豫州 一色党
    愛媛県西条市

予州一色党とは天正八年1580 丹後守護を滅亡後に伊予の新居郡(現西条市)に来た一色一族

  
◎予州一色党の発祥その1・・・足利一族として
初代室町将軍 足利 尊氏 十五代将軍 足利義昭


予州 一色党のルーツは今から約650年位前に清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)で鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(きんぶか)が母方の三河国幡豆郡吉良の庄一色邑で養育され初めて一色姓「一色公深」を名のったのが始りと伝わってる。

 足利家同族の一色党として元弘3年(1333)4月 一色公深の長男範氏が弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で
足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅探題を攻め陥した。

 範氏は鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げる等し室町幕府が発足してからは三管四職の内四職の一つを担い将軍家側近の相伴衆・御供衆等の要職を長らく勤め努め、同時に丹後・若狭・三河・尾張・北伊勢・山城等の守護を兼ねて権勢を誇った。

 「
海の一色」ともよばれて強大な水軍を持ち伊勢湾・若狭湾の海上権確保し経済を保っていた。
 
 しかし将軍家や管領家の紛争のあおりで同族の違乱、国衆の反乱、隣国との紛争で絶えず戦乱に巻き込まれ本領は三河だが近隣諸侯の蚕食を被り、最終領土となる丹後においても隣国の若狭・丹波との争い等が続き緊張が絶えなかった。

 室町末期おいては足利幕府の再興を願って最後の室町将軍足利義明の側近一色藤長は織田信長との間を取り持つことに奔走し又、丹後守護一色義員は丹後田辺城に籠城し足利義明の上洛に呼応してその通路を確保したり、
最後まで一色党として足利家を支え続けた。



◎予州一色党の発祥その2・・・一色遠祖 公深(きんぶか)
 写真 曹洞宗 幸手宝持寺
一色公深開基 宝持寺 一色公深像
一色公深墓 幸手市 一色稲荷

一色祖  一色公深
 一色公深は元応元年((1319)二男頼行に三河吉良庄を譲り長男範氏を伴って、下総国葛飾郡下川辺庄田宮郷薩手(現埼玉県幸手市へ新補地頭として赴いた。幸手は父泰氏の遺領である。
 
 ●元徳2年2月17日(1330年3月7日)同地に没し、曹洞宗 宝持寺に葬られた。

丹後系一色氏略歴
丹後守護 一色氏代々控・丹後の合戦史・五老ケ岳より抜粋
 
◎予州一色党の発祥その3・・・丹後守護 一色氏の終焉

  天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めに水軍で参戦し信長公より丹後国を安堵された一色左京太夫義員だが追放した将軍・足利義昭を匿った為に、信長の怒りを買い天正7年(1579) 細川藤孝・忠興父子に明智光秀の加勢を受けた軍勢に、籠城していた田辺城を攻め陥された。
 
 将軍義昭は義員らの田辺城籠城軍に対してこの功を賞している。(義員は足利義昭の上洛に呼応してその通路を確保していた)

 足利義昭から一色義員への褒状
●足利義昭感状写   

「田辺城敵調略。 既至壁際 いえども 取詰候。 城中者共依心懸無異議由。 無比動尤神妙候。 於其表一着可恩賞候。  猶近日可差下使者可申聞也」
 
    
     
天正七年八月十六日  義昭 (花押影)

 
 天正8年(1580)後守護一色義員は籠城の責任をとって丹後中山城で切腹した。
(丹後守護職はこれで終わり)

 同年丹後中山城落城により、義員の三男 予州祖一色右馬三郎範之
(後に青木一重の諱を拝領し重之と云う)は母方の外祖父河野通泰の縁をたより伊予の新居郡に再起をかけ渡ったと伝わる。
 右馬三郎の舅で家臣櫻井四郎尹忠(佐波賀城主)(加佐水軍で活躍した人物)も中山城籠城していることから右馬三郎もこの時同じく丹後中山城に籠城していたと思われる。
  
 
長男一色左京大夫五郎は同じく籠城していましたが父義員が責任を取った為許され信長の大名になり二万石を知行され天正9年2月織田信長が催した「天覧京都御馬揃えに出馬、同年明智光秀の仲介で5月に細川藤孝の娘伊也を娶り同年8月因幡国鳥取城攻めに参戦。
 
