源 経基 (みなもと つねもと)
清和源氏の祖
897年(寛平9年)? − 961年12月25日(応和元年11月10日?)平安時代中期の皇族・武将。清和天皇の第六皇子貞純親王の子。母は右大臣 源 能有の娘。皇族に籍していた時六孫王と名乗ったというが、同時代史料では確認できない。清和源氏の祖。居館は六宮とも八条御所ともいう。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生がいる。子に満仲満政満季満実満快満生満重満頼らがいる。

源経基   生涯

承平8年(938年)、武蔵介となり、現地に赴任するが、在地の豪族である足立郡司の武蔵武芝と衝突し、平将門が調停に入ると将門に殺害されるものと思い込み、京へ逃げ帰って将門を誣告。しかし将門による左大臣への申し開きが認められ、讒言の罪によって投獄される。

将門記』では「経基いまだ兵の道になれず、驚愕して分散す」と述べられており、後に武門の棟梁となる清和源氏の初代の経基はまだ武士とは言えない体たらくだった。

しかし940年、平将門が本当に乱を起こすと赦される。その後、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り、帰京。 941年に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧され、純友の家来を捕らえるにとどまるが、それも武勲と見なされる。 武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、前述どおりに皇族であった時期があったかどうかも証明できないことであり、時の摂政太政大臣、藤原忠平の日記貞信公記にも、天慶2年(939年)3月3日付けには「源経基、武蔵の事を告げ言う。」としるされている。


六孫王神社
嫡子で清和源氏の武士団を摂津国多田(兵庫県川西市)に形成した源満仲が建立したという
六孫王神社(京都市南区)に祀られている。
ウィキペデアより
 
   

<臣籍降下して源姓を賜る>

源経基は天皇の孫であり、

経基王 とも呼ばれますが、亡くなる応和元年(961年)の前年には、臣籍降下し 姓を賜りました。
皇籍を離れ、初めて源の姓を賜ったのは、源信(みなもとのまこと)等四人の皇子と四人の皇女。父は、嵯峨天皇で、最終的には32人の皇子・皇女を降下させ源姓を授けました。
臣籍降下とは、皇籍を離れ、臣下の籍に降るということで、財政の厳しくなった皇室で、天皇がやむを得ず子や孫を手放していった背景があったようです。
嵯峨天皇以後、21人の天皇が子や孫に源姓を与え、21流の源氏が出来たのでした。彼らは、それぞれの天皇の名を冠して
○○源氏 と称しました。
ここに登場する源経基は、鎌倉幕府を開いた源頼朝たち
清和源氏 の祖にあたります。

<六孫王・源経基は実は陽成源氏?>

六孫王

というのは、「父貞純親王が清和天皇の六男で、自身が天皇の孫である」という意味でつけられた名称です。つまり、

清和天皇 貞純親王 源経基

ということで、清和源氏と呼ばれるのでした。。
しかし、経基の孫の源頼信が石清水八幡宮に納めた願文に記された先祖についての記述では、


清和天皇 陽成天皇 元平親王 源経基

というふうに書かれています。
そういうことであれば、経基の子孫いわゆる清和源氏は、実際のところは
陽成源氏 ということになるのです。
経基の子孫たちは、粗暴な振る舞いの多かった陽成天皇の名を冠することを嫌い、一代上の清和天皇の名を使ったようです。

<経基、武蔵国に降る>

石碑

←経基館の土塁

「六孫王経基城址」の石碑が建つ

時は、藤原氏の世。天皇の子孫といっても、都では大した地位にはつけない。そこで、中小の貴族は地方官の地位を得、地方に散っていったのでした。
経基は承平8年(938年)、
武蔵介 (むさしのすけ−武蔵国の副知事)として、同じく 武蔵権守 (むさしのごんのかみ−武蔵国の知事代理)に就いた 興世王 (おきよおう)と共に坂東に降って来ました。
やっとの思いで手にした地方官の地位。着任早々、彼らは視察と称して各郡に出向くことにしました。
しかし、足立郡の郡司・
武蔵武芝 (むさしのたけしば)は「慣例のない事だ!」と反発しました。「武蔵国では正任の国司である 武蔵守 が赴任する以前に、各郡に立ち入ることは今までなかった。」と言うのでした。

さいたまの歴史散歩hpより引用



 


清和源氏は源 経基が9世紀に端を発し、1200年後の現在では、
(一代が約三十年として、40数代を経て)、約2百万人以上の後裔があるといわれています) 
清和天皇の血をひいた人達が、嫡流、庶流を問わず、清和源氏一族を形成しています。