丹後守護 (一色氏の終焉)
◆十代 五郎義定(よしさだ)

 権左京大夫 知多市の慈光寺系図に義員の子とのせている。 義有・義定・満信・満義等名前があるが何れも定かでない。 

 十代目とはいえ、守護とはもはや考えられずしいて言えば織田信長の客将のような地位にあった。

 天正7年父と共に田辺籠城に加っていたと見られるが、その後どこに居住していたか明らかではないが おそらく矢野らと共に、藤孝の配下となっていたであろう。

 天正8年(1580)8月 細川藤孝は約3千の軍勢を率いて山城国長岡の青龍寺を発して、宮津八幡山(猪岡城)へ入った。 入国直後に峰山を攻めて、丹波勢に同心したとみられる吉原西雲を切腹させた。 その後信長の許しを得て宮津浜手に平城の築城を始め、ついで隠居城として田辺に新しく平城を築いた田辺の城はその形から宮津鶴賀城とよばれ、田辺の城は田辺城とも舞鶴城ともよばれた。
 


 天正9年(1581)2月28日に、信長が京都二条で正親町天皇叡覧の馬揃えを催した時で、五郎は4番に十五騎を従えて参加している。官職は左京権太夫となっている。

 同年5月宮津へ来遊した明智光秀の仲介で細川藤孝の長女伊也を娶った。


 天正9年9月、信長検地で丹後は十二万三千石と定めこの内五郎の知行を二万石として、矢野藤一郎の知行を四千5百石と定めた。 五郎は大名なみの扱いで、矢野は加佐郡における筆頭家老で田辺城代であったと思われる。 田辺籠城の責任をすべて義員がとった故に、矢野は助命された。

 五郎は信長の臣下となったわけで文書にも義員には「一色殿」又は、「左京大夫殿」としたものを五郎には呼び捨てで呼んでいる。

 天正10年(1582)2月信長は甲斐の武田勝頼の討伐の軍令を下した。 翌3月信長の嫡男信忠は先頭となって信州高遠城に勝頼の弟仁科五郎盛信を攻めた。  
 藤孝は宮津に留まり、忠興、興元、一色五郎らは宮津を発って高遠を攻めこれを陥し、さらに甲斐へ進行した。勝頼は家臣の離反にあい自刃し甲斐武田氏は滅亡した。勝頼37才であった。

 4月織田信忠と一色五郎は丹後へ帰陣した。 同月織田信長は光秀・藤孝・一色五郎らに対して備中高松城攻めで苦戦している秀吉の援軍として出勢するよう待機を命じた。

 6月3日光秀は中国への援軍として亀山城(亀岡)を発し老の坂を越えたが、突如として京へと道を変え本能寺を襲って信長を殺した。 織田信長 49才

 光秀より毛利への密使を捕えた秀吉は高松城主清水宗治を切腹させ、昼夜兼行で上京して山崎の天王山で光秀を破った。
 光秀は青龍寺城を出て近江の坂本城へ向かう途中、小栗栖に於いて土民の竹槍に刺されて討死した。

 光秀の女婿秀満は坂本城は籠って奮戦したが及ばず、丹羽長秀に攻められて光秀の後室ら一族と共に自刃した。

 7月若狭の武田孫八郎元明は光秀に加担したという罪を被せられ、近江梅津の宝鐘院へ召喚されて丹羽長秀の面前で切腹を命ぜられた。 31才であった。

 宮津城に在った忠興の室玉は光秀の娘であったから、父の罪を一身に負って丹後半島の奥深い美土野に幽閉された。その実藤孝親子が隠したというのが定説である。 
 
 この6月光秀に呼応して加悦谷の勢がいっせいに兵を挙げたので有吉立言がこれを討った。

 7月秀吉は改めて丹後を忠興に与えた。

 9月8日 丹後の一色五郎が又、武田元明同様光秀加担の疑いで秀吉より切腹を命ぜられ宮津場内三の丸の米田屋敷(現一色稲荷)の場所で自刃したものである。 
 実のところは伊也と五郎の仲人でもあり同族でもある光秀に対する近親感はあったかもしれないが加担したとは考えられない。
 

  これをもって実質180余年も丹後守護職であった一色範氏の流れをくむ(丹後一色)は滅亡しました。