豫州 一色党
  愛媛県西条市



予州 一色党のルーツ

(丹後守護 一色氏代々控え)(資料による丹後合戦史)(五老ケ岳)
梅本政幸氏著作引用
 写真(一部)及び資料 幸手一色氏末裔他より拝借也


  
一色祖 一色公深像
一色氏の出自 概略


 予州 一色党のルーツは今から約650年位前に清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)で鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(きんぶか)が母方の三河国幡豆郡吉良の庄一色邑で養育され初めて一色姓「一色公深」を名乗のったのが初まりです。

 足利同族の一色党として元弘3年(1333)4月 一色公深の長男範氏は弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で
足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅を改め陥しました。

 その後、範氏が鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げる等して室町幕府が発足してからは三管四職の内四職の一つを担い将軍家側近の相伴衆・御供衆等の要職を長らく勤め努め、同時に丹後・若狭・三河・尾張・北伊勢・山城等の守護を兼ねて権勢を誇りました。

 又、「
海の一色」ともよばれて強大な水軍を持ち伊勢湾・若狭湾の海上権確保し経済を保っていましたが将軍家や管領家の紛争のあおりで同族の違乱、国衆の反乱、隣国との紛争で絶えず戦乱に巻き込まれていました。

 本領は三河ですが近隣諸侯の蚕食を被り、最終領土となる丹後においても隣国の若狭・丹波との争い等が続き緊張が絶えませんでした。

 足利幕府の再興を願って最後の丹後守護一色議員は丹後田辺城に籠城し義明の上洛に呼応してその通路を確保したり、最後の室町将軍足利義明の側近一色藤長は織田信長との間を取り持つことに奔走し
最後まで一色党として足利家を支え続けました。
 
 天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めに水軍で参戦し信長公より丹後国を安堵された一色左京太夫義員ですが追放した将軍・足利義昭を匿った為に、信長の怒りをかい天正7年(1579) 細川藤孝・忠興父子に明智光秀の加勢を受けた軍勢に、籠城していた田辺城を攻め陥され自刃しました。
 長男五郎(義定)が
2万石で信長の家来になりましたが明智光秀の本能寺の変に加担したとの疑いで天正10年9月宮津城米田屋敷で切腹し丹後での一色氏の歴史は終わりました。
 残された一族の者達は伊予や近江にそれぞれ縁を頼り散らばって行きました。



一色氏の遠祖
◆足利泰氏(やすうじ) 「一色祖「一色公深」の父

平石八幡宮 (足利市)
創建は1269年、源姓足利4代当主、足利泰氏によるもの。自らの守り本尊を安置した智光寺内の一角に鶴岡八幡宮より勧請したのが始まりと伝わる。


  
1216年 泰氏誕生 義氏が生まれた。
1236年 丹後守就任 丹後守に就任した。
1247年 泰氏室死去 北条泰時の子で執権北条経時・時頼の妹である泰氏妻死亡。
1251年 自由出家 下総国埴生庄で幕府に無断で突然出家。證阿と号し足利庄平石の地で閑居。
1254年 義氏死去 父・義氏が死亡。
1265年 智光寺建立 泰氏の菩提寺として真言密教系の寺院である智光院を建てる。(現在廃寺)
1270年 泰氏死去 享年55歳。

 泰氏は下野国足利庄(現栃木県足利市)本領。平石殿とも呼ばれ、鎌倉に住んだとされる。

 ●左衛門佐・右馬助・宮内少輔・尾張国司・丹後国司等を歴任。 従五以下

 
文永7年(1270)5月11日卒 55才

 

◎予州一色党の発祥その2・・一色氏の始祖

一色氏の祖
◆一色公深(キンブカ)

一色公深開基 宝持寺 一色公深像
八王子市一色氏より写真提供

 
 
弘長3年(1263)10月23日足利庄で生まれ一色性を名乗ったのは公深が最初である。 

 泰氏の七男、母は櫻井判官俊光の娘で故あって母方の三河国幡豆郡吉良庄一色邑で養育された。

 
宮内卿律師・左京大夫・五郎・一色阿闍梨と称し一色の祖となった。

 元応元年((1319)二男頼行に吉良庄を譲り長男範氏を伴って、下総国葛飾郡下川辺庄田宮郷薩手(現埼玉県幸手市へ新補地頭として赴いた。幸手は父泰氏の遺領である。
 
 ●元徳2年2月17日(1330年3月7日)同地に没し、曹洞宗 宝持寺に葬られた。



一色氏の祖
◆一色範氏(のりうじ)

 ●正安2年(1300)生まれ。公深の長男。

 ●太郎・右兵尉・左京大夫・宮内少輔・鎮西管領・尾張国守護・入道道献

 元弘3年(1333)4月 一色公深の長男範氏は弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅を改め陥した。

 弟頼行は建武3年(1336)2月、九州へ下って多々良浜で戦い、翌4年4月肥後犬塚原で菊池武重に敗れて討死した。

 範氏の長男直氏は貞和2年弟範光と九州へ下り、鎮西管領として各地を転戦した。

 ●応安2年(1369)卒 68才

九州探題時代の戦記小説


一色氏の祖
◆一色範光(のりみつ)


慈雲寺 本堂


一色修理大輔範光墓
観応元年(1350)大野宮山城主一色修理大夫源範光公が、名僧夢窓国師を招いて開山とした禅刹である。ご本尊は範光公の念持仏で恵心僧都の作だと伝えられる。
  
 知多市岡田太郎坊108−1
慈雲寺境内にある
範光の死(1388年)を悼んで書いたと言われる、時の摂政・一条良基の「悼文」の掛け軸が、寺宝としてのこされているそうです。

 ●正中2年(1325)生まれ。範氏の二男・直氏の弟。

 ●五郎・左京大夫・修理大夫・兵部少輔・入道信伝

 元弘3年(1333)父範氏に従って丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮へ参陣した。12才の初陣であった。

 貞和2年(1346)8月、兄直氏と南党討伐に九州へ下った。後に父範氏と兄直氏が上洛した後も九州に留lまって転戦した。
 延文2年(1357)11月筑前の麻生山の合戦で菊池氏に大敗し長門へ走ったが、翌3年3月幕命により上京した。

 貞治元年(1362)11月幕命により南党山名時氏を丹波に攻めた。時氏は翌2年北朝に降った。
 
 貞治3年(1364)伊勢の守護に任じられた。守護代は石川佐渡守長貞。
   (同年幕命により丹波・丹後を攻めて占拠軍として滞在していたが守護の任にはついていなかった)

 
● 同5年(1366)8月若狭守護に任じられた。守護代は小笠原蔵人長房。
   初めて一色氏による若狭守護である。
  
 
 至徳
3年(1386)10月21日、将軍義満が範光の案内で九世戸(文殊)へ参詣し、若狭を巡遊した。満29才天橋立を眼下に望む丘に登って「ああ是まさに宇宙の玄妙なるかな」と吟じたので玄妙のと名付けられた。

 ●嘉慶2年(1388)正月24日に卒した。

天の橋立 文殊堂


一色氏の祖
◆一色詮範(あきのり)

