豫州 一色党
  愛媛県西条市
◎一色党のルーツ
  予州 一色党のルーツは清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)です。鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(こうしん)が三河国吉良の庄一色に住んで初めて一色姓「一色公深」を名乗りました。以後、一色党として、将軍足利尊氏の東上に際しては一色公深の子、範氏が鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げ恩賞として丹後守護を獲得しました。孫の詮範まで、丹後・若狭守護を勤めました。室町幕府では三管四職のうち、四職の一つを担いましたが室町六代将軍義教の代に、将軍から命を受けた武田氏に一色義貫が暗殺され、若狭守護を奪われましたが242年の間、丹後の守護大名として当地を治めましたが天正十年(1582年) 一色義定の代に織田信長の命を受けた細川忠興に滅ぼされ丹後一色党は滅亡しました。

◎予州一色党の発祥
  天正十年丹後一色党の滅亡によって牢人となった丹後守護大名一色義定の三男、右馬三郎重之が伊予国新居浜に来て当時新居の旗頭であった石川氏の食客になり天正十二年古城に居た北条の地頭 越智勘左衛門を討ちここに住み三ツ屋と称しました。この時、北条村長福寺の釈迦堂大通り門を建立した記録が残っています。
  同十三年の天正の陣(秀吉の四国征伐)に一色与五郎や一色但馬守が参戦したとの記録が残っています。
  天正十五年、周布郡三津屋村、北条村、周敷村、石田村など四千三百国は秀吉の家来青木民部一重の所領となり、民部の養子、
青木駿河守正重が来て当地を支配。一色馬右三郎重之が郡代官となって周布を支配しました。
   享禄四年(1531)石根の剣山城主黒川元春の三谷城攻めによって、城主渡部氏に代わって家臣の荒井藤四郎考宣が城主になり、黒川八人衆として三谷城にあって周布を支配していましたが、天正十三年秀吉の四国征伐(天正の陣)によって周敷郡の旗頭、剣山城の黒川氏が滅亡、よって荒井藤四郎も野に下りました。その後
秀吉の朝鮮出兵の軍費の為か新領主青木民部一重による過酷な年貢の取立てがあったようで、旧領主 荒井藤四郎が一揆の企てがあるとのことで、文禄四年(1595)五月一三日代官一色右馬三郎重之率いる一色党が荒井氏を攻めました。荒井方はよく戦いましたが衆寡敵せず悲運のうちに藤四郎はじめ家子郎党一三人は討ち死にしました。
  慶弔十九年(1614)大阪城冬の陣へ青木一重民部の
養子駿河守正重は大阪方で戦い伊予の領地から代官一色重次長男重政が率いる一色党200人が参戦しました。
  慶長二十年(1615)大阪城の夏陣へ代官一色重次の長男一色重政、大阪方として一色党を率い参戦、重政、重光は尼崎で戦死しました。
  足利尊氏に従い一色範氏が鎮西総管領として九州の菊池氏との戦から始った一色党としての長きに渡る幾多の戦の歴史はこれで最後となりました。

◎一色家一族先祖の碑 一色左京太夫 (西条市 能勢氏宅の東にあり)
代々、丹後系の一色家当主は左京太夫を名乗っていました。


◎江戸時代の一色党(伊予)
 ・一色右馬三郎重之の子重勝は、文禄二年(1593)村の長(郡代官)になりました。
 ・その長男重次は周布三谷の庄屋になりました。
 ・次男重直が三津屋の庄屋になりました。
 ・重次の長男重政は、慶長十九年十月(1614)大阪冬の陣に三津屋港から軍平二百余人とともに出陣しましたが摂津国尼崎で25歳をもって戦死しました。
  ・次男重昌は、周布村一色大庄屋お祖となりました。
  ・三津屋村庄屋は、三男の重行が継いで大庄屋になりました。
  ・彼の五男重好(新兵衛範好)は、明理川村の入庄屋になり、貞享元年(1689)には高橋氏に代って壬生川村の入庄屋になり貞享三年から大庄屋になりました。
  ・明理川の方は、彼の次男が継ぐことになって、一色家は四ヶ村の庄屋を勤めて繁栄しました。 
  

◎現代(平成二十年)の一色党
  現在一色の姓を名乗る人数は全国で約9,000人と言われています。その内およそ36%(3,240人)が予州・愛媛に住んでいます。天正10年(1582)に丹後国の滅亡により牢人となりながらも丹後守護一色義定三男、右馬三郎重之が伊予新居郡(新居浜市)に来て当時新居郡の旗頭であった石川氏の食客となり、数度の戦をへて、一色党の面々その間色々あれど426年の間(平成20年現在)一色姓を名乗る子孫も増え続けています。

◎一色党の歴史は戦の歴史
 江戸前期までの一色党の歴史は正に戦・戦・戦の歴史でした。その後も一色一族の中には戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、日中戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争に従軍し勇敢に戦かった方々が大勢います。