伊予・松山・今治 一色氏の出自にせまる!

  愛媛県松山市で、一色と名乗れば 「斉院町(さや)の方ですか?」

と言われる程、斉院町地区には一色性の方が多く見受けられます。


そこで松山市の一色氏の出自について調べてみました。

一色氏と関係の深い斉院高家八幡神社 

参道

本殿(正面)

本殿
神社由緒書き
松山一色始祖 範直公 ・ 教重公募所
一色範直公 墓誌

公は大永三年(一五二三)十二月二六日尾張国知多郡知多城主一色式部太夫氏勝の次男として生る。兄は範重と云ふ。天文一七年(一五四八)二五歳の時上洛し足利将軍に拝謁従五位下左衛門大夫に任ぜられ義輝将軍に股従江州(滋賀県)、丹波に奔り同二二年帰洛す。弘治三年(一五五七)正月二七日三四才の時知多の旧領を長子詮勝に譲り上京、加茂神社の斎院大夫となる。永禄十年(一五六七)二月、四四歳の時将軍義昭の側近の実力者梅仙軒霊超の仲介により伊予守河野左京大夫通宣の招きに応じ垣生加賀守盛周、来島出雲守通康等に迎へられ伊豫に移住湯築城の西の方桑原将監藤原正広の旧領三五〇貫の地を宛行はれ以後此処に居城を構え斎院太夫と称せられこの地を斎院邑と称すと云う。天正元年(一五七三)垣生加賀守盛周に従ひ地蔵嶽城主大野直行を攻め大功を立てた。天正一三年(一五七三)豊臣秀吉の四国征伐に際しては岳父通康の子通総と共に太閤に属し小早川隆景軍の先鋒を勤む。同年九月河野氏滅亡、天下静穏翌一四年正月二〇日卒去行年六四歳也。公の内室は来島通康の女(実は養女)範直公伊豫移住の砌り妻に迎へ翌永禄十一年十二月二十日範春を儲け嫡子とす。公死去の年十月六日公の後を追うが如く卒去す。按ずるに当松山の一色氏族は公を似って始祖とす。以来子孫繁衍し戸数四百余りに及ぶ。

一色左ヱ門尉教重 墓誌

一色左衛門尉教重公は、尾張知多郡阿久郷草木城主範直公の三男也弘治三年(一五五七)父に伴われ京都に移り、永禄一〇年(一五六七)伊豫の太守河野通宣の招きに応じ松山に移住し、教重公は湯築城主河野通直の近習旗本となる。即ち温泉群衆の一人也。元亀元年(一五七〇)阿波の三好氏が来襲するに当たり東予に出陣す。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐の砌其の代将小早川隆景に攻められ河野通直は降参、遂に河野家は滅亡し終わる。以後教重公は郷士となり斎院邑に隠退す。慶長六年(一六〇一)松前城主加藤嘉明が松山城を築くに当たり石手川を改修し湯山川の跡地を開拓するに際し、代官足立重信の下命により公は里人と共に従事す。然れども工事は難行、そのうえ天候不順にして連年の凶作続き。且つまた約束の下賜り金の交付もなく里人の餓死する者続出、遂に逃散者まで出るに至る。ここに於いて公は、私財を抛って里人を救うこと苦節二十一年余。公自身も遂に力つき寛永元年(一六二四)餓死せり。実に痛恨の極みなり。墓は北斎院町一七八番地の旧居跡に葬る。因に工事は嫡子文左ヱ門、これを引継ぎ寛永十二年(一六三六)ほぼ完成せり。此の年久松定行公、勢州(今の伊勢)桑名より松山藩主として入封す定行公が文ヱ衛門の功を償し録三百石を與え家臣に登用す。文左ヱ門名を田宮と改め忠勤す。公に三男あり。長男は文左ヱ門、次男は伊兵衛。三男は祐山なり。今般墓所移転に当たり公の略歴を誌し以って供養すること如斯也。

※(斎院地区は室町時代、朝廷から贈られた土地で山城国の荘園だった為伊予守護河野氏への租税等負担が免除されていた)

     尾張国知多郡  →  伊予松山

 松山市斉院町に高家八幡神社という由緒ある神社が御鎮座されている、神社の由緒に天暦元年(947年)山城国加茂斎院に仕えた一色式部太夫氏勝は当地に来り、高家山に八幡大神、加茂大神を勧請した後、地名に斎院の文字を用したとある。

 神社の由緒に天暦元年(947年)この地に来たとあるがこの時期より斉院(さや)地区が加茂神社社領になった時期で一色一族が来たのはずっと後の1500年半ば(室町後期)頃である。

 神社の由緒に出てくる一色氏勝式部大夫とは一色家系譜にある従五位下式部大輔で尾張国荒尾庄木田城居住(現、東海市荒尾で知多半島の根元付近)一色氏勝と同一人物と思われる、彼の子従五位下左衛門太夫一色範直(天正14年1586没)は
天文一七年(一五四八)二五歳の時上洛し足利将軍に拝謁従五位下左衛門大夫に任ぜられ義輝将軍に股従し江州(滋賀県)、丹波に奔り同二二年帰洛す。