 暦応3年(1340)の頃の生まれ。 範光の長男

 四郎・左京大夫・宮内少輔・式部少輔・右馬頭・兵部少輔・評定衆・侍所頭人従4位下・入道信将

 父の後を継いで若狭・三河の守護となった。家督継承前の永徳元年(1381)には侍所頭人・山城守護を兼任し、将軍義詮(よしあき)の諱を拝受している。

 嘉慶2年(1388)父が卒した折に山名に丹後を奪われて、若狭へ退いた、丹後の占拠は5年間であった。

 明徳2年(1391)には尾張知多郡の守護に任じられる。

 この頃将軍義満は「六分一殿
と呼ばれていた山名勢力を警戒して山名の分裂を図り、同族相討たせてその勢力を削った。
 明徳2年(1391)10月山名満幸が出雲横田庄(島根県仁多郡横田町)の仙洞御領(後円融院領)を横領したとして、満幸とその叔父氏清・義理らを挑発して蜂起させた。
 満幸は氏清らに呼応して蜂起、丹波より京へ攻め上がったが、待ち構えていた一色詮範・満範父子らと内野で合戦したが敗れ、氏清は討死し満幸は両国丹後へ逃れたが、国人らの叛にあって捕らえられ京へ護送されて誅殺しられた。
 これを
「明徳の乱」といい、義満の懸案であった南北朝が統一された。
 
 
※山名氏は丹後・丹波・因幡・美作・出雲・隠岐・備後・但馬・和泉・紀伊等11国の守護を兼ねていたが「明徳の乱」以後は僅かに但馬とその近辺を領するだけとなった。
 

 明徳3年(1392)正月4日恩賞が行われ、詮範には旧領三河・若狭に加えて若狭の税所(国の租税を司る役所)今富庄55町歩を与えられた。※今富庄は若狭遠敷郡に敬在する荘園で幕府直轄地のこと)

 子の満範には丹後一国が与えられた。

 ●応永13年(1406)6月7日卒する。 67才



◎予州一色党の発祥その3・・・丹後守護代々控 (梅本政幸氏著 丹後守護一色氏代々控 引用)

一色氏の祖 丹後守護
 ◆初代 満範(みつのり)

一色満範紺紙金泥経施入識語
(c)Waseda University Library


 貞治5年(1366)〜応安元年(1368)の頃の生まれ。 詮範の長男

 次郎秋利・源四郎・将軍義満の諱を拝受して範光、剃髪後道範、弟に範貞がいる

 明徳2年(1391)の明徳の乱に父詮範と共に将軍義満の側にて参戦。敵方の山名満幸らを破る。

 明徳の乱の恩賞として明徳3年申正月14日一色右馬頭満範には丹後国を給わって眉目を施せり。と大乗院日録に記せり。

 すなわち・・・これが丹後国守護一色氏の始まりです。

 又、父詮範の領地であった若狭・三河・尾張海東郡・知多郡守護・若狭国税所今富庄領主を拝領した。
 
 明徳4年(1393)5月18日将軍義満が西御所(側室高橋殿)と愛娘従えて丹後の九世戸(文殊)へ参詣し、ついで若狭を巡遊している。

 満範は将軍義満の諱を拝受し右馬頭・修理大夫・左京大夫・侍所頭人・兵部少輔・左近将監・従四位下を賜わった。

 ● 応永16年(1409)正月6日死去

 
満範の支配体制 (満範は京都館に居住)

 丹後守護
 ◆二代 義貫・(義範)よしつら

 満範長男・応永7年(1400)生まれ。 応永16年(1409)父満範の死去によって家督を相続する。

 
 ※子は男子が7人あって判明しているのは義直・義遠(予州祖 一色右馬三郎に継る)・政氏(五郎)・正熈(まさひろ)(後の一色藤長に継る)

 応年18年(1411)10月侍所頭人に任じられ、11月には兵部少輔に任じられた。

 応年19年(1412)6月斑始めが行われ、左京大夫に任じられた。

 応永19年(1412)6月13日持信と家督を争うが丹後守護は一貫して義貫であった。

 応年20年(1413)修理大夫に任じられた。25才

 将軍足利義政の新任が篤く、兵部少輔・修理大夫・侍所頭人・相伴衆・小侍別頭等を歴任した。

 丹後・若狭・三河・山城・尾張知多郡・海東郡守護・若狭税所今富庄領主を歴任。

 応永22年(1415)4月 幕命により北畠満雅を討つ。

 応永25年(1418)侍所頭人兼山城守護に再任。

 応永30年(1423)8月 幕府より弟持信・三河守護代氏家らを従えて関東へ出陣し、足利持氏を討つ。

 永享元年(1429)7月 関東の足利持氏の誅伐に反対して、将軍義教(よしのり)の反感をかった。

 永享2年(1430)7月 将軍義教右大将拝賀の供奉(ぐぶ)に一騎打先頭を望んだか、これを畠山持国に奪われて出仕せず、義敦が激怒した。

 永享4年(1432)正月 侍所頭人兼山城国守護となり、所司代に延永益信の子益幸を任じた。同年4月義貫は室町御所の造営費に千五百貫を負担した。

 永享8年(1436)正月 同族伊勢守土岐持頼・武田信栄兄弟らと南党越智樵通一族や箸尾一族の討伐のため大和へ出陣した。
※義貫の室は土岐家の出である。

 永享9年(1437)3月大和橘寺の合戦で、丹後勢は大きな被害を被った。

 永享10年(1438)7月 大和天河(てんが)で挙兵した南党大覚寺義昭(ぎしょう)を多武峰に追討する。
 
※義昭(ぎしょう)は将軍義教の兄にあたるが、義敦とは不和で大覚寺に出家した。その後大和へ出奔して南党越智しらと組み、多武峰で北軍と「合戦したが敗れて九州へ走って討死した。
 同年、越智樵通を討って誅殺した。 樵通は大和高取城主で、早くから南党に属して北軍と戦っていた。

 ●永享12年 将軍の近くに召しつかわれた小弁をいふ女、一色南帝に志ある由を申し将軍実否も糺さず同年5月15日将軍足利義教は武田信栄兄弟に命じて大和の斑(とび)現桜井市外山)において義貫を謀殺し、家臣300人が討死した。41才であった。

 将軍の命により甥の一色範親は京都勘解由小路堀川の義貫邸を攻め、老臣数十人が討死した。
 義貫は前将軍義持には寵愛されていたが、義教からは憎まれていたといわれている。

 
 ※将軍義教は専制政治を確立して権力を固めるために、すざましいばかりの粛清を行ったが赤松満祐の為に41才で殺された。これを嘉吉の乱という。
 
 義貫の欠所三河は細川持常に、丹後は甥の教親に、若狭は武田信栄に分与しられた。※三河は後に持常の甥(養子成之)領となった。
  
※一色氏の若狭守護はこれをもって終わり武田に変わった。
 
一色氏の若狭領知は4代74年で終わった。


丹後守護
 ◆三代 教親(のりちか)

 応永26年(1419)生まれ。 義貫の弟持範の弟で初名範親で将軍義教の諱を拝受して改名した。
 
 左京大夫・侍所頭人・相伴衆・歌人として著名 

 丹後・北伊勢・山城・三河渥美郡・尾張知多郡・東海郡守護
 
 義貫が大和で誅殺された翌日将軍義教の命によって伯父の京の義貫邸の接収に赴いて、これを拒んだ遺臣らと戦って多くの死傷者を出した。
 
 血族である伯父の館を攻め、家臣を殺害された丹後の遺臣の怒りは凄まじく、また74年も支配した若狭を奪われたことは耐え難いのもがありこの後武田と教親に対する抵抗が続き丹後へ入国した微証はない。