※(一色左京大夫五郎は宮津盛林寺位牌名では義忠西条 長福寺過去帳では義定)
 天正10(1582)年2月武田勝頼討伐の為織田信忠に従い信州高遠城攻めに参陣したが
6月2日に本能寺の変があり信長が明智光秀の為に討死。

 一色五郎義定は光秀に加担の疑いで秀吉より切腹を命じられ、細川藤孝の宮津城三の丸米田屋敷において自刃した。
 実質190年も丹後守護職であった一色範氏の流れをくむ(丹後系一色氏)は滅亡した。

 本能寺の変で完全に室町の時代は終わり太閤秀吉の時代へと移ったのです。


天橋立 盛林寺 一色五郎
明智光秀併記
位牌
供養塔 一色稲荷

丹後中山城は想像以上に大きく城主は一色左京大夫と結論されている

1.丹後 中山城跡第5・6次発掘調査報告
第6次 平成22年4月6日〜 10月8日
リンク


◎予州一色党の発祥その4・・一色右馬三郎重之 丹後から伊予国新居郡へ

 天正八年(1580)丹後田辺城・丹後中山城での敗戦で牢人となった丹後守護大名一色義員の三男、一色右馬三郎重之は再起をかけ外祖父河野通泰(村上通泰)の縁をたより、子の重直、重次(6歳双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和子口郎等十人余と共に伊予国宇摩郡へやって来た。

 その後新居郡に来て当時新居郡の旗頭であった石川氏の食客となり丹後で零落した一色家の再興を一族郎党で誓い合ただろうと推測できます。

 右馬三郎以下一色党の最初の拠点は新居郡萩生(西条市飯岡近辺)の中山城
(故郷の丹後中山城と地形や風景がよく似ていたので中山城と名付けたのでは?)を拠点とした。(推測です)

 ※元々この近辺には中山という地名等はなく中山城と名付けた理由は上記の通り地形や風景がよく似ていたのと丹後最後の居城であり父義員が自刃し兄弟や丹後一色党が散り々になった思い入れの深い名称を使ったではないでしょうか?

古文書から中山城を見ると
 ◎ 一色氏系図伝書略記
丹後国宮津城主一色左京太夫ノ舎弟ナリ后ニ一色宇右門云イ天正八年一色家没落シテ后伊予国新居郡萩生村ニ牢人シ其后桑村郡旦シ上村居住其后天正の末年周布郡三津屋村ニ居住ス)と系図に記録があり下記の「中山一カ所」の所在地と上記の新居郡萩生村は同一場所で天正13年の「天正の陣」まで居城していたと推測できます。
木屋 一色本家譜




天保七年(1836)西條藩編纂地誌(西條誌)に中山城について下記のように記されています。
 
 
・城跡と称する地三カ所あり、笹山一カ所、これは、西福寺山の内にて、今は山上に地蔵庵あり。城主の姓名詳ならず。

 ・中山一カ所、これは、牛の角あり(つの)という所にあり。城主を一色但馬守といいしという、右二城跡とも、皆狭小にして、録するに足らず。

  ・天神山一カ所、船屋村境にあり、平三段に分かれ、上の平八畝程、又その次の平も五畝程、又その次の平も五畝程あり、この三段の外にも、少々の平地あり。この城主を石川美濃守といいしという、下に矢倉下と称する地あり。

一色右馬三郎重之(範之) 墓碑
 
■丹後中山城  .丹後 中山城跡第5・6次発掘調査報告
 丹後中山城跡は、丹後半島の東の付け根からやや東側の海岸近くに位置している。側には由良川が日本海に注いでおり、中山城は河口から5。5Km上流の東岸に所在する。
 城が所在する山は、標高60mで、由良川に沿った南北に細長い独立丘陵状をなしているが、南端の打越峠を介して、低い丘陵は南東方向へと続き、建部山に接続している。


■伊予中山城
 伊予中山城は渦井川に面して西へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。又2キロ先に燧灘(瀬戸内海)があり当時は海がよく見えていた。

