁4年(1470年)頃の勢力

◇東軍

守護大名
細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
畠山政長:越中・(河内)
斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
山名是豊:山城・備後
武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
今川義忠:駿河
富樫政親:加賀半国
北畠教具:伊勢半国
大友親繁:豊後・筑後
少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
菊池重朝:肥後
島津立久:薩摩・大隅・日向
豪族
小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

?西軍

守護大名
山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中
一色義直:丹後・伊勢半国
畠山義就:河内(紀伊・大和)
畠山義統:能登
斯波義廉:越前・尾張・遠江
小笠原清宗:信濃
土岐成頼:美濃
六角高頼:近江半国
河野通春:伊予
大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
豪族
吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など
 

 5月26日義直館は東軍武田信賢や細川成之に攻められて炎上した。当時義直館は相国寺の館の西にあって「裏築地の館」と呼ばれていた。
 
 義直に従ったのは弟※義遠・五郎政氏・七郎政熈ら丹後・北伊勢・尾張・土佐の勢5000騎で、三河の同族東条氏や若狭の武田信賢・国信は東軍に組みして一色領今富庄は武田に奪われたが文明5年3月山名宗全が卒し次いで5月には細川勝元が卒したので応仁の乱も休戦状態となり翌年和解してようやく大乱も集結した。
  
 応仁の乱の後は、将軍や守護大名の没落を促進し、真の実力者の身分上昇をもたらし下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。

●義直72才 文亀3年(1503)卒と思われる。
 
※一色義遠は義貫の子で義直の弟、御部屋衆・兵部少輔・御供衆を歴任し尾張知多郡の分郡守護となり大草城主。この頃三河設楽郡一色保
、170町、北伊勢員弁郡一色庄950町などが領知としてみられる。
 九代丹後守護義員、伊予祖一色右馬三郎に直結した人と思われる。
   系譜によれば下記の通り   
   満範  →  義貫 → 
義遠 → 義長 → 
十代丹後守護 義員(ヨシカズ) → 右馬三郎範之(重之)