 嘉吉元年(1441)義貫の遺臣が若狭で蜂起し、武田の接収を拒み武田信賢がこれを鎮圧した。

 宝徳3年(1451)11月28日一色教親頓死33才 

丹後守護
 ◆四代 義直(よしただ)
 
 
永享3年(1431)生まれ。 宝徳3年(1451)12月20才で家督を継ぐ。
 
 四国に配流しられた義貫の子の内ちの一人、弟に義遠、政氏らがいる。他の多くわ大和陣で討死した。
 
 三代 教親に子がなかったため丹後の守護を継いだ。 守護に任じられたのは将軍が義政に変わったことにより可能になった為である。

 
左京大夫・修理大夫・相伴衆・侍所頭人・丹後・北伊勢・尾張知多郡・三河渥美郡の守護・若狭税所今富庄領主等歴任。
  武人としても歌人としても名高く、絵画や書道にも秀でていた。
  
 応仁記によると応仁元年(1467)将軍家の継子問題をめぐり細川勝元と山名宗全が対立し、東軍・西軍と称し応仁の乱が起き一色義直の娘は宗全の三男に嫁しており、長男義春の婦人は宗全の娘であった関係で山名方について西軍の大将となった、若狭の武田と丹波の細川は東軍に味方した。
 
「応仁の乱」東西両軍に参加した守護大名や豪族、主に応仁4年(1470年)頃の勢力

◇東軍

守護大名
細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
畠山政長:越中・(河内)
斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
山名是豊:山城・備後
武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
今川義忠:駿河
富樫政親:加賀半国
北畠教具:伊勢半国
大友親繁:豊後・筑後
少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
菊池重朝:肥後
島津立久:薩摩・大隅・日向
豪族
小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

■西軍

守護大名
山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中
一色義直:丹後・伊勢半国
畠山義就:河内(紀伊・大和)
畠山義統:能登
斯波義廉:越前・尾張・遠江
小笠原清宗:信濃
土岐成頼:美濃
六角高頼:近江半国
河野通春:伊予
大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
豪族
吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など

 

 5月26日義直館は東軍武田信賢や細川成之に攻められて炎上した。当時義直館は相国寺の館の西にあって「裏築地の館」と呼ばれていた。
 
 義直に従ったのは弟
※義遠・五郎政氏・七郎政熈ら丹後・北伊勢・尾張・土佐の勢5000騎で、三河の同族東条氏や若狭の武田信賢・国信は東軍に組みして一色領今富庄は武田に奪われたが文明5年3月山名宗全が卒し次いで5月には細川勝元が卒したので応仁の乱も休戦状態となり翌年和解してようやく大乱も集結した。
  
 応仁の乱の後は、将軍や守護大名の没落を促進し、真の実力者の身分上昇をもたらし下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。

●義直72才 文亀3年(1503)卒と思われる。
 
※一色義遠は義貫の子で義直の弟、御部屋衆・兵部少輔・御供衆を歴任し尾張知多郡の分郡守護となり大草城主。この頃三河設楽郡一色保
、170町、北伊勢員弁郡一色庄950町などが領知としてみられる。
 九代丹後守護義員、伊予祖一色右馬三郎に直結した人と思われる。
   系譜によれば下記の通り   
   満範  →  義貫 → 
義遠 → 義長 → 
十代丹後守護 義員(ヨシカズ) → 右馬三郎範之(重之)

丹後守護
◆五代 義春(よしはる)

 文正元年(1466)生まれ、義直の長男

  
文明6年(1474)閏5月9才で幕府へ出仕する。 同年准后義政公、五郎義春を引見し、丹後の旧領を還付する。義春四職の内也。

 ●五郎・修理大夫・左京大夫・相伴衆・丹後・北伊勢守護、夫人は山名宗全の長男教豐の娘
 
 
文明6年(1474)閏5月7日今出川殿(足利義視)一色知行の分国各忠によって拝領の沙汰出来す。三河は讃州(細川持常)拝領、伊勢と丹後は一色五郎義春に給う、次に若狭は武田(国信)に拝領と云々。
 
 
文明6年(1474)足利義政は伊勢半国を義春に返付するように国司北畠政郷に命じたが容易に渡さず、ようやく同11年(1479)8月になってから政郷が罷免されて義春の手に戻った。
 
 文明8年(1476)将軍義政は三河の手に一色の旧領を改めて義春に与えたが、細川成之(将軍の甥で養子)はこれを拒んで渡さなっかた。
 同年9月義春は三河へ出兵して守護代東条近江守国氏を討った。
 
 文明9年(1477)義春は北伊勢を攻めて奪還を図ったが北畠政郷に敗退した。

 
 ※この年応仁の乱が鎮静したが幕府のお膝元である京都が戦場となったことで室町幕府の権威は失墜し以後日本は戦乱の時代を迎えることとなる。
 
 文明10年(1478)一色義遠・政具ら一色勢は三河を放棄して京都へ引き上げ、久世郡の槇島城へ入った。
 
 ●文明16年(1484)9月4日義春19才で急逝した。


丹後守護
◆六代 義秀(よしひで)

 文明2年(1470)生まれ。 義直の二男・義春の弟。

 初め弟の季岳と共に南禅寺に出家して周儀従者(法会や儀式を取り仕切る役)の任にあった。
 
 義春は急死したので急遽還俗して修理大夫・左京大夫・五郎・丹後・北伊勢守護を拝命した。。
 
 
長享元年(1487)9月将軍義尚は六角高頼征討のため近江へ出陣していた。義直は自らは出陣せず義秀を近江坂本へ出陣させて義尚に対面させた。 弟の義遠と一色吉原氏を補佐として付けた。この時正式に守護に任命された。
 
延徳元年(1489)3月義尚が近江の陣中で卒したので、4月足利義視(ヨシミ)と義材(ヨシキ)親子が美濃国より上京してきて翌2年義視は出家して義材が将軍になった。
 
 延徳3年(1491)義視が卒した。かねてから義視親子と対立していた丹後国丹波郷の地頭結城正広は同年3月義材に京都館をやかれて出奔し、跡地は一色兵部少輔正具が領知した。
 
 この頃丹後では義春舎弟と甥の義清とが跡目をめぐって国内が分裂していた。
 
 明応2年(1493)正月かねてから足利義澄党であった丹後の伊賀次郎左衛門が叛したため、父義直が急遽丹後へ下ってこれを鎮圧した。
 
 伊賀氏は熊野郡と竹野郡の奉行を兼任する有力な国衆で一色の重臣でもあった。彼は熱烈な「義澄」党であって、「常に「義材」党で守護義秀に反抗していた。 

 義秀のスポンサーである加悦奉行石川氏とも犬猿の中であった。
 
 義秀には加悦の石川直清がついて「義稙」の擁立を図り、一方守護代延永や伊賀は「義澄」党に組みし、丹後守護に義秀の甥になる人物を立てようとして紛糾した。
 
 将軍家では跡目を争いが起き足利義政と細川政元は「義澄」をおして、義政の夫人日野富子は「義稙」を押して中央の葛藤が深刻になってきた。
 
 明応7年(1498)義稙は越前へ移り、守護朝倉貞景を頼って9月一乗谷の館に入り、上洛の機会を窺っていいた。
 
 義秀は「義稙」の上洛を助けてこれを迎えようとしたが細川政元が「義稙」上洛を阻止した。
 
 伊賀氏は政元に加担して兵を挙げ義秀を攻めたので晋甲山へ退いて防いだか、破れて切腹した。
 
 義秀に組した石川直清は所領丹波郡善応寺は退いたが破れて切腹した。
 
 明応7年5月28日一色義秀 於普甲山ノ山中御自害。 御内衆13人討死。


丹後守護
◆七代 義有(よしあり)

