周桑郷、庄屋・地主達の系譜
  愛媛県西条市

塩崎氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏 黒川氏



 
近藤氏  


近藤さんは、近江国(滋賀県)の藤原氏からきた姓です。


近藤氏は藤原氏より出 代々阿波勝浦の新居見山城主たりしが 室町時代 畑野城薦田氏を頼り西条舩形横山城主となった 天正年間近藤長門守は高峠城主 石川備中守道の女婿となり 天正一三年七月天正の陣と呼ばれる豊臣秀吉の四国制圧の時、新居郡旗頭石川虎竹丸を補け宇摩郡、新居郡の諸城主を 指揮し 小早川の大軍と野々市原に戦い花々しく討死し その子太兵衛直信は幼 にして畑野に逃れ 後此地横水に転住し祖霊を祀りて三崎神社を創建したが明治 41年滝神社に合祀したとあります。

これが西条近藤氏のルーツのようです。

余談ですが源平合戦の時、源義経が平家を追って阿波に上陸その時屋島まで道案内したのが近藤親家で西国武士には珍しく鎌倉幕府の御家人となり、阿波に基盤を築きました。(西条近藤氏の始祖です)

近藤親家の父は西光法師(俗名は中納言・藤原家成の養子藤原師光(ふじわら もろみつ)。

のち後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。西光は藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となり(鹿ケ谷の陰謀)激怒した平清盛は西光を拷問の末、五条西朱雀で斬首させました。



◯近藤神社


 

西条市の近藤神社は西條市中西に鎮座、船形にある横山城(横岡城)主近藤長門守尚盛を祀る。

天正の陣(豊臣秀吉の四国制覇)で近藤長門守が討死した場所と伝えられています。

長門守は高峠城主石川伊予守の女婿といわれ、天正十二年石川備中守病死の後を受けて、幼主虎竹丸の後見となった。高峠では従来慣(ならわ)しとして六人の郡司(ぐんじ)(横山城主近藤長門守・狭間(はざま)城主徳永因幡守・江渕(えぶち)城主塩出紀伊守−以上西條、金子城主金子備後守・生子山(しょうじやま)城主松木三河守・岡崎城主藤田山城守−以上更新、現新居浜市)に宇摩郡の薦田氏・野田氏二人を判頭として加え管内(新居宇摩二郡)を取りしきっていた(澄水記)。天正十二年の戦には、地元西條の将兵を率いて高峠に龍城し中国勢を迎えるのである。その後のことについては文献もなく不明であるが、決戦場野々市へ出撃して戦ったことであろう。法名は青岳院殿慈光宗達大居士。

 神社には四百年記念に拝殿・神殿が改築され、また玉垣が新築された。中西部落十数軒の近藤家が氏子で祭祀は毎年八月八日であるが一月八日・五月八日・九月八日にも小祭を行っているようです。
 (参考資料「西条史談」3号)








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