◎予州一色党の発祥番外編 ・・・・・・ 足利将軍家・伊予河野家との関わり


伊予河野家 = 伊予の守護大名
 
伊予河野家との関わりを検証すると!
  戦国末期室町幕府及び関白近衛家と伊豫河野家を結ぶ大きなパイプ役を果たしていた将軍義輝、義昭の側近梅仙軒霊超の仲介により永禄10年(1567)伊豫守護河野左京大夫通宣の招きで義輝側近であった一色範直(伊豫松山一色氏祖)が河野(村上)通康、垣生加賀守盛周らに迎えられ伊豫に移住し斉院に領地を宛てがわれ (湯月殿直勤の御旗本近習衆)温泉郡衆なった。

 範直は足利義輝の側近であった関係で梅仙軒霊長と同じく足利将軍家の側近で一族の一色藤長、槇島昭光等伊豫河野家と足利将軍家(特に河野(村上通康)との間を取り持つのに一役かっていたと思われる。
  
 伊予の河野家の家臣の中でも豊臣秀吉に心を寄せていた河野(村上)通康・通総親子は足利将軍家
(一色藤長や槇島昭光)を通じ中央政権と交わり一族で足利将軍家と関係の深かった丹後守護一色義員に(右馬三郎の母)通康の娘(養女?)を縁組させ一色家とも関係を深めたようである。
  
 後に範直は豊臣秀吉の四国征伐では通康の子通総(河野通直の娘の子)に味方し小早川隆景の軍の先鋒と務めた、又、義員の三男右馬三郎も大阪冬の陣、夏の陣では、村上通康の来島村上水軍と関係が深かった風早の二神氏と共に伊予から出陣していたことが二神文書で確認されています。
  夏の陣の後には二神氏と三津屋の一色氏は養子縁組までしています。

  余談であるが丹後の国は日本海に面していて右馬三郎の父一色義員は織田信長の越前一向一揆攻めに配下の丹後水軍を率いて参戦している。
  馬三郎の妻の実家(櫻井四郎尹忠)も丹後加佐水軍を率いて数々の戦に参戦しています。
  
 
 (当時水軍の一色とも呼ばれていた)
◆愛媛に一色が多くみられるのは戦国時代末期 にやはり河野本家(道後湯月城)も足利家との縁が深っかたようで(一色藤長と河野家との書状は数多く存在し東予地 方を足利義明が河野に安堵する等々)記録も多数残っています。



◎予州一色党の発祥その5・・・秀吉の家来青木民部一重(初代摂津麻田藩主)の代官に
 
 天正十三年夏の悪夢
「天正の陣と称される豊臣秀吉による四国攻め」によって四国を支配していた長曽我部元親は土佐一国のみ支配し豊臣大名となった。 天正の陣の戦によりこの地の支配体系は大きく変わり従来の主だった支配者達は野に下った。
   
 河野家 → 小早川隆景

 東予地方でも居城を中山城と称し萩生(西条市飯岡近辺)に残っていた一色党一族の一色但馬守は天正の陣(天正13年)で石川方に付き四国方として参戦しましたが戦死しました。彼の墓は西条市飯岡にある白馬の地蔵横にある五輪塔ではないかと言われている。
 
 河野家文書で新居郡の旗頭 石川氏の軍勢として天正の陣で戦った一色党の面々は一色太郎正保通・一色左九郎唯勝が記録されています。

 天正十五年、小早川隆景は伊予を去りの周布郡の三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は秀吉の家来で摂州麻田藩青木民部一重の飛び領地(知行地)となった。

 
天正15年(1587)一色馬右三郎重之は摂津麻田藩青木一重の郡代官となって周布を支配した、その後文禄 2年(1593)重之の子重次もその職を受け継ぎ青木甲斐守より代官に仰せ付けられ江戸時代前期迄40数年間務めた。

 代官所は周敷郡本郷(三谷城跡)に所在し周布村二千二百三十九石、三津屋村五百二十三石、来見村百七十九石、石之経村三百十四石、千原村十八石、中川村百十九石、石田村八百八十石余りを領した。


◆◇◆一色右馬三郎は天正十八年古城に居た周敷郡北条村の地頭 越智勘左衛門を討ちここに住み三ツ屋と称した。



  

◎予州一色党の発祥その4・・旧支配者 新井藤四郎らの一揆
 
文禄二年五月十三日、周布郡周敷村の三谷旧城主新井藤四郎考宣による道前一揆(新領主による厳しい年貢の取り立て等があったらしい)が起こりこれを一色右馬三郎、重直らが鎮圧した。