 弘治三年(一五五七)正月二七日三四才の時知多の旧領を長子詮勝に譲り上京、加茂神社の斎院大夫となる。

 永禄十年(一五六七)二月、四四歳の時将軍足利義輝の側近の実力者室町末期@梅仙軒霊超の仲介で伊予守河野左京大夫通宣の招きに応じ河野家重臣A垣生加賀守盛周B来島出雲守通康に迎へられ伊豫に移住、湯築城の西の方桑原将監藤原正広の旧領三五〇貫の地を宛行はれ以後此処に居城を構え斎院太夫と称せられこの地を斎院邑と称すと云う。

 
  天正元年(一五七三)垣生加賀守盛周に従ひ地蔵嶽城主大野直行を攻め大功を立てた。天正一三年(一五七三臣秀吉の四国征伐に際しては岳父河野(来島)通康の子来島通総と共に太閤に属し小早川隆景軍の先鋒を勤む。 
 同年九月河野氏滅亡、天下静穏翌一四年正月二〇日卒去行年六四歳也。
 
  
公の内室は来島通康の女(実は養女)範直公伊豫移住の砌り妻に迎へ翌永禄十一年十二月二十日範春を儲け嫡子とす。公死去の年十月六日公の後を追うが如く卒去す。
 
 

 伊予には斉院荘園の他、菊間(現今治市)にも同じく上賀茂神社領菊万荘と呼ばれた荘園があり得居氏(伊予の名門土居氏と得能氏の子孫)が代々賀茂神社菊万荘の警固衆と所務請負人を務めていて同じ加茂神社所務請負人として一色範直と協力関係にあった可能性がある。


 
この頃の得居氏(河野家御一族)は村上水軍の来島系村上当主・村上(河野)通康の嫡男の通幸が得居家の跡を継ぎ、賀茂神社菊万荘の所務請負人職も継ぎ得居通幸と名乗った。

 
 
 
得居通幸の
父村上(河野)通康は居城を府中(今治)来島海峡の来島城に置き風早(北条)にかけて海陸に勢力を持つ河野家家臣の最有力者で、伊予守護河野通直に厚く信任された。
 
 
 
通康は河野通直の婿となり河野一族として河野氏の家紋の使用と河野姓を名乗ることを許される程権勢を誇り四男(次男とも)通総は村上水軍の中で唯一久留島と名を改め大名となり明治まで存続した。

 また通康の娘(養女?)は九代丹後守護 一色義員(義道)の妻であり東予地区の一色の祖である一色右馬三郎重之(範之)の母と伝えられている。
 戦国時代も末期になると守護大名達は、地域支配を強めていき斉院にあった加茂神社の荘園も菊万荘も守護河野氏の支配下となり荘園は消滅した。


  一色範直の子教重もこの地に留まり湯月城の伊予守護河野家近衆となり温泉郡衆17人内になった
(支配地温泉郡とは=現在の松山市、東温市)支配地は現在の斎院、山西町近辺)、これは村上通康の力添えにより河野家家臣として取り立てられたのだろうか?

C一色左ヱ門尉教重 墓誌を見ると河野の代より豊臣、徳川大名の時代になって湯山(石手)川の付替え工事等で過酷な労役がこの斎院の人々にも課せられた様子が垣間見える、余談であるが幕末山西村(斉院邑と隣接地)庄屋D一色義十郎が藩命にて大可賀新田を見事に完成させた、DNAは脈々と伝わっているようである。


 @梅仙軒霊長とは臨済宗大鑑派の僧で足利家義輝、義昭の側近として、関白近衛尚通や足利幕府を結ぶ京都外交の窓口役であり伊豫河野家に対し大きいパイプを持っていた。
 彼の姉は関白近衛尚通室であり霊長はそれらを利用し将軍家や尚通と伊豫河野家の間を取持ち通直、通宣、通直の娘婿村上通康らと多数の書状やり取りがあり京都外交の仲介役としての活動が覗える。
 霊長が足利将軍家に仕えた同僚であった一色範直を伊豫に送り込んだ?意図はいったいなんであったのか?・・・
 其の霊長は河野氏側に立った仲介者として活動していたとみられ後に拗れる伊豫の日吉郡にも河野氏から領地が充てがわれていた。
 足利幕府と河野家との仲介役としてはこの他将軍家を初め有力守護大名、一色氏が守護であった丹後に大きい勢力を持っていた一色藤長、槇島(一色)昭光等の書状が多数残ってる。
 

 A垣生加賀守盛周とは、河野家重臣(御家老衆)で斉院町の西側に面した現在の生石町〜北吉田辺りを領地とし垣生山に城があった。最後まで河野家に尽くした人で河野家滅亡後は通直に従属し三原に渡った。

