壬生川村庄屋の系譜 |
初代
庄屋 |
1684
貞享
元年 |
一色新兵衛範好
(重好) |
明理川庄屋入りをしていたが、貞享元年(1684)壬生川庄屋を仰せつけられ、大庄屋役も相勤めた。
貞享元年古新田地組の節50石程程度所持、その後北新田開発で五町分配される。
元禄四年(1691)明理川は相退く。
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二代目
庄屋 |
1699
元禄
十二年 |
一色与五左衛門重之
(初め喜兵衛、
後に重之) |
貞享元年(1684)明理川庄屋となり、元禄十二年(1699)明理川から壬生川村庄屋となり、元禄十五年(1702)改庄屋になる。
役料米7俵、宝永三年(1706)大庄屋となり三人扶持、役料10俵、享保五年(1720)五代藩主定英の家督相続の式には、諸郡庄屋の総代として江戸へ出府を仰せ付けられている。
享保十五年(1730)病死
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三代目
庄屋 |
1730
享保
十五年 |
一色五右衛門範江
(初め義見) |
享保十五年(1730)村庄屋並に大庄屋見習い、享保十八年(1773)害虫で大飢饉に付き、役人減員で見習い御免で大庄屋格、享保二一年(1738)大庄屋となる。
その後努め精勤にして褒美米を下さるとか、松山藩の年始には諸郡の総代として出席、その上枠又三に苗字帯刀御免、村庄屋を仰せつかる。
宝暦十年(1760)栄姫様対顔のお祝い出府、長福寺に大門寄進する。
安永三年(1774)病身につき大庄屋を依願退職。
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四代目
庄屋 |
1765
明和
二年 |
一色又三(義方) |
明和二年(1765)に庄屋、安永三年(1774)大庄屋格、安永九年(1780)大庄屋格のままで、庄屋役は喜多台村庄屋、長井源之衛門の預かりとなる。「天明八年まで」。
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五代目
庄屋 |
1788
天明
八年 |
一色丈之助(範明) |
天明八年(1788)庄屋、天明十二年(1792)改庄屋格、文化元年(1804)帯刀御免、文化四年(1807)改庄屋、文化7年(1810)伊能忠敬ら測量方入領の際世話で骨折る。
同年庄屋役御免、格式帯刀そのままで役人場出席を代官所より命ぜられる。
同年十月普請方夫役方となる。
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六代目
庄屋 |
1810
文化
七年
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一色大次郎(範序)
=孝平 |
文化七年(1810)庄屋、文化十三年(1816)病身につき依願免職、その後小松藩士近藤上衛門の養子となり近藤序平と称し、小松邑誌を編纂。
文久三年(1863)歿68歳。
大次郎の長男金子一堂は医者として活躍。
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七代目
庄屋 |
1816
文化
十三年 |
一色東平
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「大次郎の弟」、文化十三年(1816)庄屋、文政四年(1821)借財多く一色家は没落する。
五年間家名断絶のため、芥川源吾庄屋となる。
文政十年(1827)再び庄屋となる。
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八代目
庄屋 |
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一色新平 |
「一色大次郎二男」、元治元年(1864)脳溢血で急死する。
そこで吉田村庄屋芥川彦左衛門が大庄屋となり、壬生川村庄屋を兼務して壬生川に引越しするよう命ぜられる。
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九代目
庄屋 |
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一色範美(宗太郎) |
父新平の死亡時11歳のため罷免。
これに対し壬生川村の村民は本源寺に反対の集会を催し、不穏な状況となり芥川は大庄屋、村庄屋を罷免となる。
そして、壬生川村庄屋は大新田村庄屋を後見人として、一色範美が壬生川村庄屋に復職した。
明治十二年(1879)戸長制により壬生川・大新田の戸長となる。
明治二二年(1889)町村制実施により、一色範美は壬生川村初代村長になる。
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十代目
庄屋 |
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一色守三郎 |
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壬生川郷土誌より |