源経基 生涯
承平8年(938年)、武蔵介となり、現地に赴任するが、在地の豪族である足立郡司の武蔵武芝と衝突し、平将門が調停に入ると将門に殺害されるものと思い込み、京へ逃げ帰って将門を誣告。しかし将門による左大臣への申し開きが認められ、讒言の罪によって投獄される。
『将門記』では「経基いまだ兵の道になれず、驚愕して分散す」と述べられており、後に武門の棟梁となる清和源氏の初代の経基はまだ武士とは言えない体たらくだった。
しかし940年、平将門が本当に乱を起こすと赦される。その後、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り、帰京。 941年に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧され、純友の家来を捕らえるにとどまるが、それも武勲と見なされる。 武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、前述どおりに皇族であった時期があったかどうかも証明できないことであり、時の摂政太政大臣、藤原忠平の日記貞信公記にも、天慶2年(939年)3月3日付けには「源経基、武蔵の事を告げ言う。」としるされている。
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