.・
一色大庄屋
   三津屋・周布・明理川・壬生川
  ◎一色庄屋のはじまり・・(この項では一色右馬三郎以後の史実に迫ります)

 
清和源氏の一族で、子孫の丹後国大名一色義定三男、右馬三郎重之(範之)が、天正八年丹後国舞鶴建部山城の落城により天正八年伊予国新居浜に来て当時新居郡の旗頭で合った石川氏の食客となりその後、摂津麻田藩の伊予の地行所の代官になったのが一色庄屋の初まりです。
 
◇当地は天正の陣の後、豊臣秀吉の家来小早川隆景の領地となりましたが、天正十五年秀吉の九州征伐にともない小早川隆景は筑前名島に移封されましたが、その後伊予国の領主は秀吉子飼の家来が来きて東予五郡を福島正則が領しましたがこの時、周敷村は正則の領地にならず摂津麻田藩青木駿河守一重の飛び領地となり一色右馬三郎重之が郡代官を勤めました。
 
 
青木氏の当地支配は徳川時代となっても継続していて麻田藩二代藩主 青木重兼に領地を継がしました。
 寛永四年、蒲生忠知が松山藩二十万石に封ぜられた時、青木重兼の伊予の領地は摂津国へ変え地され、青木氏の伊予国周敷村支配は四十年間で終わりましたが代官として当地を支配していた一色氏は庄屋となって、一柳、紀州分家西条藩松平と領主は変わっても庄屋職を明治維新まで継続し当地に根をおろしました。

 ◎一色庄屋の系譜

○郡代官一色右馬三郎重之の子、重次は文禄二年(1593)周布村の長となり
周布三谷の庄屋になりました。

○長男重直は
三津屋の庄屋なりました。

○重次の次男重昌(市兵衛)が周布村の庄屋を継いで、周布村一色大庄屋の祖となりました。

○三津屋村庄屋は、初代重直三男の重行(次兵衛)か重次の子、重明(2説あり)が継いで大庄屋になりました。

○重明の五男の五男重好(新兵衛範好)は
、明理川村の入り庄屋になり、貞享元年(1684)には高橋氏に代  わって壬生川村の入庄屋になり、貞享三年から大庄屋になりました。

○明理川の方は彼の二男が継ぎ一色家は四ヶ村の庄屋を勤めました。




予州・東予地区の一色祖

三男 右馬三郎範之(重之)
天正八年(1580)当地に来る
伊豫不動大系第61巻より
-----------------------

丹後国宮津城主一色左京太夫ノ舎弟ナリ后ニ一色宇右門云イ天正八年一色家没落シテ后伊予国新居郡萩生村ニ牢人シ其后桑村郡旦シ上村居住其后天正の末年周布郡三津屋村ニ居住ス

慶長十六年九月二十五日卒
(1611)

三男 次男 長男
 重虎 
弥五郎
周布村庄屋
青木民部より刀一振と茶入れ
拝領

慶長2年8月15日病死
(1597)
 重次 
弥兵衛

初代
 三津屋大庄屋


寛永4年四月23日病死
(1627)
 重直 
右馬助・喜兵衛

(周布村)
村長(郡代官)


寛永16年9月七日歿

(1639)
長男
重広

新居郡
萩尾村居住
重信

周布郡
周布村居住
重政
(郡代官)
享年25歳
慶長19年
(1614)

大阪の役戦死
 重明
(郡代官)
●二代目
三津屋
大庄屋
万治元年
(1658)歿

 重昌
(市兵衛)
周布村
大庄屋祖



寛文5年
(1665)歿
重勝
(周布村)
佐左エ門
村長(郡代官)

北条の庄屋
延宝3年
(1675)
 重光
吉次郎

享年25歳


慶長19年
(1614)
大阪の役戦死
重明 五男  重昌の子
(新兵衛)
範好

(重好)
●明理川 庄屋祖
1684より
●壬生川大庄屋祖


宝永4年(1707)歿
(弥兵衛)
重吉

●三代目庄屋
周布村大庄屋


寛文8年
(1668)歿

一色庄屋の史跡

◎三津屋大庄屋


■ 一色右馬三郎重之が天正十二年古城に居た北条の地頭 越智勘左衛門を討ちここに住み三ツ屋と称しました。
三津屋村庄屋は、重直三男の重行(次兵衛)か五男重明(2説あり)が継いで大庄屋になりました。


 この地の墓標は三津屋の三蔵院にありましたが、三蔵院のご都合等により2008年5月に一色右馬三郎以下三津屋村一族の墓はこの地に移りました。

         



◎明理川村→壬生川村庄屋(桑村郡大庄屋) 一色与五左衛門重之


■一色重好(新兵衛範好)、貞享元年壬生川村庄屋役仰付。大庄屋役相勤。(桑村郡大庄屋の始め)彼の息子一色与五左衛門重之(重好)は明理川の庄屋から元禄十二年に壬生川の庄屋になり、元禄十五年に改庄屋になる。役料米七俵。宝永三年(1706)大庄屋になり、三人扶持役料十俵。享保三年五人扶持となる。

