源平時代、惟基五代の孫緒方三郎惟栄(惟義)は平氏に属したことから常陸に配流され、のち赦されて佐伯庄に住し、その子孫が佐伯氏を名乗ったとされています。
媛には佐伯氏直系と思われるご子孫が幾つかあります。
名前が歴史上出てくる時期が重なるのし名前からしても下記の方々は同じ一族と考えられます。
余談ですが豊臣秀吉の四国制覇で主君をなくした武士達が小早川隆景の支配下に入り、中国、九州へと渡り佐伯氏の子孫を広げていったようです。
適塾の緒方洪庵(緒方姓は元は佐伯)の出自もご先祖様が四国経由で備中足守藩に仕えたという説もあります。
下記の佐伯さんは元々豊後国佐伯庄の人です。
@
東予の佐伯さんの始祖は佐伯伊賀守惟之(戦国末期の周布郡旗頭黒川氏のお旗下組(大熊城)ご子孫は小松藩の武士や庄屋を務めました。
大熊城は現在の東温市川内町則之内にあり戒能備前守通森居城であったが大除城主大野紀伊守利直が戒能氏を攻め周布郡の黒川氏が興力し黒川氏旗下の佐伯伊賀守惟之の居城とした。
A
佐伯川内守惟重 この人は伊予守護河野家の足軽大将を務めた人で東温市河内の七森城を居城としていました。
B
佐伯十兵衛惟善 この方は山方旗頭大除城主 大野山城守直昌の旗下で高森城で土佐、長宗我部元親の侵入を防ぐための番城(久万高原町美川)城主(戦国末期)をしていました。
C 佐伯惟教・子 惟真・孫 惟照
豊後(大分県)では弘治2年(1556)「氏姓遺恨事件」が勃発し惟教はも真っ先に主君大友氏に疑われ厳しい追及を逃れる為、父と子の惟真他一族と共に豊後水道を渡り惟教の妹の嫁ぎ先である伊予国八幡浜萩森城の主である宇都宮房綱の元へ逃亡してきました。
惟教一行が八幡浜へ渡った弘治2年(1556)9月、宇都宮豐綱が西園寺実充と境界紛争を起こし西園寺実充の子が戦死した。
この時西園寺氏側についた(宇都宮房綱は西園寺側)佐伯惟真は西園寺氏の厚遇を得て野村の白木城主宇都宮乗綱の知行四五貫で被官となった。
12年後(1568)惟教、惟真らは豊後佐伯への帰参が叶えられましたが、豊後は西園寺氏らの敵国にあたり白木城主宇都宮乗綱の恩義に報いるため惟実の長男、惟照(緒方蔵人)、を人質に置き去りにした。
豊後へ帰参した惟教と惟実は天正6年(1578)日向高城川原の戦いで戦死した。
残された惟照(緒方藤蔵人)は白木城代から城主となり野村を支配した。天正13年(1585)には秀吉の四国制覇により西小早川隆景の指揮下に入り天正15年には九州平定に出征し豊後国築城郡除原の戦いで軍功があり藤蔵人に任じられたが野村町に帰り帰農した。
二男惟定最初河野家は宇和島藩主となった藤堂高虎に仕え
慶長19年(1614)以降は伊達家の支配下で子孫は代々与次兵衛を襲名し野村の庄屋を務めた。
野村佐伯氏は同族の緒方氏や白木氏を名乗り、天明8年(1788)緒方源治は酒製造業(現在の白川町にある緒方酒造に継る)を始め野村代官を努め御徒士各を与えらた。
|