小松町黒川家系図に依ると@民部少輔 黒川通堯(元春) → A黒川通博山城守 (嫡男黒川通俊を戎能通運攻めにて失った為河野一族正岡通純二男が後を継ぐ) → B山城通貫(黒川五右衛門と称す) → C勘右衛門通春(佐伯勘右衛門と称す)時代は戦国末期
始祖の黒川元春は四国を統一した長宗我部元親の祖父兼序の次男で土佐を出奔して小松町石鎚の黒川山城守通矩を頼り、その妹婿に納まり黒川性を名乗ったと伝えられています。
伊予二名集によれば黒川元春(1528〜1531)は享禄年間に周布郡・桑村郡に覇を唱えるために山間部の石鎚から平野部への進出の拠点として剣山城を築きました。
元春はまたたく間に周布郡を席捲してやがては新居・宇摩二郡を支配する高外木城の石川氏と対抗する勢力に発展していきました。 幸門城主・正岡右近太夫通純の次男が養子となり後を継いで黒川美濃守通博と名乗ました。
通博は河野屋形晴通の従弟であり、また晴通の女を娶ったことから、河野十八将の一人に列しました。
持城 剣山城・坦ノ城・山城・中森城・幻城・松尾城・大熊城・鉢森城・赤滝城・榎木城・大曲砦・黒川本陣
周布郡・桑村群旗頭 剣山城主 |
黒川美濃守通博
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家老 |
玉井備前守(大頭)、安藤次右衛門(玉之江) |
客家老 |
十河又五郎(石田東)、醸(下見)越後守(石田西)、 |
総奉行 |
首藤大蔵充(玉之江)、久米妥女正(北川) |
総大官 |
徳増右源太(石田)、武方次郎左衛門(北条) |
佐伯伊賀守、(大熊城)、桑島四郎左衛門、曽我部左近、 |
御旗下組十三騎 |
佐伯伊賀守雄之(大熊城)、桑島四郎左衛門、曽我部左近、 |
戸田妥女正(北川)、曽我部修理亮、久米五郎右衛門尉(北川)、 |
兼道日向守(文台城)、桑村又左衛門、今井玄蕃、 |
野口四郎大夫(田野)、垂水彦五郎(明河)、臼坂三郎兵衛尉(臼坂) |
玉井又十郎(安井) |
黒川八人衆 |
宇知屋敷 |
(大頭村) |
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犬坊屋敷 |
(湯谷口村) |
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三谷屋敷 |
(周布村) |
荒井藤四郎 |
東屋敷 |
(大頭村) |
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国広屋敷 |
(田野村) |
国広源左衛門 |
兼頭屋敷 |
(志川村) |
兼頭首里亮 |
倉堂屋敷 |
(赤尾村) |
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要害屋敷 |
(池田村) |
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黒川氏は五十年間に渡りこの地を支配しましたが天正十三年の秀吉の四国征伐によって滅亡、よって黒川氏以下一族郎党が野に下りました。
この敗戦によりこの地の支配体制も大きく変わり黒川五右衛門尉通貫 → 小早川隆景 → 青木一重民部→青木重兼 寛永四年、蒲生忠知が松山藩二十万石に封ぜられた時、青木重兼の伊予の領地は摂津国へ変え地され、青木氏の伊予国周敷村支配は四十年間で終わりましたがその後も目まぐるしく領主が代わり桑村・周布両郡は松山藩領、西条藩領、小松藩領、天領と入り乱れた複雑な地域として明治のはじめまで続きました。
黒川氏は江戸時代には小松藩の武士や庄屋等になり黒川通軌陸軍中将男爵もご子孫です。
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