 その後、享保五年(1720)十二月九日には、五代松山藩主定英の家督相続の式には、領内諸郡の庄屋惣代として、和気郡の玉井助九郎とともに出府を仰せ付けられた。「十二月二十九日に三津浜を出発し、翌年正月二十三日に江戸到着。二十六日に生鯛一折差上げ御目見仕。御料理被ニ下置一白銀五枚拝領。同日若殿様へ生鯛一折差上げ、白銀三枚被ニ下置・・・」との記録あり。

明理川及び壬生川庄屋史跡  
                


◎壬生川村 大庄屋(桑村郡大庄屋) 一色与五左衛門範江

 

■壬生川村一色庄屋三代目の範江は、享保十五年(1730)に村庄屋並に大庄屋見習となり、二十一年には酒造も許され、元文三年(1738)に大庄屋になり、三人扶持役料拾俵あてを受け、更に明和七年(1770)には周布郡の大庄屋を兼任して、安永三年(1774)病気のため依願退職すまで実に四十四年間、当地方の行政にそのすぐれた、手腕を発揮しました。 
 
 その主なものを拾うと、御巡見史様のお宿を勤めること二回、栄姫様御対顔のお祝いのときに諸郡惣代として江戸への出府、明和二年(1765)一万国上知の際の差支米や借用銀等の適切な処理と「天領桑村郡十二ヶ村郡手鑑」の写しの作成等です。更に大阪に送るお登せ米の製俵の向上などがあります。
 
 代官所は彼の行政手腕を高く評価して、たびたび御褒美と米三俵一回、米五俵二回の御褒美を与えました。
 彼はまた信心深く元祖一色右馬三郎重之にあやかった長福寺の大門を再建しました。
 『小松邑誌』の著者一色範序の祖祖父にあたります。



◎周布村大庄屋 一色市兵衛重昌


■三津屋の一色右馬三郎重之の次男弥兵衛重次の三男、一色市兵衛が周布村の大庄屋の初代で以降九代の太郎九郎まで大庄屋を勤めました。この大庄屋の屋敷は、東西19間、南北12間もあったそうです。。

 明治四年に庄屋制度がなくなり、大庄屋跡は戸長役場として使用されました。戸長役場には、鉄砲や槍・陣笠などが沢山残っていたそうです。
                                 (周布公民館誌)

 
周布大庄屋史跡
           


◇周布村 蓮生庵

 

 一色大庄屋三代弥兵衛安重の弟七左衛門は信仰心の厚い人で元禄元年、古代の寺院跡だと思われるこの地に一色家の持庵、蓮生庵を建立しました。

 この墓地に周布大庄屋初代一色市兵衛重昌から九代太郎九郎迄のお墓があります。  (周布公民館誌)

        


◎一色庄屋に残る父母状

 「父母に孝行に法度を守り、謙(へりくだり)、奢(おごらず)して、正直を本とする事、
         誰でも存ずる事なれ共、弥能相心得候様常々無油断下は教可申聞也。」


庄屋で正月初寄り合いの時など普通「父母状」と呼び習はしているのが上記のような教訓書をまず第一に読み聞かせたそうです


一色庄屋に伝わる 古き茶壺 父母状等画幅

その昔大庄屋一色太郎九郎時代の長屋門

◎庄屋とは?

庄屋とは今日の村長に当たり、領主側支配機構と農民側との接点の役割を果たし大庄屋は名字帯刀を許され世襲でした。
※庄屋の仕事は
 @年貢の完全な納入 
 A道・河川・橋・堤防などの村普請
 B藩からの命令の伝達徹底
 C戸籍・宗門改 
 D村の公事(民事訴訟)を公平に裁く
 E土地売買証文や領主に対する訴願の奥印など村方に関する一切をつかさどりました。
 F盗賊・殺人等の重罪犯人捕縛

 松山藩では庄屋の上に各郡一名の大庄屋を任命して、郡奉行直属の郡役人としました。
当地方の庄屋は、鎌倉時代の地頭や、南北朝時代に脇屋義助や大館氏明に隋従して土着した者の子孫で、戦国時代に小豪族として活躍した者と、彼らに系譜をもたなくても、戦国時代に武士として活躍した者の子孫がほとんどです。
征服地に入部した領主が、伝統と家柄を尊重する封権社会の風潮の中で、彼らの旧勢力の反抗を押さえるために、彼らを百姓の身分に落としながら、ある程度の優遇をするためと彼らが旧来身につけている統制力をかつようして、領地の保全と年貢の確保をねらった処置でした。
西条領では周敷村の庄屋二人分の給米が百八十石と記録が残っています。


江戸時代の桑村郡・周布郡

 (下記図の通り、周敷村は領地が松山藩、西條藩、小松藩、天領と入り乱れている地域なので揉め事などが多っかた)