愛媛県 名字と家紋研究

 
菅氏  


愛媛「菅」氏の出自を探求


ルーツは菅原道真公の末裔であるとの伝承が各地にあり愛媛では「カン」と読みます、「菅」氏は全国で一番、愛媛県に多く分布し(約1,380世帯、特に今治市(大三島)、西条市、久万高原町、松山市詳細は別紙)家紋は梅鉢紋です。
菅原道真は天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫。平安時代初期の古人が大和国菅原邑に住んでいたことから、以降、菅原氏を名乗る。

 1,380人菅さんの分布

地域

人数

地域

人数

松山市

271

今治市

603

宇和島市

3

八幡浜市

21

新居浜市

85

西条市

186

大洲市

6

伊予市

14

四国中央市

22

西予市

8

東温市

21

越智郡上島町

4

上浮穴郡久万高原町

107

伊予郡松前町

6

伊予郡砥部町

14

喜多郡内子町

0

西宇和郡伊方町

0

北宇和郡松野町

2

北宇和郡鬼北町

4

南宇和郡愛南町

3

愛媛県内の菅氏諸家の言い伝えでは菅原道真公は九州へ配流される途中で大三島神社へ参拝したと伝わります。
 その時、道真公の子千代丸を大三島神社の神主の養子とする約束をしたことに大三島の菅性の起源があります。
 その根拠の一つに菅原道真の子「敦茂朝臣」が大山祇神社の鎮座する宮浦は配流になりそこでわびしく暮らしたことに起因するという藤井比蔵一生記や神原家伝承のような伝説もあります。
 島内宮浦の小見山には道真の来島を記念する神社がある、そこではこの伝説によって同祖の念に結ばれる人達によって古来の祭礼が続けられ神原家には道真の形見として「敦茂朝臣」が持参したという直垂(ひたたれ)の片袖や冠があったと伝えられています。

   沈みゆく三島の浦には浜楸 久や袖を君にまかせて(大三島記文)より

◆大山祇神社と菅氏

  大山祗神社では先の擬神主〜修理行事を四職とよび。四職以外の上官社人(神太夫・樋口太夫・的射太夫・弥九郎太夫・勘太夫・福江太夫・片山太夫・久保太夫・六郎太夫・宮之太夫の一〇人)の座列は、補任状をもらった順番で代々廻り職分としてきまる。すなわち、早く補任状をとった者を古老と称して、先の一〇人のうち第一の古老から第六の古老までを六官とよぶ。しかし残りの四人も補任状をうけた順に獅子居殿に着座し、神前社役をつとめる。
 これらの社務の要職についた社家は、十菅五越智といって菅家一〇軒と越智家五軒とがあたったものらしく、神職の継承には世襲ないし縁続を原則としていたようである。たとえば、菅福江太夫は文化八年(一八二五)に病身ゆえ退職隠居をねがって、十官御社人中へ「奉願口上」を提出した結果、大祝によってその願いはゆるされ、翌年その近親者井口村の常八が養子となり太夫に補任されている。


 ◆道真公を祀る天満宮
 江戸時代松山藩や今治藩主は松平氏で元々久松氏でした、久松氏のルーツは菅原道真であり各藩内には多くの天満宮、天満神社があります。
 昌泰4年(901)正月道真公、九州筑紫へ左遷の途中今治沖で難船し今治桜井浜に上陸しました、其処には網敷天満神社が建立されます、網敷の由来は浜に上がった道真公は漁師達が用意した漁網を座布団代わりに座り休まれた事から網敷天満神社と名付けられました。
 桜井浜に上陸した道真公はそこから歩いて重信のまどの峠を越え、樋の口から志津川の現在の天満神社あたりへ着き、川岸の大きな石に腰をかけて一時旅の疲れをとりその時西の空を仰ぎながら・・・
 しばしいて やすらう心 鎭川(志津川)の流れ行く身は 筑紫の果て  という歌を詠んだので供の者も皆悲しんで涙を流し石をぬらした。
 この時休息されたと云う「菅公腰掛け石」と伝えられる石が境内にあります、志津川の由来もこの歌から付けられました、道真公は仁和4年(888)讃岐守として隣国讃岐に在任中であった時、隣国視察の際に立ち寄られた志津川の里人等と一宿を共にして名残を惜しまれた。
 天慶5年(942)9月25日道真公を深く崇敬していた国司河野安家が太宰府天満宮より志津川に道真公の御分霊を勧請。伊豫志津川天満神社を創建しました。
 
 道真公はさらに西へ7ー8キロ先の久米郡星乃岡で休憩されました、此処にも菅公の座られた石(菅公腰掛け石)があり辰岡天満宮が鎮座します。
 そして道真公は伊予路最後に3年間も逗留した伝承が残る松山市久保田に来ましたこの地は伊予灘(瀬戸内海)のすぐ側です現在は履脱天満宮鎮座します、ちょっと変わった名称ですがいわれは色々あるようです…
 
 ※
履脱天満宮の名前の由来

 
道真は(3年間)この地に逗留していつ迄経っても赴任しない道真公に追補勅使頭三位中将紀久朝の厳き門責に迫られました、道真この地を立退くに当たり里川の辺りで靴を脱ぎ落としたるもそれを拾うひまも与えられず出立を急き立てられました。...其のことを取って履脱天満宮と呼ばれるように成ったようです。
 追補勅使頭三位中将紀久朝は道真を詰問した後 たちまち悶絶して橋下に落ちて逝去し近傍の民家に中将宮という小祠を建て勅使を葬ったと伝わるります
、この橋は現在も勅使橋として境内にあります。