 
※解説 その頃豊臣秀吉の文禄・慶長の役で朝鮮出兵に掛る軍費調達の為か新領主青木民部一重による過酷な年貢の取立てがあったようで、旧領主 荒井藤四郎らに一揆の企てがあるとのことで、文禄四年(1595)五月一三日代官一色右馬三郎重之率いる一色党が荒井氏を攻め荒井方はよく戦いましたが衆寡敵せず悲運のうちに藤四郎はじめ家子郎党一三人は討ち死にした。

 周布の三谷城にはその後右馬三郎の子重直が住み村民はお城とよんでいたと記録されている。

・荒井藤四郎とは、(天正の陣)が起きるまで周敷郡の旗頭、剣山城主黒川氏配下の武将で黒川八人衆の一人で、周布の三谷城の主であった。

この年一色右馬三郎重之、北条村長福寺の釈迦堂大通り門を建立した記録が残っています。


◎予州一色党の発祥その5・・・大坂城冬・夏の陣参戦
 
慶長十九年(1614)大阪城冬の陣へ青木一重民部の
養子駿河守正重は大阪方で戦い、伊予の領地から代官一色重次長男重政が率いる一色党200人が参戦しました。

 この軍団を率いて一色重光、重正は大阪城籠城との記録がのこっている。

  
 慶長二十年(1615)大阪城の夏陣へも
代官一色重直長男「重光」、一色重次の長男一色「重政」一色重明(生還)らが大阪方として一色党を率い参戦しましたがこの戦で、重光、重政は5月12日、13日摂州兵庫(尼崎)大坊寺中で戦死しました。
  足利尊氏に従い一色範氏が鎮西総管領として九州の菊池氏との戦から始った一色党としての長きに渡る幾多の戦の歴史はこれで最後となった。


◎予州一色党の大坂城冬・夏の陣参戦番外編 一色又三書状(二神系譜研究会の調査より)

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二神文書に残る又三書状
◆天明時代の初期に壬生川庄屋一色又三が友人の中川権平に宛てた書状で風早地区の片山二神家文書に収録されているものです二神系譜研究会で発見し現代語訳されたものです。
一色家累世勤仕緑
◆明和二年(1765)に庄屋、安永三年(1774)大庄屋格、安永九年(1780)大庄屋格のままで、庄屋役は喜多台村庄屋、長井源之衛門の預かりとなる。「天明八年まで」


◎江戸時代の一色党(伊予)・・・一色右馬三郎の末裔

 ・一色右馬三郎重之の子は重次、文禄二年(1593)村の長(郡代官)になりました。
 ・その長男重昌は周布三谷の庄屋になりました。
 ・次男重直が三津屋の庄屋になりました。
 ・重勝は三谷・北条の庄屋を勤めた。
 ・重次の長男重政は、慶長十九年十月(1614)大阪冬の陣に三津屋港から軍平二百余人とともに出陣しましたが摂津国尼崎で25歳をもって戦死しました。
 
 ・重昌は、やがて周布村一色大庄屋の祖となり子孫は明治迄庄屋として続いた。
  ・三津屋村庄屋は、三男の重行が継いで大庄屋になった。
  ・彼の五男重好(新兵衛範好)は、明理川村の入庄屋になり、貞享元年(1689)には高橋氏に代って壬生川村の入庄屋になり貞享三年から大庄屋になった。
  ・明理川の方は、彼の次男が継ぐことになって、一色家は四ヶ村の庄屋を勤めて繁栄した。 

 その他末裔の事色々あり、いずれブログにて・・・
  

三津屋末裔等が建立した記念碑(三津屋旭新開地) 壬生川・明理川末裔等建立した記念碑(明理川)
  

周布大庄屋等末裔がお守りする記念碑(周布)

周布一色大庄屋屋敷後 周布一色大庄屋代々墓石



◎現代(2013年)の愛媛の一色党
  
現在一色の姓を名乗る人数は全国で約9,000人と言われています。その内およそ36%(3,240人)が愛媛に住んでいます。
戦国末期に丹後から新居浜・西条に来た一色右馬三郎や知多半島(尾張)から伊予松山に来て松山一色の祖となった一色範直また今治一色の祖一色勝久の血を引くもの等それぞれが420年の間に(平成27年現在)一色姓を名乗る子孫も増え続けています。