 七代丹後守護一色義有は長享元年(1487)生れ 永正9年(1512)卒 26才
 
 ●
五郎・左京大夫・丹後守護(守護代は延永晴信)

  出自は不明であるが一色正人氏の説は以下の通りである。

 「土岐成頼の嫡男政房の子である」 土岐氏と一色氏の血縁が受継がれているのではないか?

土岐頼益の娘 一色義範(義貫)の室となる(一色義方系図)

一色義範『義貫)の子成頼 土岐頼益嫡男持益の養子となる(応仁舞監)

土岐成頼の嫡男政房の子七代丹後守護一色義有(推測)

文亀4年(1504)一色義有の娘 深芳野生まれる。

義有の娘深芳野は土岐頼芸内室となる。

大永6年(1526)斎藤道三に深芳野は下賜される

大永7年(1527年)斎藤義龍(斎藤道三)の嫡男として生まれる。後の一色左京大夫義龍



        土岐成頼は永享元年(1429) 〜 明応6年(1497)
     子の土岐政房は生年不明      〜 永正16年(1519)
        一色義有は長享元年(1487) 〜 永正9年(1512)
     孫の土岐頼芸は元亀元年(1501) 〜 天正10年(1582)

土岐家累代記大桑落城之事抜粋

  宮津ノ城主一色左京大夫ハ。元土岐ノ氏族ニテ。厚見郡一色ヲ領シ給ヒ。一色左京亮ト申。古今ノ勇士ニテ。後伊勢ヲ領シ。又伊豫國ヲ領シ。丹州ヲ賜リ。拾餘萬石ノ城主ナリ。



 文亀3年(1502)一色義直が卒した72才であった。 

 義直の死によって守護代延永と加悦の石川(石河)の抗争が激しくなり、守護の相続をめぐり石川を助けて若狭の武田の介入が露骨になってくる。

 義有が守護につくと武田の要請で将軍義澄は義有の守護の罷免して武田元信に兼任させることを命じたが、義有方にはこれを拒否している。

 永正3年(1506)武田元信は管領細川政元の援を受けて丹後を占領しようとしたが、一色勢は義有を守ってよくこれを阻んだ。

 元信の要請によって政元は更に丹波・山城・和泉・摂津等の勢力を動員して丹後へ下し、ここに幕府総がかりの大乱となった。 これが「永正の変」である。

 4月7日細川政元は養子の澄之を丹後に出勢させる。

 5月丹波の守護代内藤貞正・波多野元清らの丹波勢・賀屋城(加悦)を攻める。

 6月16日栗屋左衛門親栄・逸見昌清らの若狭勢奥丹後へ攻め入る。

 8月3日普甲山の合戦。栗屋親栄討死する。

 8月26日白井石見守清胤(小浜加茂城主)らの若狭勢奥丹後へ入り、丹波郷土居地(寺カ)の合戦。

 9月22日宮津城・府中城の合戦。 小倉の臣大木新兵衛討死。
 この日賀屋城・府中城の合戦。武田勢成相寺へ入って対陣する。

 10月11日竹野郡吉沢城の合戦。郷士坪倉家の奮戦により敗退。これ以後の奥丹後攻めはあきらめる。

 永正4年(1507)2月 赤沢宗益(山城三郡守護代で比叡山・大和の多武峰・法華寺の焼討の猛将)を丹後に下向させる。

 3月16日若狭の白井清胤、府中今熊野城と阿弥陀峰城を攻める。

 6月23日細川澄之と薬師寺長忠・香西之長・同6兄弟ら、京において父細川政元を暗殺する。政元42才。
 澄元近江へ逃亡する。

 6月26日元信ら若狭勢は成相寺を脱し、日置浜より海路若狭へ逃げ帰った。殿(しんがり)を承った赤沢宗は宮津城より普甲山を越えて京へ脱出図るも、さきに降伏した石川直常に阻まれ古市丹波・和久掃部ら数百人と共に討死(文殊堂へ返して切腹説有り)した。

 8月細川澄之は丹波より上京して管領家を継いだ。


 永正5年(1508)4月前の将軍義植(よしたね)が上洛し、現将軍義澄は近江へ走った。

 同年7月義稙が再度将軍となった。

 永正6年5月義稙は、義澄党の討伐のため、一色義有に上洛を即したが義有は丹後の義澄党に支えられていたので
上京をしぶっていた。

 永正8年(1511)7月、幕府よりの重なる上洛の命に義有はついに上京、摂津と河内へ出陣した。

 ●永正9年(1512)7月9日 一色義有府中の守護所で病死。26才であった。 かねてから病弱であったらしい


丹後守護
◆八代 義清(よしきよ)
当時の丹後

 五郎・左京大夫・義直の三男で兄(義秀)と共に南禅寺に出家していた季岳の子。 

 
母は若狭守護武田元信の娘である。
 
 季岳は義秀の弟で兄と共に南禅寺に出家していたが丹後守護が断絶しそうになったので、還俗させて丹後に迎え、守護につけようと画策したが、夫人が若狭武田の出である為国人の猛反対にあい、止むを得ず病気と称して石川城に隠居させ、子の義清を府中に入れて守護につけた。

 若狭から守護を呼ぶなどということはあり得ないことであるが石川直経が将軍義植や細川澄元の支援を得し強引したものである。 このことは後で丹後国内に大乱を呼ぶことになる。

 一方延永春信が三河国系の一色家から九郎を丹後の呼び、家督を継がせようとした。

 永正9年(1512)7月9日 一色義有府中の守護所で病死したのを期に一色義清と一色九郎との間で家督争いの状態となり、義清の守護代が石川直経、九郎の守護代が延永春信となり、守護が二人もいるというような並立状態となっていた。

 永正12年(1515)からついに内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失 われるなか、一色義清を擁立する重臣石川直経と、一色九郎を擁立する守護代延永春信の 両派が全面衝突したのである。

この戦いでは、延永春信が石川直経に勝利し、直経を加悦の安良山城から追い落とし、直経は加佐郡まで退散してしまった。  この争いで、数百人の死者がでている。

 永正元年(1504)義清は将軍義稙に拝謁して献上品を贈り、これに対し将軍より太刀を一腰下賜された。

 永正11年(1514)3月若狭勢が普甲山を攻め、加悦の和田・日置等が討死した。 武田元信が義清を支援する為の行動である。 この頃から義清を除こうとする延永と義清を擁護する石川との紛争が強くなってきた。

