伊予松山一色氏の御祖である一色左衛門尉教重(あつしげ)公は諱を信勝と云う、尾張知多郡阿久郷草木城主範直公の三男として生まれた。
教重と名乗るは、後に伊予松山の大名加藤嘉明 重臣足立半兵衛重信より「重」の一字を賜り其後教重と名乗った。
弘治三年(一五五七)父に伴われ京都に移り、永禄十年(一五六七)父範直公(従五位下左衛門大夫)が伊豫の太守河野通宣の招きに応じ斉院大夫(賀茂神社荘園の所務職)として松山西部に移住した時に教重も同道し湯築城主河野通直の近習旗本(すなわち温泉郡衆一七名の一人)となった。
範直、教重父子の伊豫移住にあたっては足利将軍家の重臣であり摂関家とも通じている梅仙軒霊長や一族である将軍家側用人の一色藤長、槇島(一色)昭光らの口添えがあり河野家重臣村上(来島)通康、垣生加賀守盛周らに迎えられた。
元亀元年(一五七〇)には阿波の三好氏が来襲するに当たり河野家より命を受け東予に出陣した。
豊臣秀吉の四国征伐の砌、左衛門尉は豊臣方来島通総・毛利軍方に味方し父範直と共に其の先鋒を務め戦功をあげた。
代将小早川隆景に攻められた河野通直は降参、遂に河野家は滅亡し終わる。
この時、当地域を支配した毛利勢の吉川元長より元の領地斉院村を安堵された他に垣生加賀守盛周(河野家重臣)領地の松山市垣生、生石、吉田邑をも支配する地頭(毛利吉川氏の代官)となった。
しかし毛利勢の伊予支配は二年で終わった、この時、吉川元長より吉川家の紋章である丸に三引き紋を賜り現在も全国一色族の中で唯一同家紋を使用し続けている。
|
●斉院、生石、吉田近辺の墓地を訪ねると一色家の墓石にこの家紋を多く見かける。 |
小早川隆景が九州へ転封となり福島正則が領主となったが正則も去り松前城主の加藤嘉明が伊予松山二〇万石の新領主となった。
関ヶ原の戦いに絡み、慶長五年(1600)九月十八日に三津浜周辺で東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢、旧河野家家臣連合軍の間で行われた三津刈谷口の戦では教重は中立を保ち斉院、生石、吉田の地頭職は安泰であった。
|