三谷城と荒井藤四郎考宣(なりあき)
  愛媛県西条市

 ◎周布 三谷城累跡
○三谷塁跡に楠の大樹が幕末まで残っており古の塁中の楠と言われていた。
三谷城は南に天然の本郷川を利用し、城館の周囲は堀や頑丈な土塁を築き矢狭間を設け城門には櫓を築き中世豪族の堅固な城館でした。

 ◎三谷城の由来
 
 周敷村字横田の俗に三谷という小字があって現在城主さんと呼ばれる跡が残っています。
弘安年中(1278〜1287)阿波国に逃れていた伊予三谷(現伊予市)城主の一族三谷美作介が河野氏を頼って当国に来て此の地を与えられここに住みその名をとりて三谷城と云いました。

 その後この城の主は越智備前守に移りました。又のその後大永(1521〜1527)の初め渡部若狭介満時に移りその子越中守満綱が享禄四年(1531)剣山城の黒川元春に討たれるまで居城して居た。


三谷城主 渡部氏の五輪等墓



 ◎黒川八人衆 荒井藤四郎考宣(なりあき)時代の周布郡支配図

 享禄四年(1531)石根の剣山城主黒川元春の三谷城攻めによって、城主渡部氏に代わって家臣の荒井藤四郎考宣が城主になり、黒川八人衆の一人として三谷城にあって周布を支配した。


周布郡
剣山城主
 黒川美濃守通博
家老
玉井備前守(大頭)、安藤次右衛門(玉之江)
客家老
十河又五郎(石田東)、醸(下見)越後守(石田西)、
総奉行
首藤大蔵充(玉之江)、久米妥女正(北川)
総大官
徳増右源太(石田)、武方次郎左衛門(北条)
佐伯伊賀守、(大熊城)、桑島四郎左衛門、曽我部左近、
御旗下組十三騎
佐伯伊賀守雄之(大熊城)、桑島四郎左衛門、曽我部左近、
戸田妥女正(北川)、曽我部修理亮、久米五郎右衛門尉(北川)、
兼道日向守(文台城)、桑村又左衛門、今井玄蕃、
野口四郎大夫(田野)、垂水彦五郎(明河)、臼坂三郎兵衛尉(臼坂)
玉井又十郎(安井)
黒川八人衆
宇知屋敷 (大頭村) 犬坊屋敷 (湯谷口村)
三谷屋敷 (周布村) 荒井藤四郎 東屋敷 (大頭村)
国広屋敷 (田野村) 国広源左衛門 兼頭屋敷 (志川村) 兼頭首里亮
倉堂屋敷 (赤尾村) 要害屋敷 (池田村)

 ◎秀吉の四国攻め(天正の陣)

 天正十三年の秀吉の四国征伐によって周敷郡の旗頭、剣山城の黒川氏が滅亡、よって黒川八人衆の荒井藤四郎も野に下りこの地の支配体制も大きく変わり黒川五右衛門尉通貫 → 小早川隆景 → 青木一重民部とかわっていきました。
 

○最後の三谷城主(麻田藩伊予の代官所)

荒井藤四郎下野の後、新領主青木一重の郡代官所として一色右馬三郎の長男重直が住んでいたようです。
 ※一色家伝書に一色右馬助(重直)別居して周敷村三谷に住ス、村人称”当家日御城”と記載あり

◎一色右馬三郎重之の荒井攻め
  
 三津屋や周布は秀吉の家来、摂津麻田藩青木民部一万石の飛領地になり、三津屋に住む丹後の城主一色義員の三男一色右馬三郎重之が代官となって周布を支配していた文禄二年五月十三日、周布郡周敷村の三谷旧城主新井藤四郎考宣による道前一揆
(新領主による厳しい年貢の取り立て等があったらしい)が起きこの道前一揆を一色右馬三郎、重直らが鎮圧しました。

※解説
 その頃豊臣秀吉の文禄・慶長の役で朝鮮出兵に掛る軍費調達の為か新領主青木民部一重による過酷な年貢の取立てがあったようで、旧領主 荒井藤四郎らに一揆の企てがあるとのことで、文禄四年(1595)五月一三日代官一色右馬三郎重之率いる一色党が荒井氏を攻めました。
 荒井方はよく戦いましたが衆寡敵せず悲運のうちに藤四郎はじめ家子郎党一三人は討ち死にしました。

 周布の三谷城にはその後右馬三郎の子重直が住み村民はお城とよんでいたと記録されている。


◎荒井社(荒井さん)
  
 村人から慕われ尊敬されていた藤四郎は、館跡の一角に荒井社(荒井殿さん)を建て祀られ氏子二十戸が祀っていたが、明治の終り豊栄神社や周敷神社に合祀されました。

  十一月十二日が祭日です。


                                    
荒井藤四郎が合祀られている周布の豊栄神社




◎伝承の荒井藤四郎ら十三人の首塚

 荒井藤四郎考宣、道前一揆の乱鎮圧のみぎり家子、郎党ことごとく討死した。そのとき十三人の者埋めたという首塚がある。横田948番地に不思議なお塚がある。昔から大雪が降ってもそのお塚だけは絶対雪が積まないと云う。お塚「石碑が建っているが風化して不詳」このお塚ではないかと古老達はいう。
 昭和63年首塚の所に県道が通ることになり、周布文化財保護委員会によって霊を供養し還座祭りを行い、道の東側に移転、伝承の十三人首塚の供養塔を建て祀っています。


○勇敢に戦い討死した十三人の勇士を村人は哀れみ、大きい塚をつくり懇に葬り十三人の首塚として大切に祀っています。

伝承の十三人首塚


◎荒井藤四郎奥方と娘お藤、こふじのお塚について
 三谷城滅亡の時姫君二人お藤、こふじは、北の方に、奥方は南の方に北川の川を渡って逃げた。そして討たれたとも自害したとも云われ、そのお塚が密乗院の東の田の中にある。以前は周布横田、826番地の田の中に二つのお塚として残っていたが、今はただ石碑に「お塚」と書いてあるが田の中のお塚はなく円の畦に建ってある。昔は大きなふじの木が植えてあったが、今はその藤の木も枯れて、そのあわれさをとどめています。

荒井藤四郎奥方の墓

○藤四郎の妻の墓は天神の密乗院の東の田の中にあり樹木の茂った所であったが現在は田の隅に墓が一基たっています。

 

荒井藤四郎の娘 お藤、こふじのお塚

○藤四郎の二人の女子の墓は一色太郎九郎庄屋の北にあってここで討たるとも自害するとも伝えられています。

お籐・こ藤のお塚は冬でも緑がたえません!