 永正12年(1515)延永春信は義清を廃して一色九郎なる人物を守護につけようと画策し、石川や武田らと争って国内が錯乱してくる。

 果然延永春信は義清を府中の守護所より追放したので、義清は石川義経を頼って加屋城へ走って籠城した。

 永正13年8月一色義清と一色九郎合戦する。伊庭貞説敗死
 ※伊庭貞説は近江守護六角氏網の家臣で義清の加勢の為出陣していて敗死した。

 
永正13年(1516年)から翌年にかけて一色義清は一族の一色九郎という人物と争った。義清は加悦城主の石川直経と、九郎は守護代延永春信と手を結び戦いを繰り広げた。

 永正14年(1517)6月2日春信は加屋城を攻めてこれを陥したので、義清と直経は若狭へ走った。これを追って延永春信は若狭へ入り、寝返った高浜の逸見国清と組み、八千騎をもって和田の岡本主馬介を葬り小浜へ迫った。

 この時、武田元信は援を幕府に求めた為当時の将軍、足利義種は、越前朝倉孝景と同教景に延永を攻撃するように命じた。又、近江の朽木植綱・伊庭氏らが加勢したので、延永らは加佐郡倉橋城へ退いて籠城した。

 同年8月丹波の内藤筑前守守国も武田が加勢した田辺の河辺へ攻め込み、さらに倉橋城を包囲した。九郎に味方していた高浜の逸見国清が討死し敗色が濃くなったので、延永春信は降伏して開城したが助命された。

 同年9月義清・石川直経らは丹後国に帰国した。

 永正16年(1519)2月将軍義稙は義清の年賀祝儀の返礼に太刀一腰を贈った。

 大永元年(1521)8月一色九郎が足利義晴に太刀一腰を献上した。 12月若狭の武田春信が卒して元光が継いだ。又、中央では義晴が将軍となった。

 大永3年4月足利義稙が卒した。

 大永5年(1525)5月 若狭勢が丹後をせめた。 9月武田元光は逸見高清と近江の朽木植綱をして丹後をせめさせた。 ※この若狭勢の度重なる侵攻は、義清への政権支援をみられる。

 大永6年(1526)4月武田元光が上洛している留守中に丹後水軍が若狭を攻め込んだので、越前勢が救援してこれを追った。 
 
 
 同年12月義清の娘で美濃の土岐頼芸(よりなり)に嫁していた美芳野が西村勘九郎(斉藤道三)の妻として払い下げられた。23才であった。
 ※この年、美芳野は義竜を生んだ。実は頼芸の子であったする。 義竜は後年の弘治2年(1556)4月長良川で道三を殺し一色左京大夫を名乗った。実父頼芸が道三に追放された恨みを果たした。 丹後一色と美濃土岐氏との関係は深い。 2代丹後守護 義貫の室は土岐氏の出であるし。 持頼も義貫と共に殺されている。 美芳野の孫の竜興も一色性を名乗り永禄6年(1563)諸役人付に(外様衆・一色治部少輔・斉藤山城守竜興改左京大夫)とある。竜興は若狭一乗谷へ亡命し、天正元年(1573)8月刀根坂で討死している。

 享禄2年(1529)9月何鹿郡志賀郷吾雀庄(あすすき)(現、綾部市志賀卿)の地頭志賀次良右衛門(山尾城主)が細川高国より丹後田辺郷の代官を任じられて、これを占領するという事件が起こった。
 
 ※管領細川政元には実子がなく、澄之・澄元・高国の三人を養子に迎えたが不和で、政元が澄元に暗殺された後は澄元と高国が争い、永正4年(1507)澄之が澄元に殺され、同17年(1520)には澄元が卒っし、その後は高国と澄元の子晴元が争った。

 
若狭の武田元光と丹後の一色義清は細川晴元党に組みし、志賀が高国党に組した。この後は丹後と若狭、何鹿の志賀らが入り乱れて抗争し、複雑な政相が続く。

 享禄4年(1531)6月志賀の長男四郎良兵衛尉は高国に従って尼崎に出陣したが細川晴元に敗れて、8月高国と共に討死した。

 ※これ等のことから義清の守護としての地位は甚だ脆弱であったことが伺われる。

 この年足利義昭の側近として活躍する七郎系の一色藤長が生まれる。 また翌々3年(1534)には織田信長と細川
藤孝が生まれる。

 天4年(1535)10月1日武田勢が加佐郡に入り、田辺城に志賀党を攻めた。


 天文5年(1536)5月若狭勢が再び田辺城(五老ケ嶽に比定)を包囲したので志賀勢は支えきれず滑落(飢饉で落城)した。

 天文8年閏6月丹後の松田丹後守晴秀は義清の丹波郡光富保における押領を幕府に訴える。

 天文9年(1540)7月丹後水軍が越前へ攻め入った。 これを追って越前勢は五百艘の軍船で加佐郡へ攻め込んだ。 この年丹後守護代延永春信が卒して宗清が継いだ。

 天文11年(1542)2月若狭勢は普甲山を攻め、6月には府中へ入って国分寺が炎上した。
 12月菊憧丸(後の足利義輝)が7才で御所へ参第したので義清が御供した。

 天文12年(1543)義清の娘が大友塩法丸(後のキリシタン大名大友宗麟)は嫁している。

 天文13年(1544)3月石川直経の長男小太郎が、居城丹波郡五箇の城を伊賀に攻められて自刃し、同日石川の支城竹野郡島津の高尾城が攻められて城代嵯峨根出雲守又左衛門討死した。 又左衛門の娘は石川小太郎の妻である。 この年以降義清と石川直経の消息は絶える。 反義清派の延永・伊賀らのために没落したものと考えられる。
 両人とも歿年・葬地も全く不明である。 亡命先は若狭か? 但し石川氏は天正の頃には加悦に復活している。


丹後守護 (一色氏と田辺城の終焉)
◆九代 義員(よしかず)
 一色議員は丹後一色氏の中では全く埋没していて戦記物等で義幸・義道など架空の人物が登場、史実もまた捏造されたものが多い。 

 義員は三河一色系の出とみられ、永正14年の変で義清と戦った一色九郎説あるいわ血筋を引く縁者と思われる。
 愛知県知多市西屋敷の臨済宗法音山 慈光寺の系図に 義範 → 義遠 → 義長 → 義員 → 義定 とあり、知多市の龍雲山の大興寺の系図にも義遠四代孫左京大夫義員其の子義定とある。

 義遠については眞木島系図に 一色義遠 城州住槇島 後年性改槇島とあり(文明10年(1478)三河より上洛したことがのせられている。義員はここで生まれたと想定される。 員の名はかつて義遠がいた北伊勢の員弁郡(いなべ)よりとったものと思われる。

 義有が病死した際に継子がなかったので、伊賀らが謀って丹後に移し庇護し、その成長を待ったものと思われる。

 
永禄6年 諸役人付  光源院殿(将軍足利義輝)御代
  御供衆 一色式部少輔  藤長
  外様衆 大名国衆号国人 
      丹州 一色左京大夫(義員)
       
