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平明丸事件顛末記(外務省公式)(現代語訳)
勝田汽船会社の汽船「平明丸」は、日本政府の命令を受け、シベリアにいたトルコ人捕虜1,013名(非戦闘員、婦人・子どもを含む)を乗せ、コンスタンチノープルへ向かって航行していた。
ところが、大正10年(1921年)4月5日、地中海においてギリシャ海軍から停船を命じられ、
ミテイレーン島で捕虜を上陸させるよう要求された。
しかし、平明丸に乗船していた日本の監督将校がこれを拒否したため、同船はギリシャのピレウス港へ連行され、抑留されることとなった。
2.ギリシャ政府との第一次交渉
ギリシャ政府は、ギリシャとトルコの間に交戦状態があることを理由に、この措置を取った。
しかし、1919年10月以降、事実上交戦していたのはギリシャと「アンゴラ政府」であり、
同政府はトルコの地方政権にすぎず、これをもってギリシャとトルコ両国間の正式な戦争とみなすことには疑問があった。
そもそも、この捕虜輸送は、イギリス政府からの度重なる要請に基づき、人道的見地から日本政府が多くの困難を排して引き受けたものである。
輸送費用は、トルコの有志による募金48,000ポンドと、日本側が負担した57,000円によって賄われており、ギリシャとアンゴラ政府の関係に干渉する意図は全くなかった。
そのため、日本政府は直ちにギリシャ政府に対し、平明丸および搭載捕虜の無条件解放を要求した。
これに対しギリシャ政府は、日本政府がイギリス政府の同意のもと、捕虜が抑留地から逃亡することが事実上不可能となる十分な保証を与えるならば、コンスタンチノープルへの上陸を認めると回答した。
さらに、ギリシャ政府は、捕虜をコンスタンチノープルで抑留し、
戦闘が終結するまで連合国側の軍当局の監督下に置くことが最良の方法であると述べた。
これを受け、日本政府はイギリス・フランス・イタリアの三国政府に対し、コンスタンチノープル駐留軍が捕虜の監視に協力するよう依頼した。
しかし、現地での監視は事実上困難であるとして、三国はいずれも協力を引き受けなかった。
3.ギリシャ政府との第二次交渉
その後、日本のコンスタンチノープル高級委員は、ブルガリア船「キリロス号」が、トルコ人159名(多くはアドリアノープルで敗走し国境を越えた者)を乗せて航行中、1921年4月18日に黒海でギリシャ水雷艇により抑留されたが、のちに無条件で解放された事例を知った。
これにならい、日本側は平明丸に乗船するトルコ人捕虜にコンスタンチノープル帰還許可書を発給し、ギリシャ政府に対して無条件解放を再度交渉した。
しかしギリシャ政府は、キリロス号の解放は人数が少なく、かつ全員が非戦闘員であったためであり、平明丸については即時出港および非戦闘員のギリシャ出国は認めるが、捕虜については抑留を継続せざるを得ないと回答した。
4.第三次交渉
しかし、キリロス号の乗船者の中には解隊された軍人も含まれており、平明丸事件とキリロス号事件は、実質的に同一条件であると認められた。そのため、日本高級委員は再びギリシャ政府に対し、平明丸および捕虜の無条件解放を要求した。
同時に、事態解決を容易にするため、イタリア政府に対し、交渉がまとまるまでの間、平明丸がイタリアの港に入港することを許可するよう依頼した。また、コンスタンチノープル駐在のイギリス・フランス・イタリア三国高級委員も日本の要求を支持したが、ギリシャ政府はこれに応じなかった。
一方、イタリア政府も、自国港への入港について慎重な姿勢を示した。
5.国際連盟の行動(要約)
交渉が長期化し、船主の損失拡大や捕虜・乗組員の衛生状態悪化が深刻となったため、日本政府は国際連盟理事会に介入を求めた。
理事会は赤十字の申し出により、ナンセン博士に交渉を委託。その結果、戦闘不能者・婦人・子どもは先にコンスタンチノープルへ帰還し、健康な捕虜は戦争終結まで中立国で抑留されることとなった。
6.事件の解決
1921年10月12日、平明丸はピレウス港を出港し、イタリア領アシナラ島で捕虜を陸揚げした。その後チュニスへ向かい、事件発生から約7か月を経て、本件は無事解決した。
7.船主への損害賠償
勝田汽船会社は、本事件により251,688円10銭の損害を被ったとして、政府に賠償を請願した。政府は同社の立場を考慮し、閣議決定により同額を支払うこととした。
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