周桑郷、庄屋・地主達の系譜
  愛媛県西条市

黒川氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏


 ここ周桑の里では、江戸時代の庄屋は、鎌倉時代の地頭や、南北朝時代に脇屋義助や大館氏明に随従して土着した者の子孫で戦国時代に小豪族として活躍した者と、彼らに系譜を持たなくても、戦国時代に武士として活躍した者の子孫がほとんどである。


 
塩崎氏  楠正成の末裔


○塩崎氏と長敬寺 (周布、本郷)


 楠正成の末裔が西条神戸の楠に居住し塩崎と名乗りました。

この一族に周布本郷の浄土真宗長敬寺ご住職を代々務めている塩崎氏がいます。

 長敬寺は鎌倉時代の弘安6年
(1283)の創立当初より伊予守護河野氏との関係が深いお寺です、市の文化財に指定されている河野左京大夫通宣の血書三部経が保存されていることでも有名なお寺です。

 
 坊守も代々城主級の家より来ていて戦国時代の第十三代願入権利津師の坊守は河野通直公娘、第14代唯圓の防守は伊予守晴通公娘と河野本家当主の娘がきています。

 
 長敬寺では武士団を養い軍団化が進んでいたようで十四代唯圓は土佐国長宗我部元親が宇和郡、喜多郡に侵入し西園寺氏、宇都宮氏が元親に下り河野氏に反した時、河野通直に従って南予に出陣して戦っています。

 塩崎系図には「・・・長宗我部、我国ノ相乱聞キ籏ヲ巻キテ引退ク、通直公帰館セリ唯圓戦功一ナランヤ」と言っています。

 
 天正13年には豊臣秀吉の四国平定
「天正の陣」により、河野家は所領を没収され、小早川隆景の執り成しも空しく河野家の再興は望みを失って旧家臣による竹原での秀吉襲撃も失敗し河野通直の死没により天正15年河野氏宗家は滅亡しました。

 
 塩崎系図、十四代唯圓の項に「河野正流長ク断、威籏下、不残、民間ニ下リ、当時此時寺領ヲ離シ、暫ク所々散ル・・・」とあり河野氏滅亡と共に長敬寺も破壊され、武士団も解体離散したようです。

 唯圓=塩崎氏の出家名


余談ですが不思議な縁をご紹介します。


塩崎氏の末裔に政治家塩崎泰久さんがいます、彼は日本国政治の要である官房長官を努めました。(現在も衆議院議員は現役です)伊予国(現愛媛県)出身者で歴史上最高位の政治家になられました。
 
 不思議なのは塩崎泰久氏と河野家末裔と言われている衆議院議員河野太郎氏との関係です。
 伝え聞く所によると河野太郎議員は塩崎議員と仲が良いようで塩崎議員を総理候補に推薦したこともあったようです。
 400年の時がたっても誰もわからないご縁があるのかもしれませんね!
 

塩崎先生はまだまだ現役ですので最高ポスト総理大臣迄上り詰めてほしいものです、陰ながら応援しております。



◯塩崎播磨守道兼

唯圓と同時代(天分〜天正年間)に金子備後守元宅の家臣になった人で塩崎播磨守通兼がいます。(唯圓の一族)


 彼は最初周布本郷(長敬寺)に程近い(旧東予市)今在家に住んでいましたが、其の地は新居郡旗頭の金子氏の領地であった時もあり彼は抜擢されて金子氏の地に移り家臣となりました。
 
 奉行として今の新居浜市の金子新田を開拓したと言い伝えられています。

播磨守通兼の居城は平城で名護城と呼び磯浦名古志呂新田塩浜(新居浜字塩浜跡乙31番地〜乙102番地あたり)にありました。 名古志呂 = 名護城から出た地名である。


 ここに先祖の楠正成を祀り新しく造ったお宮で若宮と呼ぶ今の若宮神社があります。


楠正成の紋所は菊水で金子新田では、祭りなどで菊水紋が見られます、
又、惣開も塩崎一族が総出で開墾したので、惣開という地名になりました。
 
 天正13年豊臣秀吉の四国平定「天正の陣」
では塩崎播磨守が御代島城の加藤氏の舟軍と共に毛利軍の上陸を許さず吉川軍と小早川軍は東西より二城を攻め落とし其の勢いで王子砦に攻め寄せました。


 王子山砦で播磨守が戦死したと言い伝えられています。

 王子山は前に王子渕という大池があり付近は湿地帯で砦の日表に王子権現を祀り難攻不落の砦であったようです。




長敬寺 若宮神社




黒川氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