 永禄6年 ここにはじめて藤長の名前がでてくる。 一色藤長はこの頃義員の補佐役であった。

 永禄8年(1565)5月将軍義輝が松永久道・三好吉継に攻められて、二条御所で討死した。30才

  同年7月義輝の弟覚慶(後の足利義昭)は奈良興福寺一乗院より近江の矢島郷へ逃れた。一色藤長らがお供をした。

 永禄9年(1556)8月義昭は越前金ヶ崎城へ動座した。 一色藤長と一色昭光(宇治槇島城主))らがお供した。
 その後義昭は金ヶ崎より越前の朝倉義景を頼り、一乗谷の安養寺は入った。藤長らがずっとお供している。

 同年11月加悦の石川氏が一色を離れて丹波の波多野らと通じ、毛利に味方することを申し入れている。

 一色氏は既に織田信長に味方する構えを見せていた。

 永禄11年(1568)9月足利水軍義昭は織田信長の援をうけて上洛し10月十五代将軍に任じられた。

 同年4月、織田信長が丹後の一色義員に、信長に組みしてして国衆を率いて上洛するよう促した。

 永禄12年(1569)正月17日 織田信長より正月の祝賀に義員が信長に贈った献上品に対する礼状が届く。

 同年、丹後勢は信長の命で、先に焼かれた室町御所の替りに、二条勘解由小路室町館の新築工事に出役した。

 永禄13年(1570)4月20日信長は越前朝倉義景討伐の兵を起こした。 一色藤長が丹後へ帰って出陣の指揮を取ったが、義昭の側近である為自らは出陣を取り止めた。

 同年4月25日、一色義員は藤長に替わり丹後水軍数十艘を率いて越前金ヶ崎を攻めたて所々浦々に放火した。しかしこの時信長は長勢は後詰めの羽柴秀吉に護らせて敗退した。

 天正3年4月丹後勢は河内へ出勢して高島城・新堀城・誉田城に三好党を攻めた。

 5月丹後勢長篠の合戦に出勢する。

 8月義員は矢野藤一郎光長(田辺城代)櫻井豊前守左吉郎(佐波賀城主)大島但馬守長光(田中高屋城主)らが加佐水軍を率いて田辺を出帆し、10月下間和泉守・筑前守頼照・松浦法橋ら越前一揆勢を攻めた。
 これらの功績により義員は信長より改めて丹後を与えられた。
 
 9月28日吉川元春の勢、尼子勝久の居城丹後由良城を攻め落とす。
 
 同年9月信長は萩野・波多野の勢力を排除する為に細川藤孝に丹後・丹波の経略を命じた命じた。

 天正4年(1576)2月足利義昭は紀州興国寺より備後鞆は動座し、毛利の援を受けて上洛を図った。お供の一色昭光や藤長がこれがため奔走した。

 5月加悦の石川弥七郎繁俊は吉川元春に書を送り、毛利に加勢する事を約して毛利の乞いにより出陣した。

 8月丹後の一色義辰(竹野郡代)が吉川元春に対し、義昭が丹後をへて上洛する場合にはその通路を確保する旨一色昭辰に申し出ている。

 10月丹後・但馬の国人が波多野に叛して一揆を起こした。 同時に明智光秀と細川藤孝が丹後へ攻め入ったが本願寺光佐が挙兵したので引き返した。

 11月義昭は毛利・萩野らの援を受け、但馬・丹後・丹波より上京して室町幕府の再建を図ろうとしたが「時期尚早」と藤長が同意しなかった為、結局実現しなかった。

 5月丹後勢長篠の合戦に出勢する。

 天正5年(1577)10月光秀と藤孝は再び丹後へ入り、賀屋城を攻めた。

 天正6年1578)3月丹波黒井城の萩野直正が病死した。50才

 4月この機を失せず光秀と藤孝は丹後へ攻め入って萱城を攻めこれを陥した。この後両人は引き返して上月城を攻めた。

織田信長 丹後攻略勢力表

細川家譜--細川藤孝譜より
丹後勢 (一色義員) 織田勢 細川藤孝・明智光秀
弓木城 一色五郎(義員) 細川   飯河山城守 信堅
田邊城 矢野但馬・同藤一郎 細川勢   荒川勝兵衛輝宗
由良 大嶋對馬守 細川勢   沼田勘解由左衛門清延
中山杢之助落合城 落合孫四郎・同嘉門 細川勢   長岡平六好重
瀧山城 瀧山主計・同安左衛 細川勢   頓五郎興元
峯山城 吉原又左衛門・同左馬入道西雲 細川勢   松井康之
八禰城 一色式部 細川勢   有吉立
熊野城 櫻井豊前守・小山隼人 細川勢   米田是政
久美城 一色宮内少輔・清水次左衛門 細川勢   志水清久
竹野城 波多野清右衛門・一色又左衛門其外中津海左京・坂井造酒助・澤彦兵衛等一色ニ属シ城ヲ守ル 細川勢   志水悪兵衛秀清
大久保
城主
小倉播磨守 細川勢  藤木又左衛門成定
栗田城主 川嶋備前
府中城主 延長修理
須津村城主 大内宮内左衛門
亀山城主 石川浄春齋
賞幾院城主 公荘但馬守
下村城主 上原徳壽軒
宮津城主 小倉玄蕃允
總村城主 北荘鬚九郎
間入村 荒川武蔵
嶋邑ノ石河尾張村 田越前
下岡城主 高屋駿河入道良閑同十郎兵
徳光村城主 後藤悪助
成願寺村 野因幡江波
和泉黒部村城主 松田遠江
宇川郡城主 山内道倫
嶋城 嶋田藤兵衛
能室城 太田右京土井小十郎
平村城 小倉備前守
吉永城 矢野兵衛佐後藤金
蔵岩永城 井上卒度右衛門
岡城 小瀬因幡
日置村聟山城 日置弾正松井金山茂呂
菊井大嶋城 千賀兵大夫
中村城 大森總右衛門大村長門
一分村城 氏家大和
中山城 一色左京大夫
志高城 長江小太夫
女布城 森脇宗波
福井城 福井藤吉郎
上記含め下三千餘人ナリ及び光秀ヨリ加勢トシテ人數三百餘ニテ馳加ル