B来島通康=河野(村上) 通康、河野氏の重臣。村上水軍の大将。来島城主。 来島通康として知られるが、実際に来島氏を名乗ったのは四男の通総が豊臣秀吉に仕えて以降であり、通康自身が来島氏を名乗った事実はない??。
 娘(養女?)を一色家に2人出している、一人は前出の範直、もう一人は、丹後守護一色義員(壬生川一色氏始祖一色右馬三郎の母)。
 この辺りの事情については今後深く追求してみた。

 C足立重信の命により一色左ヱ門尉教重の手で行われた湯山川(石手川)の改修工事は逃散者や餓死者まで出る苛酷なものであった、教重自身も約束の下賜り金も下されぬ中私財を抛うって里人を救い挙句の果て教重自身も餓死してしまった。

 この件に関して伝わっているのは足立重信の功績のみである教重公の偉業も史実として記憶に残していきたいものである。
 
 足立重信の命で行った工事に私財を抛って里人を救い餓死した一色教重公は同時代に同じく大飢饉にみまわれた近村の松前筒井村、義農作兵衛が「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまっのと重なって見える!



一色左衛門尉教重について




D一色義十郎について詳しくはクリック

来島村上氏 支配地

   
 今治地区の一色氏は範直の兄で尾張国知多郡に残留していた詮勝の子
勝久から範能が明治まで伊豫今治藩の家老を勤め数々の記録が残っている
 尾張国知多郡  →  伊予今治 
  勝久が今治一色氏の祖となり松平今治藩の家老を明治迄勤た。
松山一色氏と今治一色氏兄弟である。記録は山程あるのでいずれ
記していきます。
 又、@東予地区(旧東予市)とA東予地区(旧西条市)は丹後からやって
 来た一色右馬三郎の子で松山一色氏と今治一色とは元は同根でも
 愛媛に来た経緯も元の領地も違うことがみてとれます。
清和源氏足利氏支流
一色流始祖

伊予松山・今治 一色氏系図
↓←  ←  ←↓ 
 ↓←  ←   ←  ←↓  
宮内御律師 阿闍梨 一色公深
(キンブカ)
足利泰氏 七男1330没
一色氏祖
解説
従五位下 右馬頭
鎮西管領兼 肥前国守護
範氏 公深長子1369没 解説
左馬助 右馬助 範房 範氏 三男
一色源三郎政富之祖
伊予松山一色祖
解説
左馬権頭 宮内小輔
丹後国原谷城築く

(舞鶴市)
詮光 範房 二男
1437没
解説
足利義満より一字賜る
兵部小輔
尾張国知多郡領ス 
満貞 1471没
足利義満より一字賜る
刑部大輔
尾張国知多郡領ス 
満氏 満貞 長子 解説
左衛門尉 満重
帯刀
尾張国大野庄に居住
貞範
左馬助 中務大輔 帯刀
愛知県東海市太田
光貞 1450没 解説
従五位下式部大輔
尾張国荒尾庄
木田城居住

 氏勝 松山市斉院町
高家八幡神社
に名前が出てくる
←兄 弟→
右衛門尉 蔵人
範重

松山一色祖
従五位下左衛門太夫
一色範直
天正十四年(1586)
 行64歳
↓子 ↓子
母と共に近江に
移り林氏を名乗る

林 家次

1600没
  今治一色ノ祖
予州今治藩
久松氏(松平)家来
帯刀
尾張国知多郡
に残留

妻久松俊勝女
詮勝
  左衛門尉
伊予湯月城主
河野氏近衆
温泉郡衆17人之内

教重
寛永元年(1624)没
  従五位下
範春
慶長十九年(1614)没
以下省略
  主殿
生国三河
重成
↓子 ↓子 ↓子 ↓子 ↓子
時光
生没不明
今治藩百七十石
勝久
1668
松山藩
久松氏(松平)
寛永十二年任官

松山藩三百石
文左衛門
1658没
主殿
重房
↓子 ↓子 ↓子 ↓子
林氏姓 今治藩家老
三百七十石

勝富
延宝元年1673没
行 29歳
多宮
1710没
生国三河
江州甲賀郡
外舅儀俄(蒲生)
兵庫某に食?

↓子 ↓子 ↓子 ↓子
林氏姓
義行
生没不明
今治藩家老
四百五十石
勝舎
1753没
興左衛門
1751没
妻一色帯刀詮勝女
定重
天正十九年
1591没
↓子 ↓子 ↓子
伊予松山復帰
一色ニ戻る

九郎右衛門
1716没
今治藩家老
四百五十石

勝信
1770没
孫七
1770没
↓子
安左衛門
1770没
斉宮
三百石

勝正
1753没
孫右衛門
1822没
弥重
1816没
今治藩家老
三百五十石

安勝
1796没
森右衛門
1834没
達次
1834没
今治藩家老
四百五十石

勝文
1805没
廣蔵
1872没
保左衛門
1850没
今治藩家老
四百五十石

勝富
1807没
市左衛門
1855没
今治藩家老
三百二十五石

安寿
1853没
今治藩家老
三百二十五石

英範
1862没
今治藩家老
三百二十五石

家禄消滅
範能
明治三年隠居