丹後守護
◆八代 義清(よしきよ)

 五郎・左京大夫・義直の三男で兄(義秀)と共に南禅寺に出家していた季岳の子。 

 
母は若狭守護武田元信の娘である。
 
 季岳は義秀の弟で兄と共に南禅寺に出家していたが丹後守護が断絶しそうになったので、還俗させて丹後に迎え、守護につけようと画策したが、夫人が若狭武田の出である為国人の猛反対にあい、止むを得ず病気と称して石川城に隠居させ、子の義清を府中に入れて守護につけた。

 若狭から守護を呼ぶなどということはあり得ないことであるが石川直経が将軍義植や細川澄元の支援を得し強引したものである。 このことは後で丹後国内に大乱を呼ぶことになる。

 一方延永春信が三河国系の一色家から九郎を丹後の呼び、家督を継がせようとした。

 永正9年(1512)7月9日 一色義有府中の守護所で病死したのを期に一色義清と一色九郎との間で家督争いの状態となり、義清の守護代が石川直経、九郎の守護代が延永春信となり、守護が二人もいるというような並立状態となっていた。

 永正12年(1515)からついに内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失 われるなか、一色義清を擁立する重臣石川直経と、一色九郎を擁立する守護代延永春信の 両派が全面衝突したのである。

この戦いでは、延永春信が石川直経に勝利し、直経を加悦の安良山城から追い落とし、直経は加佐郡まで退散してしまった。  この争いで、数百人の死者がでている。

 永正元年(1504)義清は将軍義稙に拝謁して献上品を贈り、これに対し将軍より太刀を一腰下賜された。

 永正11年(1514)3月若狭勢が普甲山を攻め、加悦の和田・日置等が討死した。 武田元信が義清を支援する為の行動である。 この頃から義清を除こうとする延永と義清を擁護する石川との紛争が強くなってきた。

 永正12年(1515)延永春信は義清を廃して一色九郎なる人物を守護につけようと画策し、石川や武田らと争って国内が錯乱してくる。

 果然延永春信は義清を府中の守護所より追放したので、義清は石川義経を頼って加屋城へ走って籠城した。

 永正13年8月一色義清と一色九郎合戦する。伊庭貞説敗死
 ※伊庭貞説は近江守護六角氏網の家臣で義清の加勢の為出陣していて敗死した。

 
永正13年(1516年)から翌年にかけて一色義清は一族の一色九郎という人物と争いました。義清は加悦城主の石川直経と、九郎は守護代延永春信と手を結び戦いを繰り広げました。

 永正14年(1517)6月2日春信は加屋城を攻めてこれを陥したので、義清と直経は若狭へ走った。これを追って延永春信は若狭へ入り、寝返った高浜の逸見国清と組み、八千騎をもって和田の岡本主馬介を葬り小浜へ迫った。

 この時、武田元信は援を幕府に求めた為当時の将軍、足利義種は、越前朝倉孝景と同教景に延永を攻撃するように命じた。又、近江の朽木植綱・伊庭氏らが加勢したので、延永らは加佐郡倉橋城へ退いて籠城した。

 同年8月丹波の内藤筑前守守国も武田が加勢した田辺の河辺へ攻め込み、さらに倉橋城を包囲した。九郎に味方していた高浜の逸見国清が討死し敗色が濃くなったので、延永春信は降伏して開城したが助命された。

 同年9月義清・石川直経らは丹後国に帰国した。

 永正16年(1519)2月将軍義稙は義清の年賀祝儀の返礼に太刀一腰を贈った。

 大永元年(1521)8月一色九郎が足利義晴に太刀一腰を献上した。 12月若狭の武田春信が卒して元光が継いだ。又、中央では義晴が将軍となった。

 大永3年4月足利義稙が卒した。

 大永5年(1525)5月 若狭勢が丹後をせめた。 9月武田元光は逸見高清と近江の朽木植綱をして丹後をせめさせた。 ※この若狭勢の度重なる侵攻は、義清への政権支援をみられる。

 大永6年(1526)4月武田元光が上洛している留守中に丹後水軍が若狭を攻め込んだので、越前勢が救援してこれを追った。 
 
 
 同年12月義清の娘で美濃の土岐頼芸(よりなり)に嫁していた美芳野が西村勘九郎(斉藤道三)の妻として払い下げられた。23才であった。
 ※この年、美芳野は義竜を生んだ。実は頼芸の子であったする。 義竜は後年の弘治2年(1556)4月長良川で道三を殺し一色左京大夫を名乗った。実父頼芸が道三に追放された恨みを果たした。 丹後一色と美濃土岐氏との関係は深い。 2代丹後守護 義貫の室は土岐氏の出であるし。 持頼も義貫と共に殺されている。 美芳野の孫の竜興も一色性を名乗り永禄6年(1563)諸役人付に(外様衆・一色治部少輔・斉藤山城守竜興改左京大夫)とある。竜興は若狭一乗谷へ亡命し、天正元年(1573)8月刀根坂で討死している。

 享禄2年(1529)9月何鹿郡志賀郷吾雀庄(あすすき)(現、綾部市志賀卿)の地頭志賀次良右衛門(山尾城主)が細川高国より丹後田辺郷の代官を任じられて、これを占領するという事件が起こった。
 
 ※管領細川政元には実子がなく、澄之・澄元・高国の三人を養子に迎えたが不和で、政元が澄元に暗殺された後は澄元と高国が争い、永正4年(1507)澄之が澄元に殺され、同17年(1520)には澄元が卒っし、その後は高国と澄元の子晴元が争った。

 
若狭の武田元光と丹後の一色義清は細川晴元党に組みし、志賀が高国党に組した。この後は丹後と若狭、何鹿の志賀らが入り乱れて抗争し、複雑な政相が続く。

 享禄4年(1531)6月志賀の長男四郎良兵衛尉は高国に従って尼崎に出陣したが細川晴元に敗れて、8月高国と共に討死した。

 ※これ等のことから義清の守護としての地位は甚だ脆弱であったことが伺われる。

 この年足利義昭の側近として活躍する七郎系の一色藤長が生まれる。 また翌々3年(1534)には織田信長と細川
藤孝が生まれる。

 天4年(1535)10月1日武田勢が加佐郡に入り、田辺城に志賀党を攻めた。


 天文5年(1536)5月若狭勢が再び田辺城(五老ケ嶽に比定)を包囲したので志賀勢は支えきれず滑落(飢饉で落城)した。

 天文8年閏6月丹後の松田丹後守晴秀は義清の丹波郡光富保における押領を幕府に訴える。

 天文9年(1540)7月丹後水軍が越前へ攻め入った。 これを追って越前勢は五百艘の軍船で加佐郡へ攻め込んだ。 この年丹後守護代延永春信が卒して宗清が継いだ。

 天文11年(1542)2月若狭勢は普甲山を攻め、6月には府中へ入って国分寺が炎上した。
 12月菊憧丸(後の足利義輝)が7才で御所へ参第したので義清が御供した。

 天文12年(1543)義清の娘が大友塩法丸(後のキリシタン大名大友宗麟)は嫁している。

 天文13年(1544)3月石川直経の長男小太郎が、居城丹波郡五箇の城を伊賀に攻められて自刃し、同日石川の支城竹野郡島津の高尾城が攻められて城代嵯峨根出雲守又左衛門討死した。 又左衛門の娘は石川小太郎の妻である。 この年以降義清と石川直経の消息は絶える。 反義清派の延永・伊賀らのために没落したものと考えられる。
 両人とも歿年・葬地も全く不明である。 亡命先は若狭か? 但し石川氏は天正の頃には加悦に復活している。