 7月上月城が陥ちて尼子勝久・は自刃し山中幸盛も暗殺されて尼子氏は滅んだ。 勝久26才、幸盛39才であった。

 10月光秀と藤孝は三たび丹後へ攻め入った。11月宮津の小倉一族はこれを阻止して敗死した。

 天正7年(1579)5月波多野宗長の守る丹波の冰上城が陥ちた。

 6月光秀と藤孝は丹波八上城と攻めた。城主波多野秀治は降伏の後磔刑に処せられた。

 7月光秀と藤孝は丹後へ入り嶺山城と弓木城を陥し、沼田氏(若狭熊川城主)をして田辺城を攻めた。義員は田辺城に籠城した。

 8月16日義昭は田辺籠城軍に対してその功を称え褒状を与えた。 義員は義昭の上洛に呼応してその通路を確保したものである。 結局上洛は中止となった。

 8月丹波の黒井城が落城して赤井忠家と幸家が降伏した。

一色義員らが上洛の通路を確保してこれを助けようとしたが、ついに果たせなかった。


細川藤孝譜

天正七年同月ヨリ十月ニ至リ丹後ノ國士属セラルヲ藤孝忠興ト共ニ之ヲ攻ム 相従フ宗徒ニハ飯河山城守信堅・荒川勝兵衛輝宗・沼田勘解由左衛門清延・長岡平六好重・頓五郎興元・松井康之・有吉立行・米田是政・志水清久・同悪兵衛秀清・藤木又左衛門成定等以下三千餘人ナリ 光秀ヨリ加勢トシテ人數三百餘ニテ馳加ル 然ニ弓ノ木城ニハ一色五郎田邊城ニハ矢野但馬・同藤一郎由良城ニハ大嶋對馬守・中山杢之助落合城ニハ落合孫四郎・同嘉門瀧山城ニハ瀧山主計・同安左衛門峯山城ニハ吉原又左衛門・同左馬入道西雲八禰城ニハ一色式部熊野城ニハ櫻井豊前守・小山隼人久美城ニハ一色宮内少輔・清水次左衛門竹野城ニハ波多野清右衛門・一色又左衛門其外中津海左京・坂井造酒助・澤彦兵衛等一色ニ属シ城ヲ守ル 依之藤孝先ツ弓ノ木城ヲ廿日餘リ攻ルニ堅固守テ落サル故數多ノ人數ヲ討センモ益ナシト思ヒ櫻井豊前守ニ使ヲ遣ハシテ云ヤウ一色ノ家運モ最早末ニ及ヒ此城強ク支ヘラルゝ事モ久シカラシ我又一色家ニ遺恨ナシ願クハ無事ヲハカラフヘシトアリケレハ豊前守等會合シテ申ケルハ藤孝忠興ノ仁勇ニ敵シカタク幸ニ彼方ヨリ扱ヲ入ルゝ事面目ナリ速ニ和議然ルヘシト一決シ一色五郎降参シ大嶋對馬守・櫻井豊前守・矢野藤一郎等降参シテ人質ヲ出ス 其餘ノ城々従ハサルハ攻落ス 奥山城ニ矢野志摩守楯籠リ嶮岨ニサゝへ防ケ共藤孝カ家士上羽丹波光秀カ家士妻木主計先ニ進テ乗入敵數多討取ルユヘ志摩守モ軍門ニ降ル 佐野城ハ佐野備前・同源五郎郷民ヲ駈リ集メ楯籠ルヲ進ンテ烈敷鉄炮ウタセ人數ヲ分チ上ノ山へ廻シ城中ヲ目下ニ見下シ大手搦手三方ヨリ同時ニ乗破ル 佐野源五郎ハ逃行ケリ 藤孝下知シテ云フ一揆タリ共猥ニ誅スヘカラス降ルモノハ助命シテ案堵サスへシト 依之大久保城主小倉播磨守・栗田城主川嶋備前・府中城主延長修理・須津村城主大内宮内左衛門・亀山城主石川浄春齋・賞幾院城主公荘但馬守・下村城主上原徳壽軒・宮津城主小倉玄蕃允・總村城主北荘鬚九郎・間入村荒川武蔵・嶋邑ノ石河尾張村田越前・下岡城主高屋駿河入道良閑同十郎兵衛・徳光村城主後藤悪助以下七十餘人砦ヲ出テ降参ス 尤此内他國へ立退モアリ成願寺村ニ星野因幡江波和泉黒部村城主松田遠江等ハ強ク働テ戦死ス 與佐郡日置ヨリ北ノ方本荘菅野浦入等ハ宇川郡城主山内道倫ヲ大将トシテ本荘菅野両城ニ楯籠ル ■嶋城ニハ嶋田藤兵衛能室城ニハ太田右京土井小十郎平村城ニハ小倉備前守吉永城ニハ矢野兵衛佐後藤金蔵岩永城ニハ井上卒度右衛門岡城ニハ小瀬因幡日置村聟山城ニハ日置弾正松井金山茂呂菊井大嶋城ニハ千賀兵大夫中村城ニハ大森總右衛門大村長門一分村城ニハ氏家大和中山城ニハ貫幸兵衛志高城ニハ長江小太夫女布城ニハ森脇宗波福井城ニハ福井藤吉郎楯籠ル 藤孝光秀ノ軍勢押寄々々攻ケルニ難計降ヲ乞ヒ城ヲ渡ス 國中残ナク攻伏セリ 丹後ハ一色・山名・波多野ノ勇士多キ故稠敷防戦ニ及タルモ有レ共藤孝軍慮ヲメクラシ恩恵ヲ施シ忠興ヲ初メ松井・有吉・米田以下ノ家士各粉骨ヲ尽シ且諸勢正クシテ民ノ煩ヒナク悉ク藤孝ノ手ニ属ス 丹後打入ノうち雲林院式部大輔ヲ大将トシテ宇津大和守・釋加牟尼佛靭負・和田加兵衛三千程ニテ丹波國鬼ケ嶽城ニ立籠ヲ光秀之ヲ攻ム 忠興聞テ九月十八日近習計ニテ發向ス 藤孝ヨリ松井康之ヲ差添ル 光秀歓テ追手ノ方へ備ヘラルヘキトソノ事ナリシニ古田左助之ヲ用ヒス山ノ手然ルヘキトテ間道ヨリ城ニ乗入テ鬨ヲ發シ左助先ニ進テ敵ヲ討取忠興モ敵ヲ突伏首ヲ取ル 是ヲ見テ總軍一同ニ攻懸リ城兵宗徒ヲ初メ二百餘人討取ル 城主式部等残黨ト共ニ逃散ル 是ニ聞キ■チシテ久下・澤田・綾部城モ明渡スユヘ光秀ノ人數ヲ入置ク 忠興ハ康之ヲ残置キ又丹後ニ歸リテ堀久太郎ヘ書状ヲ以テ注進シケレハ十月二日信長ヨリ自筆ノ感状ヲ給ル 其後藤孝忠興共ニ安土二参観ス 十一月伊丹城落去村重ハ竊二高野山ニ忍入ル八年庚辰三月十八日藤孝従四位下ニ叙セラレ侍従ニ任セラル


 10月信長が明智光秀と細川藤孝に命じた両丹の計略は完了した。信長は丹波を光秀に丹後を藤孝に与える事を約した。

 この両丹の計略は一色義員にとっては、全く心外なものであった。天正3年(1575)信長への協力して度重なる戦功によって、丹後は再度一色領と認められているのに、攻めこまれたのでは面目が立たない。抵抗した加悦の石川氏と宮津の小倉氏は天正6年(1578)攻められ自滅してしまった。 吉原氏は藤孝入国直後の天正8年(1580)8月城を攻められ切腹している。
 田辺城でも、矢野藤一郎ら加佐勢が義員を擁して立て籠もった事が考えられる。 結局時勢には勝てなかった為か、7年9月の頃に開城し、義員が一切の責を負うて切腹し、部下を助けたものと思われる。

丹後守護 (一色氏の終焉)
◆十代 五郎義定(よしさだ)

 権左京大夫 知多市の慈光寺系図に義員の子とのせている。 義有・義定・満信・満義等名前があるが何れも定かでない。 

 十代目とはいえ、守護とはもはや考えられずしいて言えば織田信長の客将のような地位にあった。

 天正7年父と共に田辺籠城に加っていたと見られるが、その後どこに居住していたか明らかではないが おそらく矢野らと共に、藤孝の配下となっていたであろう。

 天正8年(1580)8月 細川藤孝は約3千の軍勢を率いて山城国長岡の青龍寺を発して、宮津八幡山(猪岡城)へ入った。 入国直後に峰山を攻めて、丹波勢に同心したとみられる吉原西雲を切腹させた。 その後信長の許しを得て宮津浜手に平城の築城を始め、ついで隠居城として田辺に新しく平城を築いた田辺の城はその形から宮津鶴賀城とよばれ、田辺の城は田辺城とも舞鶴城ともよばれた。
 


