予州一色党関係古文書
 

◎西條誌にみえる大庄屋一色太郎九郎   天保七年(1836)西條藩編纂地誌

先祖宮内少輔公深と言うもの三河国吉良庄一色村より出、子孫その村名を取りて氏とし移って丹後国宮津の城に居、右馬三郎重之と言うもの天正年間宮津を落て当国に来り、高外木城の石川氏に客たり。後に周敷郡周敷村三谷の城主荒井藤四郎を討ちてその地を領すと言う。その間色色あれども之を略す。当時の太郎九郎よく勤め文政年中御誉あり。


◎周敷村(下記図のあたり)他領入交の場所  天保七年(1836)西條藩編纂地誌
 周敷村大庄屋 一色太郎九郎
◇周敷郡周敷村
当村小松領の周敷村と入交じり犬牙相接と言うよりも甚しく、一在所の内、あの方の民家そこの方の民家と入組軒を並べて建ち、平ら一面に身ゆる内、その家とその人は自他の差別ありl。
 只田畑の錯互せるのみにあらず。故に昔は闘争の事絶えず近世大庄屋一色熊八代より今の太郎九郎に至るまで、心を用いて論し和げ、あの方(小松領)にもしかあるにより、双方睦ましく一領の如くにはなりたり。当村高千八百石余りなり 


◇周敷村の儀は他領入交の場所に候ところ、百姓ども相互に一和致し諸事睦ましきは無論農事常常相励み、別にして去年は早の処汲水の儀抜群に骨を折り候よう具に相達す。右かねてその方共役儀に相勤。百姓どもよく帰服いたし候故と奇特なる儀に思召され候。この旨申聞誉可申候。
     
八月五日 文政十二丑歳
 (下記図の通り、周敷村は領地が松山藩、西條藩、小松藩、天領と入り乱れている地域なので揉め事などが多っかた)



※周敷村
 ○村境東は小松領北条村、西は松山領田野村、南は小松領吉田村、北は、松山領三津屋村。
 ○境石二カ所。当村東小松領吉田村境、同北松山領三津屋村境とにあり。

◇太郎九郎持伝物の内に

刀一振、無銘身長二尺一寸五歩中心四寸4分、古色蒼然として最驚くべし三条小鍛治宗近なるべしと鑑識する大刀ありと言う。しかれどもその長さを疑う奈何。元讃州網の浦漁人これを海底に穫たりと云う伝えるよし。
 この外古き茶壺、楳道人の画幅等を蔵む。太郎九郎の先祖弥兵衛と言うもの病気の時源性公(初代藩主)より何か薬を御本家様(紀州)へ乞せられ森惣兵衛を以てこれを下し給はると言う事太郎九郎の家の旧記に見えたり。


◎一色庄屋に残る父母状

 「父母に孝行に法度を守り、謙(へりくだり)、奢(おごらず)して、正直を本とする事、
         誰でも存ずる事なれ共、弥能相心得候様常々無油断下は教可申聞也。」


庄屋で正月初寄り合いの時など普通「父母状」と呼び習はしているのが上記のような教訓書をまず第一に読み聞かせたそうです


一色庄屋に伝わる 古き茶壺 父母状等画幅

古き茶壷の由来と思われる
家老青木忠右衛門家の江戸中期の記録
中川すがね先生提供
(新発見)