臼坂氏について調べて見ると、元禄年中に駒頭城(現丹原町臼坂)城主 臼坂禅正、臼坂三郎兵衛が桑村郡旗頭黒川元春の将となりました。
以下の諸将達も、黒川の旗下に属しました。
(獅子鼻砦主宇野、赤滝、大熊、文台、駒頭、楠窪、臼坂、池田)
現在もこれらの名前は地名として残っています。
黒川氏は周布、桑村郡で勢力を誇り新居郡の旗頭石川氏らと幾度も戦をして領地を広げていたようですが、天正13年の天正の陣で(豊臣秀吉の四国平定)で野に降りました。
野に降りた豪族達は庄屋になること多く大庄屋の家筋はだいたい一定しており、松山藩の場合、大庄屋は周布郡では臼坂・野口・安岡・黒川氏。
桑村郡では初期に一色・芥川・後期に櫛部・青野・安倍氏らが改庄屋を務めた後任命されています。
桑村郡大手鑑によると貞亨3年(1686)に各郡1名の大庄屋を任命して、郡奉行直属の郡役人としました。
周布郡では、長野村(現丹原)の臼坂善右衛門、桑村郡では壬生川村の一色新兵衛範好が任命されました。
丹原 寺尾村の改庄屋 七郎兵衛は明和2年(1765)6月松山において大庄屋役を仰せ付かり名字を臼坂と称するに至りました。
※大庄屋は3人扶持、長く在籍すると5人扶持が与えられ、格式も武士並みに苗字帯刀が許された。
宝永7年(1710)の「周桑郡大手鏡」には「寺尾村大庄屋 臼坂七郎兵衛(中略)29町7反19歩、田畑御免5ツ6分と亨保2酉年地坪仰付 候」とあります。
・東谷池 延亨2年(1745) 築造
・流震池 正徳2年(1712) 築造
寺尾地区は、旧中川村では最も古くから拓けた地域であり、歴史的な遺産も多くのこされているようです。
三津屋の大庄屋臼坂氏の名前が初見されるのは幕末の頃で一色氏に変わり周敷の池田村西分庄屋から入った臼坂元左衛門が最初です。
※多くの庄屋は、連綿と世襲を続けており、庄屋が病気や跡継ぎが幼少のときは、近隣の庄屋が庄屋預かりの形で兼務していたようです。
三津屋は松山藩領で明治5年に三津屋庄屋 臼坂吉利の名前が見受けられます。
これが最後の庄屋さん達でしょう。
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