志津川天神社 菅公腰掛け石 辰岡天満神社 菅公腰掛け石 履脱天満神社 勅使橋 

    ◆菅平菅平右衛門達長と伊予牧一万五千五石の領地◆
 
 菅平右衛門達長の家紋は梅鉢紋、菅原道真の流を汲むといい戦国末期の淡路島洲本城一万国を本拠としたが、天正十年、豊臣秀吉の軍勢が上陸するとたった一日で落城、達長は逃亡しその後も城を奪回すべく、天正十一年(1583)四月長宗我部元親の弟(香宗我部親康)の与力になるなど
菅平右衛門達長は土佐の長宗我部家と結びつきました。
 菅平右衛門達長は、豊臣秀吉の四国攻めが起こると、ついに長宗我部氏と共に秀吉の軍門に下りました。
 達長は秀吉麾下の水軍として一隊を率い、九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵と出陣し、朝鮮出兵では舟奉行の一人に加えられたと云います。

朝鮮出兵時における水軍の編成は『天正記』第七巻所収「朝鮮国御進発の人数つもり」に出てきます。                 文禄の役 朝鮮国船手の勢

九き大すみ守(九鬼嘉隆・志摩鳥羽)

千五百人   

藤たう佐度守(藤堂高虎・紀伊粉河)

二千人

わき坂中志よ(脇坂安治・淡路洲本)

千五百人

賀藤左馬介(加藤嘉明・伊予松崎)

七百五十人

来島きやう弟(久留島通之・通総・伊予来島)

七百人

菅平右衛門(菅達長・淡路岩屋)

二百五十人

同小てん次(〃〃貞晴・〃〃〃〃〃)

千人

堀内あわのかみ(堀内氏善・紀伊新宮)

八百五十人

杉若伝三郎(杉若氏宗・紀伊田辺)

六百五十人

以上九千二百人

この文禄元年(1592)・慶長二年(1597)の二度の朝鮮侵攻に参加した淡路水軍菅(党)も伊予「菅」氏のルーツと考えられます。。

その根拠は「秀吉公に仕え禄一万五千石を賜り・・」とあるのと、『公室年譜略』に「菅は元、予州の牧一万五千石を領したとあり菅平右衛門は伊予で一万五千石を領していたことがわかります。

この予州の牧とは旧野間郡あたりと思われ現在の愛媛県東部の菊間から今治にかけての地域ではないでしょうか?

(全国の菅さんトピック=ミクシィの書き込みから)

大分県佐伯市にある浪太《なぶと》っていう所にあるんですが、そこは菅姓と児玉姓の人のみで形成された集落です。元は愛媛県の大三島出身?で海賊だったらしいです。それが何故だか漁に出て大分まで 来たらしくたどり着いたこの地を元々いた《なぶと》と名付けて住み着いたそうです。なので、愛媛にもなぶとっていう地名と《なぶと》神社っていうのがありその地がうちの菅家の根拠地なのだそうです。

伝承の地《なぶと》を探してみました。 

今治に波止浜町(はしはま)という地区がありますが波止浜=《なぶと》さらに「伊予の牧」「牧=牧場」につながる地名を見つけました波止浜町「馬刀潟」いかにも馬の繁殖地という感じがしませんか?今でもこの付近の野間町では野間馬が飼われています。

そうです!!菅水軍の一党が文禄、慶長の役(朝鮮出兵)の後支配地であるこの地にやって来て現在の菅氏に継るのです。

残念ながら伊予に封ぜられて間もなく関ケ原の戦いがあり、西軍方に組した菅平右衛門は短期間で所領を没収されたみたいです、当地には関ヶ原戦で敗軍となった菅氏の「菅平右衛門」伊予に牧の一万五千石の記録は残っていません。

菅平右衛門は関ヶ原の戦いで西軍に属しました、敗軍の将となり領地没収となりましたが、文禄・慶長役の折、同じ船手の将だった藤堂高虎の嘆願で救われました。

そして藤堂高虎に破格の五千石で仕える身となりましたが大坂城の堀埋めの現場を高虎が視察したところ、*菅平右衛門が数日のあいだ遅参して工事が遅れた。高虎が叱責すると、平右衛門は悪口を吐き斬りつける風情であった。

高虎はこれに立腹して平右衛門に切腹を命じた。これが半生を豊臣水軍として生きた平右衛門の最後であったようです。

藤堂家の記録『公室年譜略』 淡路・菅水軍の歴史より

此年、菅平右衛門当家に従属す。菅は元予州の牧一万五千石を領し、秀吉公高麗征伐の頃は船手の将にして公と座を同じくす。この度、石田が招きに応じたるによって禄を没収せらる。公朝鮮に於いて加藤侯と船戦功論の時、脇坂侯と同じく公に加担したるによってその後、懇遇たり。よって神君に歎訴あって封内に蟄居の事を庶幾し給い、免許を得て合力として五千石を賜う。慶長十九年、大坂冬の陣の節ゆえありて死を賜う。
私に曰く、*平右衛門は慶長十三年改封の上、伊勢津郭内京口門の西に邸を賜う。今の評定所 仁右衛門高刑と不和にして向かい同士互いに塀裏に武器を不慮に備えたり。公、この事を聞き給いてその邸間に倉庫を営せらるとなり。雑話なれども父・常輔予に語るによってここに記す。

  






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