出港から1ヵ月半後、住吉丸はハワイ諸島に差し掛かりましたが予定のコースを大きく外れてしまい、住吉丸は正確な位置さえつかめなくなっていました、東へ進めば必ずアメリカに着くそう励まし合って彼らは住吉丸を走らせました乗組員の一人が、はるか彼方に陸地を発見したのはそれから十日後でしたアメリカだ!しかしよく見ればそこは溶岩の島地図を見た亀三郎は愕然としました。
なんと出港から二ヵ月後に見た島はガラパゴスでした。住吉丸はハワイ諸島からさらに南へと流されていたのです。進路を北にとって船を進めるほかはありません、すでに食糧も水も底をつき始めていました。一日一食。柄杓一杯の水で渇きを癒し、それでも亀三郎たちはあきらめることなく航海を続けました。
そして、二週間後、大海原の向こうに陸地がぼんやり見えてきました。「今度こそアメリカ大陸に違いない」こうして住吉丸は目的地シアトルから2000キロ南のサンディエゴの海岸にようやくたどり着きました。日本を発って実に76日目。明治45年の今日、7月18日のことでした。
その航海を通じて、日本の伝統的な和式帆船の航洋船としての性能を初めて国際的に認めさせました、この住吉丸の航海は、世界で初めて個人の船で最初の太平洋帆走横断でした。
現地では、漁師としての帆船操縦術を駆使し太平洋を帆走横断した偉大な冒険航海者」と敬意を持って受け入れられただけでなく、既に渡航して先住していた太平洋沿岸の移住日本人社会に大いに面目を施すものと大歓迎されたようです。
吉田亀三郎率いる4名の「太平洋横断」は成功しましたが、移民局に発見され、結局この時は、強制送還されました、本来の目的の「アメリカてお金を稼ぐ」という事から見れば失敗でした。
しかし亀三郎は翌年もまた川之石港から大規模に25人の仲間を引き連れて2度目の太平洋帆走横断をなしとげカナダへ上陸しました。
この時は取締をのがれカナダに上陸しアメリカに移動して新しい生活が始まりました、現地で漁業等に従事して財をなし、日本にも何度か帰国しています。(亀三郎は5回渡海)
記録によればカナダ東部の鮭魚場で漁師として働き、ポートアルバニーでは亀三郎最後の漁場で一番の船頭としてサーモン漁等で行なわれるトローリング漁法(打瀬舟漁法?)を現地の漁師達に教え現在まで受け継がれているそうです。
吉田亀三郎58歳の時、現地で脳出血のため死去。
彼の航海に影響されて、その後も真網代や三瓶から4隻もの帆走漁船(密航船)が太平洋を横断する先駆者となったそうです。
今は亡き冒険家の河野兵一さんもお隣の瀬戸町出身です。皆さんの勇気は現在もひき継がれているようです
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