 天正9年(1581)2月28日に、信長が京都二条で正親町天皇叡覧の馬揃えを催した時で、五郎は4番に十五騎を従えて参加している。官職は左京権太夫となっている。

 同年5月宮津へ来遊した明智光秀の仲介で細川藤孝の長女伊也を娶った。


 天正9年9月信長検地で丹後は十二万三千石と定めこの内五郎の知行を二万石として、矢野藤一郎の知行を四千5百石と定めた。 五郎は大名なみの扱いで、矢野は加佐郡における筆頭家老で田辺城代であったと思われる。 田辺籠城の責任をすべて義員がとった故に、矢野は助命された。

 五郎は信長の臣下となったわけで文書にも義員には「一色殿」又は、「左京大夫殿」としたものを五郎には呼び捨てで呼んでいる。

 天正10年(1582)2月信長は甲斐の武田勝頼の討伐の軍令を下した。 翌3月信長の嫡男信忠は先頭となって信州高遠城に勝頼の弟仁科五郎盛信を攻めた。  
 藤孝は宮津に留まり、忠興、興元、一色五郎らは宮津を発って高遠を攻めこれを陥し、さらに甲斐へ進行した。勝頼は家臣の離反にあい自刃し甲斐武田氏は滅亡した。勝頼37才であった。

 4月織田信忠と一色五郎は丹後へ帰陣した。 同月織田信長は光秀・藤孝・一色五郎らに対して備中高松城攻めで苦戦している秀吉の援軍として出勢するよう待機を命じた。

 6月3日光秀は中国への援軍として亀山城(亀岡)を発し老の坂を越えたが、突如として京へと道を変え本能寺を襲って信長を殺した。 織田信長 49才

 光秀より毛利への密使を捕えた秀吉は高松城主清水宗治を切腹させ、昼夜兼行で上京して山崎の天王山で光秀を破った。
 光秀は青龍寺城を出て近江の坂本城へ向かう途中、小栗栖に於いて土民の竹槍に刺されて討死した。

 光秀の女婿秀満は坂本城は籠って奮戦したが及ばず、丹羽長秀に攻められて光秀の後室ら一族と共に自刃した。

 7月若狭の武田孫八郎元明は光秀に加担したという罪を被せられ、近江梅津の宝鐘院へ召喚されて丹羽長秀の面前で切腹を命ぜられた。 31才であった。

 宮津城に在った忠興の室 玉
(後の細川ガラシャ)は光秀の娘であったから、父の罪を一身に負って丹後半島の奥深い美土野に幽閉された。その実藤孝親子が隠したというのが定説である。 
 
 この6月光秀に呼応して加悦谷の勢がいっせいに兵を挙げたので有吉立言がこれを討った。

 7月秀吉は改めて丹後を忠興に与えた。

 9月8日 丹後の一色五郎が又、武田元明同様光秀加担の疑いで秀吉より切腹を命ぜられ宮津場内三の丸の米田屋敷(現一色稲荷)の場所で自刃したものである。 
 実のところは伊也と五郎の仲人でもあり同族でもある光秀に対する近親感はあったかもしれないが加担したとは考えられない。
 

  これをもって実質180余年も丹後守護職であった一色範氏の流れをくむ(丹後一色)は滅亡しました。
 

 

式部少輔 (足利幕府と一色氏の終焉)
 一色 藤長(ふじなが)と 最後の将軍 足利義昭(よしあき) 

 藤長は守護ではないが七郎系一色吉原の系統で将軍義昭の侍従として同族足利家の再興に尽力し、義員を授けて丹後一色を支えた。
 
 天文元年(1532)生まれ。 晴具(はるとも)の子・七郎式部少輔・お伴衆・奉公衆・申次衆・従5位下・後に剃髪して一遊斉。

 文明10年(1478)に義遠・政具が三河


 永禄13年(1570)9月3日、一色藤長が足利義昭の命を受けて摂津中島は出兵し、三好党、雑賀党を討った。

 天正元年(1573)足利義昭は信長と対抗する毛利の援を受け、再び上京して将軍の職に就こうと策した。 丹後の一色氏は早くから信長に組みしていたが、先代義輝の頃から将軍側近であった一色式部少輔藤長は義昭の側を離れなった。

 この年足利義昭は一色昭光の宇治槇島城に入って信長に対抗したが、敗れて河内の若江城へ移り室町幕府はここに滅亡した。 

 藤長も槇島城に籠城したが共に若江城に移った。 細川藤孝の兄三淵藤英が籠城も加担した罪で切腹を命じられたのに藤長と昭光には何のおとがめもなかった。 (これは信長と通じていたからとされている)

 義昭はさらに堺の普賢寺は移ったが、ここで藤長は責任をとり、剃髪して一游斉と称し義昭の城命を乞うた。

11月一行は紀州の興国寺へ移った。
 
興国寺における藤長の歌

くろやまに笛さえわたる月影も
    
 
いちずともなき旅の空かな

人呼んで義昭を「流浪の公方」といった。

 天正4年(1576)2月義昭は幕府の再興を悲願し、紀州興国寺より側近を率いて備後の鞆へ渡り、毛利を頼った。
 お伴の一色昭光や藤長がこれがため奔走した。
 (義昭は鞆を基地としてあくまで上洛を果たすべく、各方面は檄を飛ばした)

 5月丹後では、加悦の石川弥七郎繁俊が毛利勢の吉川元春に書を送り丹波の萩野・波多野・赤井らと組んでこれに加勢した。 

 8月丹後の一色義辰(竹野郡代)が、吉川元春に対し、義昭が丹後を経て上洛する場合はその通路を確保する旨同族(弟?)一色昭辰に申し出ている。

 11月義昭は毛利・萩野・らの援を受け、但馬・丹後・丹波より上京して室町幕府の再建を図ろうとしたが「時期尚早」と藤長が同意しなかったため、結局実現しなかった。

 天正7年(1579)一色義員らが上洛の通路を確保してこれを助けようとしたが、ついに果たせなかった。
 

 天正10年(1582)6月本能寺の変で信長が討死した後、義昭は秀吉を和解した。これは藤長や昭光らが奔走したことに外ならない。

 天正15年(1587)7月藤長と細川藤孝は九州より帰途備後の鞆に立ち寄って義昭を見舞っている。この後丹後に帰って藤孝(幽斉)らと月次歌会を催している。

 天正16年(1588)正月義昭は鞆より上京して剃髪し、昌山道休と称した。公邸は大阪であったが私邸は宇治の槇島城で、藤長と昭光が九奉した。

 文禄元年(1592)3月藤長は藤孝・昭光らと昌山道休(義昭)の供をして秀吉の本陣肥後の名護屋城へ赴き、朝鮮遠征の労をねぎらった。

 慶長元年(1596)4月藤長卒。65才。 

 慶長2年(1597)8月28日昌山道休(義昭)が卒した。