源 頼信(みなもと よりのぶ)
安和1〜永承3.4.17(968-1048)

満仲の三男 鎮守府将軍。河内源氏の祖。始め藤原道兼(道長の兄)に仕え、治部権少輔、左馬権頭を歴任。正暦1(990)、道兼を抜いて関白となった藤原道隆を殺そうとしたが、兄頼光にいさめられた。その後道長に仕え、石見守、甲斐守となった。長元1(1028)6月、東国で前上総介平忠常が挙兵して上総国府を占領すると、検非違使 平直方が追討使として派遣されたが効がなく、同3年、改めて頼信が派遣され、同4年忠常は頼信の威望をおそれて下り、乱は鎮圧された。その後、美濃守、河内守を歴任し、河内を本拠とした。


源頼信と箭弓稲荷神社の話
 長元元年(1028)下総の国(千葉県)の城主、前上総介平忠常は、下総に乱を起こし安房・上総・下総を手中に収め、大軍を率いて破竹の勢いで武蔵の国に押し寄せてきました。

 長元3年の秋、忠常追討を命ぜられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の子、頼光の弟)は、武蔵国 比企郡 松山 野久ヶ原(やきゅうがはら)に本陣を張りました。一泊した際に箭弓稲荷神社に詣でて、敵退治の願書を呈し、太刀一振と馬一頭を奉納し、一夜祈願しました。

 その晩、白羽の矢のような形をした白雲が起こって敵陣の方へ飛んでいくのを見ました。(「白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た」という説もあります。)これは、神様のお告げだと、直ちに兵を起こして敵陣に攻め込みました。
 忠常の兵は不意の攻撃になすすべもなく敗れ、三日三晩の戦いで潰滅しました。

 頼信は喜び、凱旋の際に立派な社殿を再建し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられています。

◎相沢幸助氏のきままなぶらり旅より


◎箭弓稲荷神社
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[平忠常の乱] たいらの ただつね

平安中期、関東で起きた反乱。桓武平氏の忠常は上総介・武蔵国押領使・下総権介となり、上総・下総に勢力を形成。1028年に安房に侵入して国守を殺害して反乱を起したが、1031年、朝廷から派遣された有力武士の源頼信の勢威に戦わずして降伏。関東の平氏は衰退、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。